渋谷パルコ一時休業。渋谷の街ごと変えた43年を街の達人が分析

渋谷カルチャーのシンボル、渋谷パルコが一時休業

渋谷駅から公園通りのゆるめの坂を登って徒歩約5分。やがて見えてくるのは、おなじみの緑と青と赤で構成されたロゴマーク。今年6月14日に開業43年を迎える渋谷パルコである。そして今年8月7日、同施設は2019年までの一時休業に入る。

渋谷パルコ「Last Dance_キャンペーン」ロゴ編広告ビジュアル
渋谷パルコ「Last Dance_キャンペーン」ロゴ編広告ビジュアル

「Last Dance_」とは、しばしの別れとなる渋谷パルコで行われているキャンペーンの名称だ。『SHIBUYA PARCO大感謝祭』(5月29日に終了)など、様々な催しが8月7日の最終営業日まで予定されている。ラストダンス、と聞くと、1960年代のヒット曲“ラストダンスは私に(Save the Last Dance for Me)”の明るくも哀しいメロディーを思い出してしまうのは、筆者の完全に個人的な趣味だが(世代でもない。80年生まれだし)、それにしてもパルコのラストダンスは湿っぽくなくていい。

「じゃあね」のかわりに、みんなで踊れ。3年先で、待ってるよ。

いま引用したのは同イベントのキャッチコピーで、つまり「さようなら」と別れを惜しむのではなくて、「踊って楽しもう!」ということだ。これは渋谷パルコ開業以来の精神を継承する、素敵なコピーだと思う。

石岡瑛子に糸井重里。坂道だらけの立地に集まった若き才能たち

時は約半世紀前に遡る。69年に丸善石油のCM「Oh! モーレツ」がヒットしたことと、その翌年に富士ゼロックスのCMが「モーレツからビューティフルへ」をキャッチコピーにしたことは、60年代と70年代の間の、ある大きな転換を示している。それは、日本人全体が猛烈なスピードで突き進んできた高度経済成長の終わりであり、普通の人たちが日常の生活に美しさや付加価値を求める安定成長期の始まりを意味していた。そんな端境期の73年にオープンしたのが、渋谷パルコである。

同施設がオープンする以前の渋谷は、花街と高級住宅地に囲まれた静かな住宅街だった。「公園通り」は、そもそも「区役所通り」という名前で、渋谷区役所と隣接する渋谷公会堂、それに西武百貨店と東急百貨店ぐらいしか街の特徴になるスポットはなかった。若者や海外観光客が集まる現在の渋谷からすれば、想像もできないくらいのどかな風景が広がっていたのである。

渋谷パルコは、そんな渋谷の街に華やかなオープニングキャンペーンを展開していく。キャッチフレーズは「すれちがう人が美しい―渋谷公園通り」。イタリア語で「公園」を意味するパルコ(PARCO)を「人々が集い、時間と空間を共有し、楽しんだりくつろいだりする場」として構想し、必ずしも駅近ではない同所への人の流れを作るため、街のデザイン化を図り、豊かなライフスタイルを提案する仕掛けを行い、結果的に区役所通りが「公園通り」と改名されるに至った。

ヨーロッパの街並を思わせるデザインを各所に施し、オープニング記念企画では原宿表参道駅から渋谷パルコまでクラシックな馬車で利用客を送迎した。コンテンツ面では、石岡瑛子をアートディレクターに迎え「ドーベルマンを抱えた強い女×ヤギを抱えた優しげな男」という既存の男女間を逆転させたポスターで時代の変わり目を示し、読者参加型のタウン誌『ビックリハウス』を刊行してメディアと消費者の関係性に新風を吹かせた(80年代に入って、糸井重里が同誌に関わるのは有名な話)。

1973年の渋谷パルコオープンにあわせて作られた告知ポスター。アートディレクションは石岡瑛子
1973年の渋谷パルコオープンにあわせて作られた告知ポスター。アートディレクションは石岡瑛子

そういった戦略がどんな結果に至ったか? それは明らかだろう。いまや誰もが、渋谷にやって来たら無意識的に渋谷パルコのある方向へと足を伸ばす。仮に目的地がパルコでなかったとしても、そちらに向かって行けば街の活気を体感できることを、身体レベルで知っているのだ。

渋谷の街の達人いわく「渋谷パルコはキュレーションの先駆けである」

その後の渋谷パルコの発展についてみなまで言う必要はないかもしれないが、ここで一人の「渋谷の街の達人」を紹介させてほしい。シブヤ経済新聞の編集長、西樹だ。

西:渋谷パルコは、渋谷の街が他の街と差別化を図るきっかけになった存在だと思います。モノを売るだけではなく、アート、映画、演劇などのカルチャーの発信源にもなり続け、それは今も続いています。個人的な思い出話をすると、渋谷の大学に通っていた80年頃、公園通りはどんな場所よりもキラキラしていました。パート1の2階にあった欧州列車風のカフェ「a.i.u.e.o.」から、公園通りを行き交うおしゃれな人たちを見る贅沢な時間は、今も記憶に強く残っています。

アーティストの日比野克彦、大竹伸朗を輩出した『日本グラフィック展』を開催したのも、ヴィンセント・ギャロを90年代のカルチャーアイコンに押し上げた映画『バッファロー'66』を上映したのも、三谷幸喜や立川志の輔ら演劇界・演芸界の才人に飛躍のチャンスを与えたのも、渋谷パルコだった。商業的成功に留まらない文化の波を生み出したことは、パルコの偉大な業績の一つだ。

『第2回日本グラフィック展』の様子
『第2回日本グラフィック展』の様子

西:若手クリエイターを積極的に支援することで先々のマーケットを共創していくのもパルコならでは。パルコには、時代に合わせるというよりも、独自の価値観で「これは!」と思うものを押していく力を感じます。それは万人受けを目指す「広さ」だけでなく、ごく一部のマニアックな人たちに突き刺さる「深さ」を併せ持つもので、その小さな波が次の大きな話題の起点になっていった。それはまさに、キュレーション機能の先取りと言えるかもしれません。

新施設に生まれ変わる2019年秋、渋谷パルコは46歳を迎える。商業施設としては長寿の部類だが、人間としては力も知見も充実した熟練の年齢と言えるだろう。常に時代の先端を切り拓き、若い才能に活躍の機会を与え、そして利用客と共に歩んできたパルコは、どんな次の姿を示すだろうか。40代の色気と瑞々しさを兼ね備えたラストダンスのその先、ネクストダンスがどんなステップから始まるか。3年先を、待ってるよ。

詳細情報
渋谷パルコ

1973年に開業した渋谷パルコは、宇田川町15地区開発計画における都市計画の決定に伴い、パート1およびパート3を建替えるため、一時休業となる。新たな建物の完成は2019年9月を予定。8月7日の最終営業日にあわせて「Last Dance_キャンペーン」がスタートしており、特設サイトでは渋谷パルコで開催される様々なスペシャルイベントや最新情報、かかわりのあったクリエイターたちのインタビューなどを随時紹介している。

プロフィール
西樹 (にし たてき)

兵庫県生まれ。1988年、株式会社花形商品研究所を設立し、企業や新商品・サービスのコミュニケーション戦略の立案・代行を、パブリシティー戦略とプロモーション戦略を駆使しながら多数手掛ける。2000年4月、広域渋谷圏のビジネス&カルチャーニュースを配信する情報サイト「シブヤ経済新聞」を開設、同年7月にはデパ地下をテーマにした情報サイト「デパチカドットコム」を開設。「シブヤ経済新聞」は全国各地に広がりをみせ、個性的な街や繁華街など国内110エリア、海外11エリアに街メディアのニュースネットワークを拡大中。



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