CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』

CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』2010年6月配信分(vol.277〜280)

vol.277 最低でも県外 〜駅構内ver.〜(2010/6/7)

全裸

電車を待っている。そこに、落ちたての鳩の糞を発見する。駅構内を旋回する鳩のいくらかが見える。整列乗車の時間ではないけれど、停車位置の枠線内に並んでおきたい。その停車位置の先頭付近に、落ちたての糞があったのだ。この時、どうするべきか。2択だ。その糞が落ちた付近を避ける。或いは、敢えてその糞が落ちた所をまたぐように立つ。その日の僕は、後者を選んだ。後ろのベンチから見ていた老人がいたとすれば、おお果敢なチャレンジをしたもんだと最近の若者を見直しただろうし、妙齢の女性がいれば、あわよくば抱かれても構わないくらいの男気を感じたことだろう。しかし、心の内は違っていた。統計の問題を解いていた。つまり、鳩の糞は、次どこに落ちるのだろうかと考えた場合、今そこに落ちた糞に更なる糞をかぶせてくる可能性はほぼ皆無なのではないかと、解いたのだ。うわ、落ちたての糞があるわと一歩二歩下がる。しかし、そこにこそ、次の糞は降ってくるのではないか。街中の、鳩の糞だらけの一角を思い起こす。糞は、点画のようにあちこちに降り散らかされていた。ここに一つの糞があるのならば、次は、ここではないどこかへ(C:TAKURO)である。さて、どこなのか。

乾かぬ糞をまたいで電車を待った。急行が通過するので危ないと思い、一歩後退して通過を待った。その間、天井付近を見上げていた。次の糞がここに降るかもしれないからだ。急行が過ぎ去る。安心して一歩前へ、再度糞をまたぐ。今にも、次を出しますよ、というテンションで鳩が旋回している。ハンカチ落としかロシアンルーレットか、とにかく俺ではないよなという闇雲な自信を脳内で育てながら、次なる糞の放射を待つ。誰も、乾かぬ糞の周りに寄って来ない。いつもなら、2列×3人くらいの待ち人がいるはず。しかし、今日は、乾かぬ糞と、またぐ自分がいるだけだ。誰も俺について来られないのか、と、気が大きくなるばかり。むしろ糞はここには落ちないのだ、だから安心して来れば良いのにと、余裕しゃくしゃく、ほくそ笑む。

うちの兄が小学校への登校時、外へ出て靴ひもを結ぼうと屈んだ所、そこにポタンと鳩の糞が落ちてきた。頭に落ちてきた。しかし、兄は帽子を被っていた。その帽子は昨日買ったばかりの、その日から被っていく帽子だった。だから多分あの時、兄は泣いたのだと思う。折角買ったばかりの帽子がぁ、と。しかし、今になって思う。その帽子がなければ兄は鳩の糞まみれだった。帽子は、紫外線をどうのとか、何かから守ってくれるものらしいのだけれども、実はそんなに守ってくれていない。それを皆、知っている。だから、ファッションの要素に甘んじてしまうのだ。その点、この帽子は兄を守った。初日の殉職でも、それは帽子としての生き様を全うしたのだ。帽子をズラして被るラッパーの類いを見かけると、ああ、糞よ落ちろと思う。ズラしてしまったがゆえに顔の表面にかかった糞、という結論が、ファッショナブルな帽子にはよく似合う。

糞をまたいで遠き日の想い出を蘇らせていると、ようやっと電車がやってきた。結局、鳩は2発目を放たなかった。屋根とか線路とか、どこか別の所で放ったのかもしれない。つまり、流行りの言葉で言えば、「最低でも県外」を守ったのだ。県内は現状の負担に留めたのだ。糞のおかげで、その停車位置には並ぶ人がいなかった。車内に乗り込むと数席だけ開いている状態なのが常で、その数席を数名が狙っていく時間帯なのだが、この日は、数席を、自分で選り好みして選ぶことが出来た。ゆったりと座り、隣席のスポーツ紙を覗くと、今日にも鳩山辞任かと書かれていた。国民はもう、鳩山に理解を示さなくなっていた。僕はその日、鳩に理解を示していた。どうしょうもないオヤジギャグを心の内に留めて、泳いだ目をする鳩山の写真に目をやった。

vol.278 大丈夫っぷりったらもう(2010/6/15)

全裸

政治なんて誰がやっても変わらないと嘆かわしい顔で不満を漏らす光景ってのがある。テレ東の旅番組でさえも使ってくれなくなった人材をタレント議員として歓迎してくださる希有な再雇用システムを見させられれば、そう言い放ちたくなる気持ちも分からなくはないのだが、ただそれって、決して嘆かわしいことではないんじゃないか。誰がやっても変わらない、というのは、とてもハッピーなことだ。アソウでもハトヤマでもカンでも、こちらは変わらない。生活が平穏でも不穏でも、それをひっくり返してはくれない。逆に、ひっくり返そうと向かってくることも無い。それって、とても幸せなことではないのか。

沖縄基地問題でハトヤマが言い淀んでいるころ、街中のカップルから、怒りの声を聞いた。ハトヤマもさあ、沖縄に住んでから言えってんだよな。僕はもちろん、こう思った。沖縄に住んでから言え、なんて、沖縄に住んでから言え、と。その2人は彫りの深い顔とは遥か遠方に位置するお顔立ちをしていたから沖縄出身ということは無さそうだった。下北沢を歩くカップルにこう言わせてしまうこの国の政治は、とてもハッピーだ。つまり、政治は、物事の当事者ではないのだ。外的作用でも構わない立ち振る舞いをしている。そして、若人にまで、政治を何がしかに機能させるには、その現場に染みてからにせぇと言わせてしまう。むしろ、その若人にとっては、地元の隆盛の為に高速道路から新幹線まで引っ張ってきた旧来の政治のほうが親和性が高いかもしれない。視点が、俺らに何をしてくれるんだ、という奉仕待ちなのだ。

誰がやったって同じという嘆きは、物心ついたときから政治に注がれていた。物心ついて20年くらい経ったろうか、未だに政治に足首を掴まれてコケそうになったことはない。ふと、実生活に戻る。この人が休んだらヤバいという人が会社を長期間休んだとする。でも、大丈夫だ。大変だが、大丈夫だ。当人はその大丈夫っぷりに落胆するらしいが、大丈夫なのだ。この大丈夫っぷりって、とても強い。

モーニング娘。の新しいPVを観ていて、その大丈夫っぷりを感じていた。いろんな人が抜けて、いろんなライバルのアイドルに負かされて、もう顔と名前が一致しなくなっちゃったよと言われている彼女らだが、ちょっと考えれば、彼女らが、相当長い間、顔と名前が一致しなくなっちゃったよと言われていることに気付く。新曲のPVは、公園か広場か、とにかくだだっ広い場所に並べられたメンバーが笑顔で歌うだけのPVだ。途中、トランポリンでジャンプさせられている挟み込み部分が、何よりの低予算の証拠となっている。こんな言い方もなんだけれども、しかし、彼女たちは大丈夫そうなのだ。これから大丈夫かななんて思っているだろうけども、その上で彼女らは大丈夫そうなのだ。

物事が上昇していく時に、ある人材が劇的に作用することがある。今回はその話ではない。物事が下降していく時に、そこに誰がいて何をしても何だかんだで大丈夫であるという状態、これだ、これは、とっても力強いことだ。政治家を考える時、アイドルを考える時、大切な人を考える時、憎き人を考える時、下降線に用意される「それでも大丈夫」に、実は多くのことを支えてもらっているのではないか。下降線を愛でると対象が鮮明になる、そんなことが最近続いているのであった。

vol.279 ほ助金(2010/6/21)

全裸

子役が車のCMで、「減税、補助金も」と言っている。言わせている。言わせられている。彼が、晴れやかな笑顔でそう言い放つ度、反比例するように、何やら気持ちが曇る。例えば「お父さん、この車って、地球に優しいんだね」と言わせるほうが、まだ露骨で、こちらの苛立ちも明確になるのだが、弾けた笑顔の「減税、補助金も」には、向かい合えずに沈み込んでしまう。

確かこの子は8歳だ。だから今はたぶん、小学2年生か、3年生だ。文部科学省が規定する『小学校学習指導要領』に「学年別漢字配当表」がついていて、つまりこれが、その学年でどの漢字を習得させるかという一覧になる。意地が悪いが、「減税、補助金も」を調べてみた。「減」は小学5年生、「税」も小学5年生。「補」は小学6年生、「助」は小学3年生、「金」は小学1年生であった。となると、彼の年齢の世界では、「げんぜい、ほ助金も」となる。もはや、暗号を叫ばされている印象だ。彼はこれを言う時、これはどういう意味なのですか、と尋ねるのだろうか、それとも、その通り、ただ、字を追うだけなのだろうか。マネージャーが次の仕事の時間を気にしながら、とにかく意味なんてどうだっていいから覚えなさい、「はい、ほら、げんぜい、ほじょきんも、って。いやいや、ほじょうきんじゃないわよ、ほ・じょ・きん」。

知っていても面前では発しない言葉、というのが言葉の殆どだったりする。日常の会話って、そんなに豊富な言葉は揃わない。ようやく大人の仲間入りをしたのかなという昨今でありながら、いまだに「減税」「補助金」という言葉を公衆の面前で発したことがあるだろうかと問われればおそらくない。友だちに向かって、仕事相手の面々に向かって、「あれなんすよね、補助金出るらしいんすよね」と言ったことがあるか。無い。多分、補助金が出るとしても、それを伝える時には「あれなんすよね、何かちょっとした金が出るらしいんすよね」と言うだろう。「補助金」と言うよりもそう言ったほうが、話が伝わりやすいのだ。

8歳か9歳の時、毎日、小さな公園で野球を一緒にやっていた村田君はどうしてもウンチがしたくなって、ちょっと待ってと、ズボンをおろし、その場でウンチをしてしまった。液状ではなくて、コロコロしたウンチだったから、村田君は、そのウンチを足で蹴った。転がるウンチを見ながら、「ファーストゴロだね」とゲラゲラ笑った。すぐに野球に戻った。会社の家族寮に住んでいた村田君は、小学3年生のある日、大した挨拶も無く、隣県に引っ越していった。ものすごくさびしかった。公園を通りかかるたび、野球のことと、ウンチのことと、転がったウンチを見て笑いころげたことを思い出して、さびしさが倍増した。そのさびしさを親に隠したりした。

あの子役がどんなに人気があろうと、親の自慢であろうと、「げんぜい、ほ助金も」と笑顔振りまく以前に、やっておかなければならないことがあるんじゃないのか。車を買う予定なんてないんだけど、僕は絶対に彼のCMの会社の車は買うまいと心に決めている。あの子役が「補助金も」と言ってるからこそ、そこの車を買うという人がいる限り、彼は「補助金も」と言い続けるだろう。そのうち「減税、補助金で少しでも家計を助けましょう」と、主義主張を持ち込むことだってあるだろう。これを、僕らは、必死になって止めなきゃいけない。だって、補助金よりも、公園でウンチを蹴ることのほうが、重要な年頃に違いないからだ。

vol.280 踊るまでもない大捜査線(2010/6/28)

全裸

真夜中、とぼとぼ歩いていると、2時くらいなのに3軒に1軒の割合で部屋の灯りが点いている。階ごとに3部屋ある4階建てのマンションでは、計4軒が灯っている。約3割である。後日発表されたデンマーク戦の視聴率は30.5%だったから、僕の歩いた街中と視聴率はちゃんと一緒だったわけである。コンビニの店内は静かに浮き足立っていて、スナック菓子とノンアルコールビールをカゴに突っ込む深夜残業終わりのサラリーマンが、菓子パンを付け足してレジに持っていく姿を見つければ、それが、「スナックをお供に酒飲みながらサッカー観戦したいけど翌朝すぐ会社だからアルコールはさすがにやばいと自粛、ゆえにノンアルコール、5時半に終わる試合の後、少しでも仮眠をしたい、だから朝飯はすぐに食べられる菓子パンで済ませておこう」という意味付けだと分かる。

ワールドカップの興奮ってのは、こういった個々人のちょっとしたテンションの増幅に見つけるべきであって、渋谷駅のスクランブル交差点で発狂する連中に代表させてはいけない。一昨日ユニフォームを買って、昨日テンションを高めて、今日大騒ぎして、明日泣いて、明後日忘れるような浅はかさについて、やっぱり書いてしまう。

あそこに行けば騒げると思ってそこに実際に行って、実際に騒いで、実際に警官と衝突しちゃうというのは、今書いたように、何度かの「本当にやるんだぁ」という段階を越えてこそ生じ得る事態だ。騒ぎたい願望選手権を勝ち抜いた面々が集っているのだからその騒ぎっぷりが度を越すのは致し方ないのだが、この毎度の乱痴気騒ぎに、みんな、親身に付き合いすぎではないか。

ハチ公が危ないというので、ハチ公を取り囲むように何人もの警察官を配置した。ご苦労様である。「タクヤ君のお父さんは警察官として何をやってるの?」「今日はハチ公を守っているよ」となれば、その子供は危うくイジメの対象である。騒ぐ連中はとにかくテレビが好きだ。テレビを見つけると「ウォー」という顔をしながら、ベロを出したり、ガッツポーズをかましたりしている。あとなんかしらんけど、もみくちゃになるのが大好きだ。そこで生じた摩擦を利用して発電でもしてくれれば加藤清志郎も「エコですね」とニッコリしてくれると思うのだが、昨日上司に怒られた腹いせかもしれない程度の発散を群がらせた青い固まりは何故かその摩擦を反抗的に仕立てていく。ご承知のように、成人式後に街中で騒ぐ新成人と全く同じ風景である。騒ぎすぎた誰それが警察に連行されて、「ざけんなよ」と言っている。さすが、騒ぎたい願望選手権を勝ち進んできた猛者たちだ、じゃないと、「ざけんなよ」なんて、言えないもの。恥ずかしくて。

この手の騒ぎの度に言うのだが、警察もテレビも相手にしなければいいのだ。何故なら彼等は、警察やテレビが相手にしてくれることを、騒ぎの前提条件にしているからだ。その前提を取り除けば騒ぎはたちまち鎮火する。彼等の天敵は、ワールドカップに全く興味を持たない人々である。ハチ公の周りには、サッカーの世界大会を何とも思わない一般人を座らせておけばいい。ああいう浮ついたサークル的根性の乱痴気は、一般人の澄まし顔に弱い。そこを飛び越えてハチ公に危害を加える青ユニフォームは絶対にいない。渋谷駅前の交番も、そのまま見過ごしておけばいい。「通常業務以外の任務は致しません。本日に限り、道案内歓迎。」と張り紙でもして、中でゆっくりお茶でも啜っていればいいのだ。

ライブなどで拍手喝采の時、もう止めようかというタイミングで、浴びた当人が拍手を止めさせようと「今日はどうも」なんて言うと、逆に拍手が止まなくなってしまうなんてことがある。それとこれは似ている。つまり、止めにいかなければ、難なく止まるのだ。テレビクルーはコンビニへ行け、そこにワールドカップの熱がある。警察は部屋の中で茶を啜れ、事件は会議室でも現場でも起きてない。決勝トーナメントに際しての、わたくしの願望でございます。



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