
vol.265 「国」をTSUTAYAに返す前に(2010/3/1)
国を背負ってセブンイレブンでおでんを買ってこいと言われたら、僕はどうやったって買いに行けない。突然飛び出してくる子供を回避出来ずに汁をこぼしてしまったら、僕は責められる。国を背負って買いに行っているのだから、それだけの自覚を持って欲しいと。自転車に補助輪をつけて行けば良かったのか、それともタクシーを呼び寄せる必要があったのか。でもその場合、信頼のおける運転手を選択しなければならないじゃないか。
オリンピックという一大行事になると、突然、国家が輪郭化する。背負うとか、選ばれた自覚を持ってとか、大きな母体を担がされる。担がされるのをヨシとする人は率先して担げば良いが、半ば強制的に担がされている人たちもどうやら沢山いるようで、のほほんと国から逃れていく人も入れば、私自身との勝負ですと個に絞り切った宣言をすることで国を振り払う人もいる。皆それぞれが国の濃度をどうしようかと戸惑っている。スノーボードの彼の話。シャツを出す、というのが、その懸命な方法だったとは思わないけれども、あれはあれで「違います、国ではなく個人です」という告知の一種だったのだろう。
僕は本当によく分からずにいる。スノーボードの上手い青年が、世界一スノーボードが上手い人を決める大会が行なわれる空港に、なぜシャツを出して降り立ってはいけないのかという理由が。同じ日本人として情けないと誰かが言った。それに対して大勢が頷いた。スーパーの「サミット」で見かけた、パジャマ姿のまま特売の卵をまとめ買いする主婦を同じ区民として情けなく思うと僕が言った場合、それは区民の共感を呼ばないだろう。でも実は、構図としては一緒なのである。国を背負うというのは、本人が付属させた物語ではない、明らかに付着主が周りにいる。
要望があって、それを承認して、最後に遂行する。それが物事の道程というものだ。この場合においては、こう変換される。国を背負ってくれと願い、その願いを本人がもちろんそのつもりですと了解し、国民の期待に応えるため懸命に臨む。こう考えれば一目瞭然だが、本人の意向無しに「国を背負う」という前提を植え付けることは、非常に失礼である。国を代表してプレイすることにオリンピックの美学があるという輩は多いが、考えてみて欲しい、4年間そのために集中してきた選手は、2週間前位からようやく盛り上がってきちゃった連中に、「国を代表していくんだから頼むよ」と言われるのだ。ちょっと待て、都合が良すぎないだろうか。4年間我々があらゆる体たらくに興じている時も、彼等はおそらく、細かな差を作り上げるために必死になっていたはずだ。
その備蓄をいよいよ披露する本番に向けて、本人がどんな格好をしようが態度を取ろうが、そんなことにはひとまず寛容でなければならない。国という主語をレンタルした皆に取っては由々しき事態のようだが、本人は本人を4年間も背負ってきたのである。この時、どちらを優先するかは明らかであろう。あらゆる事象の中で、これほど「本人が本人でいるために最善の方法を取ればいいに決まっている」場面は無い。2週間後に返却する「国」とやらが、本人に響くわけが無いし、響かせる必要は無いのだ。
どうしてみんな、他人には大きな枠組みをなすり付けるのか。冒頭の繰り返しになるが、国を背負ってセブンイレブンでおでんを買ってこいと言われたら、あなたは行けるだろうか。汁を一滴こぼしたら減点、ただし1分24秒以内に家までつかないと国際基準により失格とする、見た目もこんにゃくと大根のバランスよく配置されていなければそれも減点の対象となる。ああもう、うるせーよ、んなもん、わかってるよ、こっちで完璧にするしさ、そもそも、国を背負ってやらなきゃいけねえことに、いつからなったんだよと声を荒げるだろう。
多分、この年末に、あのシャツを出した彼の名前を出したら、半数以上は失笑するだろう。彼は誰に向かって謝罪会見をしたのだろう。その時の相手だったかもしれない「国」はもうすぐ霧散してしまうだろう。本番に向けてあらゆるテンションを調整してきた彼に対して、僕たちはどうやら、本当に失礼なことをしてしまったのだと思う。