『アングスト/不安』の怖さ。殺人が論理的答えとして導き出される

1983年に発表されるも、いままで日本で劇場公開されず、本国オーストリアでは一週間で打ち切り、世界各地で上映禁止となっていた、いわくつきの映画がある。そんな本作『アングスト/不安』は、実際にオーストリアで起きた一家惨殺事件を基に、猟奇的な殺人犯の視点から、凶行の一部始終をじっくりと見せていく映画だ。そう聞くとこれが当時、問題作として危険視されたというのは理解できるところである。

それから30数年経った現在、この作品がついに日本で初めて劇場公開されるという。なぜ、いまなのか。そして、なぜ公開する価値があるのか。そのような疑問は、本作を実際に観ることで、一気に氷解した。ここでは、そんな本作が、どのような作品なのかを解き明かしていきたい。

『アングスト/不安』予告編

実際に起きた凄惨な事件を、無機質な音楽と斬新なカメラワークで、常に「冷静に」描き切る

本作の主人公「K」のモデルになっているのは、1980年代オーストリアの凶悪な殺人犯ヴェルナー・クニーセクだ。見ず知らずの高齢の女性を拳銃で殺したことで逮捕されるも、自らを精神障害だと訴えたことで、9年未満という短い期間で出所することになった。このクニーセクという男は、出所を前にして刑務所から外出を許されたときに殺人衝動にかられ、忍び込んだ邸宅で新たに凄惨な一家殺人を行うことになる。

本作は、その事件を逐一忠実に再現しているわけではないが、それでも大筋ではかなり類似した内容が描写されている。ヨーロッパを中心に活動している俳優アーウィン・レダーが演じるKは、高級住宅地を徘徊し、近隣に建物がなく、瀟洒で広々とした「理想的な」邸宅を見つけ、侵入する。久しぶりに刑務所の外に出たことで、この邸宅でのひとときは、彼にとってまるでバカンスのような開放的な感覚であっただろうことが伝わってくる。

そこに住んでいたのは、年配の女性と若い娘、車椅子に乗った男性だった。Kに腕力で対抗できる者はおらず、これもKにとっては非常に好都合だ。そこからは、ひたすらリアリティのある殺人描写が続いていく。ときにそれはむごたらしく、ときにシュールな雰囲気が漂う。そこに流れるのは、ドイツのミュージシャンで、Tangerine Dreamのメンバーだったクラウス・シュルツェの楽曲だ。ドラムが印象的な無機質な音楽は、人を殺していくKの残忍な行動を、ドラマチックではない方向に抑制していく。それが、本作全体を端正でモダンな質感に整えている。

©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion

また、当時新しかったステディカメラを使った、揺れを抑えた主観的な映像が、異様な行動を続けるKの、高揚していても冷静な部分がある精神状態を主観的に表現しているように見える。同時に、おそらくクレーンを使用しての高い位置からの撮影は、逆に作品に客観的な視点を加える。この二つのアプローチによって、本作は立体的かつ冷徹な印象が与えられるのだ。

その斬新な演出はギャスパー・ノエ監督に多大な影響を及ぼしたというが、本作の洗練された作風は、むしろ後のノエ監督よりも先をいっているように感じられる。監督のジェラルド・カーグルは、本作一本のみで、その後長編映画を撮っていないが、これほどの能力を持った人物が巨匠監督として世界で活躍し続けるような状況にならなかったことは、映画界にとって大きな損失だといえよう。

『アングスト/不安』ファン代表ギャスパー・ノエから異例のメッセージ

これまでにない丹念な殺人描写。残忍ではあるが、ポリティカル・コレクトネスの観点から見て、偏見を生み出すものではない健全さ

一家殺害事件の丹念な描写によって気づかされるのは、体力的に劣る人物たちを殺害するとはいえ、人間を殺すということは非常に重労働だということだ。殺されないよう必死に逃げ暴れる人物を押さえつけ、致命傷を与え、さらに死体を移動させたりするのは、かなりまとまった時間と作業量が必要となる。

その作業をこなしてへとへとになってしまう殺人者の姿を見ていると、見ている側も、殺人というおぞましい響きを持った概念が、具体的な作業の累積であるという、当たり前の事実に気づかされる。それは、豆腐屋さんが豆腐をどのように作るのかを、一つひとつの行程を追うことで学習できるのと近いのかもしれない。一人の猟奇殺人犯の仕事というものを、一連の作業として理解できる。考えようによっては、これは不気味なことである。

©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion

興味深いのは、このように過激な描写が続きながらも、本作はとくにKに肩入れするわけでなく、逆に殺人をヒューマニズムの観点から断罪しているわけでもないということだ。ただ、犯行の一部始終をそのまま追っていくという実験的な要素のある作品なのである。そのおかげで、本作は下手な描写によって偏見などが入り込む余地も少ない。つまり、ポリティカル・コレクトネスの観点からいって、当時の多くの映画作品や、現在のファミリー向け映画などと並べても、じつは比較的健全な位置にあり、現在の観客にとってむしろ受け入れやすい公平なものになっているのではないかということだ。

よく誤解されるが、基本的にポリティカル・コレクトネスという概念は、それが正しく機能すれば、差別などに反映するような偏見を助長する表現を許さないというだけで、過激な表現そのものをやみくもに断罪するわけではない。問題は、その過激な表現にどんな意味を与えるかということである。本作がいま公開できるというのは、1980年代から2020年までに様々な価値観の変化が起こり、表現に対する考え方が進んだことによって、本作を正当に評価する準備が整ってきたということなのではないだろうか。つまり、世の中の側が作品に追いついたのである。

©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion

無慈悲な殺人が、私たちにとっても「理解可能な人間的感情」だということに戦慄を覚える

それにしても、なぜこのKという男は、犯罪者になるというリスクを負い、人間としての道を踏み外してまで、このような作業を行おうとするのだろうか。初めは、この不可解さが不気味に感じるのである。だが、その怖ろしさを感じながら、Kを非人間的な存在として犯行を追っていると、さらに怖ろしいことが分かってくる。じつはこのKという男は、生い立ちや子ども時代の環境に恵まれなかったことで、大人になっても負の感情を抱えたまま生きてきたことが分かってくる。つまり、彼が一家を狙った感情のなかには、自分の過去の仕打ちに対する復讐心があったのである。

ここで、理解不能だと思っていた無慈悲な殺人が、じつは理解可能なものであることに、われわれは戦慄を覚えることになるだろう。もはや人間ではないと思われたKは、紛れもなく人間的な人物だった。猟奇殺人などいままでしたことがないし、これからもする予定はない、世の中の大部分に属するわれわれであっても、これまで誰かに傷つけられた経験があり、それが多かれ少なかれ、ずっと心に残り続けている部分があるはずである。それに対して憤りや復讐心を持つというのは、むしろ人間的な感情といえるのではないだろうか。

©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
©1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion

戦争を代表的な例として、特殊な環境では「殺人を犯す」ことが論理的になりうる

第二次大戦中にナチスドイツが、自国民であるユダヤ人たちをガス室に押し込めて、家畜であるかのようにまとめて大量殺戮していたことを思い出してほしい。そこで党の命を受けてユダヤ人を殺害していたのは、少し前までは同じ市民であり隣人として生活していた人々である。「善良な人間」「常識的な人間」とされていた人たちが、周囲の状況に応じて、粛々と、淡々と殺人をこなすようになる。それは、理解不能なことではない。

日本では2016年に、相模原市の障害者施設で19人の入所者を殺害し、さらに他の入所者や職員らに怪我を負わせるという、その規模においては、本作のモデルになった事件をはるかに超えるほどの重大事件が起きた。事件の犯人は、政治家へ宛てた手紙のなかで、「日本国と世界のため」と記している。つまり、障害を持つものは殺害した方が世のためであり人のためなのだという思想を持っていたということが推測できる。これは、「優生学」を基に障害者を安楽死させるという政策をとったナチスドイツの思想に非常に似たところがある。

優生学は、あらゆるカテゴリーへの差別ともつながる、人権を踏みにじる考え方であり、この犯人の思想もまた、稚拙で幼児的であることは間違いない。その一方で、犯人の頭のなかでは、その身勝手な考えが論理的に働いていたことも確かであろう。つまり、この日本の凶悪犯罪は、常軌を逸した支離滅裂な行為ではなく、はっきりとした目的のある思想的なものだと考えられるのだ。こうなるとわれわれと殺人者の間に、絶対に飛び越えられない線を引くことなどできるだろうか。われわれは優れた倫理観や論理性を持っているから殺人を犯さないのでなく、周囲の状況に応じて殺人を犯さないようにしているだけなのではないか。であれば、周囲の状況が反転すれば、殺人を犯すことなど容易になってしまうではないのか。その代表的な例が、戦争である。

誰のなかにも存在する暴力性、加害性。この映画を観て私たちは、自身にも存在するそれらを見つめなければならない

本作は、一見支離滅裂にも感じられるKの殺人を、丹念にとらえていくことで、彼の中の一種の合理性を際立たせていく。そして、観客に殺人者の視点を共有させていく。このことで、誰のなかにも存在する暴力性や加害性と、殺人犯の思考のなかにあるものを繋げてしまう。これが、本作の最も怖ろしい部分なのである。

これはただ「怖ろしい」というだけでは終わらない。日本では大きな事件があったとき、メディアはその異常性をことさら騒ぎ立てる傾向がある。昔から使われる「殺人鬼」という言葉にも、そんな行為をすることは人間ではないという見方が含まれる。しかし、殺人を犯す人間が、自分とは全く違う存在だと切り離せば、その内面はいつまでも理解することはできず、凶悪犯罪を抑制する具体的な方法に結びつくこともないのではないか。そして、誰のなかにも存在する暴力性、加害性を軽視することにもつながってしまうのではないのか。

『アングスト/不安』は、文字通り、そんな観客の安心を切り裂き、不安へと周到に誘う傑作である。そしてわれわれは、本作を観ることで、不安にならなければならないのではないだろうか。

ちなみに本作では可愛らしい犬が出てくるが、犬はどうなるのか? という視点で見てみるのもまた一興だ

作品情報
『アングスト/不安』

2020年7月3日(金)全国順次公開

監督:ジェラルド・カーグル
撮影・編集:ズビグニェフ・リプチンスキ
音楽:クラウス・シュルツェ
上映時間:87分
配給:アンプラグド



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