「フジワラノリ化」論 第8回 堂本剛 彼は“本格派”なのか 其の一 ジャニーズの誰かを論じるということ

其の一 ジャニーズの誰かを論じるということ

この連載「フジワラノリ化」論は、サブタイトルにあるように、必要以上に見かける気がする芸能人について、なぜ必要以上に見かけるのか、その要因を探りにかかる論考である。今まで取り上げてきた関根麻里であり、土田晃之であり、彼らがテレビに頻出するワケを探究する試みは、彼らが「何となく」テレビに出続けているわけではなく、きちんとした自己認識と発散の方法を見つけ出していることを示す意味で有用な取り組みだったと思っている。テレビの中に対して妙に冷静になっている現在の視聴者は、ちょっと流行ったり、いろいろな番組で重宝されるようになった誰それを見つけると、どうせ事務所の力でしょとか、使い回しするテレビ番組の作り方を非難しようとする。それは一見正しいようで、正しくない。あくまでもこちらはテレビの外にいる。テレビの外にいる者が、テレビの中に入って対象を論じることは適当ではない。テレビの外、すなわち、どう映っているのかについて議論を深めなければならない。「日経エンタテインメント!」のような雑誌を読んでいると、テレビの中についての事情がひたすら書かれている。芸能人のギャラの話、視聴率の話、次に人気者になるであろう新世代の紹介、テレビの外にいる人間に対して、中の情報を浴びせかけるだけ。でもその情報は重宝される。お茶の間が業界化し、業界がお茶の間になだれ込む構図にある。その中で、芸能人に対するジャッジが、その個人について丁寧に突き詰める事無しに、周辺情報だけで片付けられるようになってしまっている。

「フジワラノリ化」論 第8回 堂本剛

今回、堂本剛を取り上げるのも、そのジャッジに対する不信感に拠る所が大きいからである。ジャニーズに対する評価というのは、両極端である。信じ込む者と掃き捨てる者、この両者しかいない。ジャニーズ事務所の権限の強さについて考え抜いた所でそれが何になろうと思うのだが、ジャニーズの批判をする者は、必ず事務所がどうのこうのという論旨に終始する。すなわち、テレビの中の文脈で終わらせようとする。確かにジャニーズ事務所のタレントがテレビを牛耳っているのは疑いの無い所だ。連続ドラマの配役はジャニーズの駒を各局にまぶしているかのようだし、優れた放送作家が書いたシナリオをイケメンがそのまま演じることでジャニーズは笑いも取れるという評価を易々と与えてしまってもいる。毎年出るジャニーズの各グループのカレンダーを発売する為に出版社が慎重な付き合いを余儀なくされているとも聞く。しかし、それらの情報は、とりわけ視聴者に降り掛かってくる情報ではない。あくまでも業界の中で起きていることだ。中で起きていることにわざわざ足を踏み入れて頷くだけでは、その人物の評価を定めたとは言い難い。タレントに向かうイエロージャーナリズムは個人的にも大好物だが、しかし、その方法論が具体的に当人に響くかとなればそんな事はない。2ショットの写真を撮られさえしなければ問題は無い。「らしい」「のようだ」と噂されている程度では、彼らには響かない。

音楽評論家の烏賀陽弘道氏が、オリコンから名誉毀損で訴えられた事件をご存知の方も多かろう。『月刊サイゾー』に掲載された、「ジャニーズはVIP待遇!?オリコンとジャニーズの蜜月関係」という記事にコメントを寄せた烏賀陽弘道氏がオリコンから5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こされたのだ。ジャニーズ事務所の作品がオリコンチャートの中で優遇されているのではないか、実際の売り上げとの乖離が見られる、という主旨の記事だった。問題は、その記事自体が烏賀陽氏の執筆記事ではなく、コメント取材によってまとめられた編集部主導の記事だったにも関わらず、オリコンはサイゾー編集部を通り越してコメントをしたにすぎない烏賀陽氏を訴えたことである。ライター個人の力は弱い。組織が個人に畳み掛ければ適いはしない。その非道なやり方に非難は集中した。単なる弱い者イジメに閉口したが、では、オリコン側がなぜここまで躍起になったかとなればその対象がジャニーズだからと予想することは容易い。メディアの在り方が、簡単に個人のジャーナリストの意見やお茶の間の言動まで忍び込んではならない。ならない、というか、それではつまらなくはないか。もちろん、逆も然りである。

ジャニーズのタレントについて、みんなが慎重になっている。それは、テレビ雑誌の類いは勿論、そのテレビや雑誌を需要するこちら側も同様なのである。慎重にならずとも、媒体が慎重になっているということを黙認している。ジャニーズってそういうもんだから、という黙認。それってどうよ、と思う。そんな所で事情通になってどうする。気がつけば、ジャニーズの誰それについて真剣に論じる機会が失われている。業界に準じた暴露と、業界に準じた礼讃だけがジャニーズの周辺にまとわりついている。しかし、それでいいのだろうか。木村拓哉でも櫻井翔でも亀梨和也でも、単なる個人に立ち返って、媒体に映る彼らを論じる機会があるだろうか。無い、とことん無いのだ。

個人的にジャニーズに対する思い入れが無い。とことん無い。ならば、「とことん無い」同士だ。「ジャニーズの個人に対する非・業界的論考」はとことん無い。「個人的なジャニーズへの思い入れ」もとことん無い。ジャニーズを論じる上で最も欠けていた視座と立場ではないか、と動機付けてみる。前回、モーニング娘。にいた辻希美を論じた際、その論考に対する批判を、ネット上でいくらか見つけた。それは要約すれば「全然わかってねぇよ」というものだった。間違っているよ、ではなく、分かってない、という批判。それは私に言わせれば批判ですら無い。キミの「分かっている」になずらえる気は毛頭ないからである。情報通であるキミに頭を揃えるように情報を蓄えました、と報告したいがために書いているのではない。ジャニーズ関連の言及は更なる監視網があるだろうから、それに引っかかってピーチクパーチク言われるかもしれないが、そのハードコアな喚きを封じる意図は無い。その意図を無視してズケズケと入り込むのであれば無理に追っ払いはしないが、史実はこうなのに、ファンはこうなのに、は辟易するのでやめてもらいたい。キミらの指針は、キミらの指針に過ぎない。ジャニーズにおけるマニフェストではないのだ。その認識をまず持ってもらいたい。今回取り上げるのは、Kinki Kidsの堂本剛である。この人が広げようと必死になっている「自己」というものが気になっていた。気になった途端、彼が自身でその自己を方々へ散らかしているように思えた。今回は堂本剛について論考を重ねていく。次回はまず、「『硝子の少年』の磨かれ方」と題して、堂本剛の道程に寄り添いながら進めていく。ただし、それは「監視網」に褒められるやり方ではないだろうから、その点は悪しからず。



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