そこでなにが起きていた? 幻の「映像展」が43年の時を経て再演

「再演=演劇などで同じ演目をふたたび上演すること、または俳優が同じ役でふたたび出演すること」。しかし、ここで「再演」されるのは演劇でもダンスでもなく、美術展です。アートの展覧会を再演するとは、いったいどういう試みなのでしょうか?

その「初演」は1972年、京都市美術館でわずか6日間だけ開催された美術展『映像表現 '72 —もの、場、時間、空間—Equivalent Cinema』。若手アーティストたちがその熱意によって自主的に企画し、当時フィルム主体だった「映像」について、劇場映画とは異なる表現の可能性を探りました。43年の時を経た2015年のいま、緻密なリサーチでこの展覧会を蘇らせたのは、東京国立近代美術館。私たちがそこで出会うのは、歴史の追体験か、あるいは新しい鑑賞体験か——。担当研究員の三輪健仁さんを案内役に「Re: play」の扉をくぐります。

43年前に、京都で6日間だけ開催された「映像展」を再演

フィルム映写機やスライドプロジェクター、ビデオデッキなど、いまでは目にすることも珍しい映像機器の機械音が静かに響き合う会場。薄暗がりのあちこちで、さまざまな映像が流れ、ループ上映のために蜘蛛の巣のごとく張り巡らされたフィルムや、映像を反射させるいくつもの鏡も印象的。順路も仕切り壁もなく、私たちが「映像展」と聞いてイメージするものとはだいぶ異なるカオティックな空間が広がります。

彦坂尚嘉『フィルム・デュエット:垂直の海(UPRIGHT SEA)』
彦坂尚嘉『フィルム・デュエット:垂直の海(UPRIGHT SEA)』

これは、1972年に開催された催しの「再演」。アートの展覧会の再演とは、どういう試みなのでしょうか? 発案の張本人、東京国立近代美術館研究員の三輪健仁さんに聞いてみました。

三輪:過去の美術展が、時を経てふたたび開かれるのは、これまでに例がないわけでもないんです。特に近年、1960、70年代の歴史的展覧会を再現する、注目すべき試みがいくつか続いています。対象が70年前後に集中する理由の1つは、この時代に、額のなかの絵画や台座上の彫刻などの形式に収まらない表現が多く生まれはじめたことでしょう。そのような表現は、展覧会という空間も含めて観ることでこそ真価がわかる、という動機があるのではないかと。また数十年経って、歴史化できる距離感になったからこそ、こうした試みが新たな意味を持つともいえます。

『Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演』エントランス
『Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演』エントランス

植松奎二『Earth Point Project ― Mirror』
植松奎二『Earth Point Project ― Mirror』

『映像表現 '72』展の「初舞台」は1972年、京都市美術館でのこと。映画館ではなく美術館で、16作家による複数の映像作品を一堂に展示したものでした。いわゆる映像アーティストが集まったわけではなく、絵画や彫刻を表現手法にする美術家たちが参加したのが特徴的。ただ、この時代を代表する記念碑的な美術展、というわけではないようです。三輪さんはなぜ、再演対象としてこの展覧会を選んだのでしょうか?

三輪:映像を対象とする展覧会だったから、というのが大きな理由の1つです。先ほどお話したような近年の再現展覧会でも、ここまで映像に特化したものはあまりないのではと思います。また、映像はものとして残る作品ではなく、かつ『映像表現 '72』の出展作の多くは、単にフィルムを壁に投影すれば事足りる作品ではありません。つまり、展示空間全体を感じられないと当時のことはやはりよくわからない。わずか6日間だったこともあり、実際に観た人も限られています。僕自身、生まれる前の展覧会なので、自分も観てみたいという欲望を刺激されたともいえます。

郵便の「遅配」で『大阪万博』に参加できなかったアーティストによる、「遅延」をテーマにした映像作品

それでは、実際に会場をめぐってみましょう。入口で来場者を迎えるのは、山本圭吾の『行為による確認 No.1』。並んだ2つのテレビは来場者の姿をリアルタイムに映し出し、左側の画面には天地がさかさま、右側の画面には、実際より数秒遅れの映像が流れます。シンプルな仕掛けが、映像メディアのふだん意識しない「ズレ」を考えさせる? 43年前を再現する今回の展示にあたっては、新たな意味も宿るプロローグといえそうです。

山本圭吾『行為による確認 No.1』
山本圭吾『行為による確認 No.1』

三輪:「遅延」は山本さんの大きなテーマなんです。彼は1970年の『大阪万博』に美術家として参加するかもしれなかったのですが、福井県の当時は交通が不便な場所に住んでおり、重要な会議の知らせを郵便で受け取ったときにはもう出席に間に合わなかったそうです。そんなエピソードも考え合わせると、また興味深いですね。

「映像」が本職ではない当時のアーティストたちによる、数々の実験的な試み

柏原えつとむの『足を洗いましょう』は、タイトル通りの文言がバリエーションをつけて記されたスクリーンに、実際に足を洗う映像のアップが延々投影されるというもの。どこか人を食ったような作品にも見えますが、多岐にわたるメディアを駆使してきた作家が、映像を「素材」になにができるか? という試みにも思えます。

柏原えつとむ『足を洗いましょう』
柏原えつとむ『足を洗いましょう』

三輪:柏原さんは、当時「美術の世界から足を洗おう」と親しい人に口癖のように言っていたそうなのですが(笑)、タイトルはその言葉にもつながっています。いまなお作家活動を続けてらっしゃるので、洗い終わることのないこの映像ともリンクするようです。

そして、対面する2つの壁に向けて設置した映写機2台の間で、16ミリフィルムをまさに「ループ」状に再生し続けるのは、彦坂尚嘉の作品。ひたすら海面をとらえた映像に奇妙な光の線が降るのは、架け渡された長いフィルムが床を這う際についた傷の跡です。データであると同時に「モノ」でもあるフィルムならではの仕掛けから、豊かな連想が広がりそうです。ほか、何枚もの鏡に映像を連鎖的に反射させてゆく庄司達の空間造型的な試みなども。たしかに、四角いモニターで映像を流すだけでは追体験できないものが、ここでは再演されているようです。

庄司達『無題』
庄司達『無題』

当時の写真に写る「通気口のサイズ」から、展示物のサイズや距離を割り出した

この「再演」のために、三輪さんたちは作家の手元に残っているであろう作品を根気よく探し集め、あらゆる手がかりをもとに当時に忠実な展覧会作りを目指しました。会場の周囲をぐるりと囲むもう1つの展示空間では、そうした舞台裏とも言えるあれこれを目にすることができます。

『Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演』外側の展示空間の様子
『Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演』外側の展示空間の様子

石原薫『Mou-§ 178』
石原薫『Mou-§ 178』

三輪:まず、当時の会場図面や記録写真、カタログ、展評、出品作家への取材などから、会場面積、機材の種類、配置などあらゆる要素をできる限り正確に割り出しました。京都市美術館はいまもほぼ当時と同じかたちで残っているので、現地で採寸したり、通気口のサイズを元に写真にうつるモノのサイズや距離を推定したり……。われながら、ちょっとビョーキのような執着心かもしれません(笑)。ちなみに今回の会場構成は、オリジナルに極力忠実な採寸をした上で、90パーセントのサイズで計算してあります。これは周囲の資料展示空間を確保するためです。

『映像表現 ’72』を企画したのは、出展作家たち自身でした。彼らは京都を拠点にする作家を中心に、府外や海外在住の日本人作家にも声をかけ合って集まり、実行委員会を組織。合議制で展覧会をいちから築いていったのです。1970年代当時の若い才能から生まれた熱意や意欲は、手書きの会議記録や、当時のパンフレットにもみることができます。

三輪:展覧会パンフレットは、通常のように本として綴じるものではなく、1枚ずつ独立したカードになっていました。これは、劇場で観る映画のように、はじめから終わりまで、定められた順番に沿って観るものではないという、この展覧会のコンセプトとリンクしています。カードには各作家が作品のプランを記しています。また会議記録を見ると、話し合いのなかから、作家たちが意欲的にこうしたアイデアを採用していったことがわかります。

パンフレット
パンフレット

ちなみにこの貴重なパンフレットも、今回の展覧会カタログとして「再演」されています! 当時は資金集めのためか、映画館や喫茶店などの広告(これもカード)も挿み込まれましたが、そこもコンプリートする徹底ぶり。さらに作家のカードには彼らの住所と連絡先も載っていて、「ここに電話したら、1972年当時の彼らが出てくるのだろうか……」という妄想に駆られます。

三輪:すでに亡くなられた作家もいますが、お元気な方々には当時を振り返ってもらう取材も行い、その映像も展示しています。僕があまりに事細かに彼らの記憶を辿ろうとするので、「尋問されているみたい」と辟易されたこともありました(苦笑)。また、今回は貴重なオリジナルフィルムを長期間にわたって映写機でループ再生するわけにいかないため、いまでは困難な8ミリフィルムへの複製にも挑戦しました。その過程も紹介しています。



緻密にこだわっても再現できない「ズレ」から、いまの時代の空気を再発見する

緻密な「再演」にこだわる三輪さんですが、じつは瓜二つの展覧会を仕立て上げることより、むしろそれを突き詰めたうえでも避け難く生じる「ズレ」への興味があるといいます。

三輪:たとえば「再現」なら、過去といまがぴったり重なることがベストなのかもしれませんが、現実的には不可能で、起こりえないことですよね。今回でいえば、時代も場所も大きく違いますから。舞台であれば、演出家がオリジナルの台本をいかに読み込み、解釈するかが重要だと思いますが、そこには初演時の「すべて」が書き込まれているわけではないし、時代ごとの価値観も反映されるでしょう。ですから、むしろそこで生まれる「ズレ」からこそ、いま現在のアクチュアリティーが読み取れるようにも思えます。今回「再演」とした真意にはそんな関心がありました。そして、その「ズレ」は、ひたすら忠実さを追求した先に、はじめて現れるものではと考えたんです。

同じ台本や楽譜に基づきながらも、時代時代の空気や才能によって、その都度生まれ変わるのが舞台の再演。展覧会も、いまを生きる人々が再構築し、それを体験することで、単なる回顧を超えた新発見や気づきが得られるのかもしれません。「再演」会場と資料の展示を行き来しつつ、そんなことも感じました。

数十年後、さらに「再演」されるときのことも考えて……

ただ、やはり展覧会と舞台の「再演」では、決定的に違うところもあります。今回、出展作のなかには、すでに廃棄され、または所在不明となって展示不可能なものも数点ありました。いわば役者の不在であり、「代役」も不可能な事態。これらについては、どう考えたのでしょう?

三輪:そうした作品については、展示されていた場所を点線で囲み、記録写真があるものはそれを貼りつける、というかたちをとっています。「ズレ」こそが面白いのではと話しましたが、こちらでなにかを付け足してしまうのは違う。ほかにも設営してみると、「この機材と台はもう少し離したほうが効果的では?」などと思う部分もありましたが、それは心のなかだけに留めて(笑)、あえて変えませんでした。

今井祝雄『切断されたフィルム』
今井祝雄『切断されたフィルム』

三輪:一方、仮にいまから数十年後、さらにこの展覧会が「再演」されると想像すると、そこでは今回の展示図面や記録も参照されるでしょう。そのとき、オリジナルの記録資料にはない設営データなどが参考にされるのは問題にならないか、ということも考えました。でも先日、今回の会場構成をしてくださった建築家の西澤徹夫さんとこんな話をしました。たとえば元の台本に「ここで前へ進む」とだけあったとき、今回の試みはそこに「3歩」と具体的な数字を書き入れてしまうような一面があるかもしれません。でもそれは必ずしも解釈の幅を狭めることではないのでは? と。数十年後に「再演」を試みる人は、今度は「3歩」をもとに、またはその「3歩」があるからこそ、「5歩」とすることも可能になる。だから少なくとも、それが今回加えられた記録だとはっきりしていれば、新たな解釈も含めてポジティブに考えてもいいかもしれません。

未来を考えるヒントは、過去から届くこともある

三輪さん自身は、ついに完成した展示会場にはじめて足を踏み入れたときの感想を、「ビビッドで刺激のある空間だった」と話してくれました。彼が準備のためにさんざんにらめっこしてきた当時の記録写真はモノクロのみ。しかし、実際にはカラーフィルムを用いた映像も多くあり、また機材やフィルムがあちこちで隣り合うように稼働する光景には、ノスタルジーを超えたリアルな息づかいがあります。

三輪:作品一つひとつに着目すると、秀逸なクオリティーぞろいというより、むしろそれぞれが「映像を使ってなにができるのか?」の実験精神を発揮したように見えます。その取り組み方はそれぞれですが、全体としてとらえることで感じることもあります。たとえば、暗い劇場で観衆が着席して観る映画とは違う表現の探求や、映像というメディアが扱う虚構性も現実性も、等しく受け止めたうえで自らの表現にしているところ、などでしょうか。

1972年前後というと、娯楽映像メディアの王座が映画からテレビへと本格的に移り変わった時期。人類初の月面着陸も、ベトナム戦争も、歴史的な出来事がテレビで即時にシェアされるようになりました。同時に、伝統や権威に対するカウンターやオルタナティブの動きも——。こうした世界の様相が一部では当時より複雑化し、不用意に単純化されて語られることもあるいま、私たちはここで、歴史巡りを超えた再発見もできるのではないでしょうか。

山中信夫『ピンホール・カメラ』
山中信夫『ピンホール・カメラ』

会場の一角にある山中信夫の巨大なピンホールカメラは、唯一、当時の資料から再制作を行ったもの。真っ暗な箱のなかに入ると、そこでは目の前の会場風景画像が天地倒立した状態でおぼろげに像を結んでいます。それは、タイムマシンのなかから1972年の会場を眺めるようでもあります。

三輪:美術館が扱い、継承していくべきは、物質的な作品ばかりではありません。そこで起きるさまざまな一回性の「出来事」、たとえばその代表的存在である展覧会も、継承の対象としてなんとかして扱っていくべきだし、その方法はあるだろうと考えています。

三輪さんは、いわばカーテンコールのようなこの言葉で、案内を締め括ってくれました。「未来を考えるヒントは、過去から届くこともある」。誰かが言ったそんな言葉をふと思い出した、美術展の「再演」体験でした。

イベント情報
『Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演』

2015年10月6日(火)~12月13日(日)
会場:東京都 竹橋 東京国立近代美術館
時間:10:00~17:00(金曜は20:00まで、入館は閉館30分前まで)
休館日:月曜(11月23日は開館)、11月24日
料金:一般900円 大学生500円
※高校生以下および18歳未満、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料

『FILM NOW 3日間の映画会』再演
2015年11月28日(土)、11月29日(日)14:00~16:00(開場13:30)
会場:東京都 竹橋 東京国立近代美術館 講堂(地下1階)
料金:無料(要展覧会鑑賞券 使用済み半券も可、申込不要、先着140名)
11月28日上映作品:
1. ウィルヘルム&ビルギット・ハイン『ラフなフィルム』※16mmフィルム上映
2. 荒川修作『WHY NOT』(DVD上映)
11月29日上映作品:
1. アルド・タンベリーニ『ブラック・TV』
2. ブルース・ベイリー『タング』
3. スタン・ヴァンダービーク『ブレスデス』
4. 安藤紘平『オーマイ マザー』
5. 松本俊夫『エクスタシス』
6. 松本俊夫『メタスティシス(新陳代謝)』
7. 松本俊夫『オートノミイ(自律性)』
8. 松本俊夫『エキスパンション(拡張)』
※全て16mmフィルム上映



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