資生堂名誉会長・福原義春が自分を重ねた、駒井哲郎という生き方

経済と芸術。この2つ、とかく対極に語られがちだが、それを見事に統合した希有な人物がいる。福原義春さんだ。日本を代表する大企業である資生堂の大改革をいくつも成し遂げ、現在も同社の名誉会長でありながら、企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館の館長など、まさに経営者としても文化人としても、多大な功績を生み続けていらっしゃる。そんな福原さんが50年以上をかけて500点以上の作品を収集したという駒井哲郎という版画家、みなさんはご存知だろうか? この度、リオープンする世田谷美術館のこけら落としとして、『福原コレクション 駒井哲郎1920-1976』展が開催されると聞き、その膨大なコレクションを全て寄贈したという福原さんにお話しを伺った。なぜ、福原さんにとって駒井哲郎は特別だったのかを伺ううちに、氏が考える経済と芸術の関係性、これからを生き抜くために必要な力にまで話しは及んでいった。

大企業の経営者が駒井哲郎に覚えた、兄弟のような親近感

―福原さんは50年以上もかけて、500点を超える駒井さんの作品を収集されてきたわけですが、まずは駒井さんとの出会いからお聞かせいただけますか?

福原:駒井さんは慶応幼稚舎(小学校)で私の10年先輩でした。慶應は6年間、同じ担任がずっと見ることになっていますが、私の担任の吉田小五郎先生はその前に駒井さんの学年の担任もなさっていました。吉田先生はいわゆるエリート志向ではない方で、「エスカレーター式で大学や会社に入っていいわけはない。あなたがたの先輩には、駒井哲郎のように美術学校を出て芸術家になった人もいる」と、ことあるごとにお話しになっていました。話しを聞くうちに、一方的に自分の兄のような親近感を覚えていったというのがきっかけです。

―なぜ、そういった方に親近感を覚えられたのでしょう?

福原:私もいずれは家の跡継ぎ(資生堂)の中に入らなければならないけど、当時からそれをいいとは思っていなかったんです。駒井さんの家も氷問屋でしたから、私と似た境遇でした。でも、駒井さんはそれを継がずに版画の道を選んだ。幼稚舎時代に版画に熱中して、絵で身を立てたいからと慶應を辞めて美術学校を受けるんですよね。浪人になる可能性もあるわけで、それくらいの冒険をして新しい表現を探すような潔さがあったわけです。

―駒井さんの生き方に共感をされたわけですね。その後も駒井さんへの関心は薄れず?

福原:はい。大人になってからも、ずっと気になっていて、駒井さんの作品を少しは持っていたいなと思うようになりました。初めて手に入れたのは、南画廊での第2回個展の招待状です。その後初めて購入したのが白黒の『虹彩の太陽』という作品。いざ手元に届いて、刷りたての作品に興奮していたら、次にカラーの『黄色い家』という作品が出て。これがコレクションの始まりです。

駒井哲郎《La Maison Jaune(黄色い家)》1960年 <br>福原コレクション(世田谷美術館蔵)(展示期間:5月27日迄)<br>©Yoshiko Komai 2010 /JAA1000185

駒井哲郎《La Maison Jaune(黄色い家)》1960年 福原コレクション(世田谷美術館蔵)(展示期間:5月27日迄)©Yoshiko Komai 2010 /JAA1000185

―それから50年以上、コレクションし続けることになるわけですね。

福原:もうそれ以降は、駒井さんの作品を見かけるたびに手に入れて、数が多すぎて家に掛けることもできなくなってしまいました。そこで、世田谷美術館に寄託(保管)いただくことになったのです。

世田谷美術館外観
2012年3月31日にリオープンしたばかりの世田谷美術館外観。緑溢れる砧公園内という絶好のロケーション 撮影:安容子

―それらの作品が今回改めて、寄贈というかたちで、500点以上、全て世田谷美術館に贈られたわけですが、ここまで熱心に収集されたコレクションをどうして贈ることにしたのですか?

福原:やはり芸術作品は皆さんに見てもらわなくてはいけない。だから、自由に展示していただきたく、寄贈させていただきました。はじめから寄託ではなく寄贈してもよかったのですが、その後コレクションもひとまわり大きく育ったし、ちょうど今春の美術館のリオープンを機に寄贈に切り替えたのです。僕は世田谷美術館の建物も大好きなんですよ。大きな公園に囲まれていて、環境も本当にいいですしね。

世田谷美術館地下に新たにオープンしたカフェ・ボーシャン
世田谷美術館地下に新たにオープンしたカフェ・ボーシャン。テイクアウトもできるミュージアムカフェとして、公園利用者にも開放されている。 撮影:安容子

―それだけ集中的に集められたというのは、駒井さんの生き方だけでなく、作品性にも惹かれていらしたわけですね?

福原:ええ。まず最初は彼の生き方に共鳴して、僕もああいう生き方をすべきだったなと常に思っているのです。あんなにお酒を飲もうとは思わないけれどね(笑)。次に作品に惹かれて、より深く関心を持つようになってきました。

―必ずしも駒井さんは全国的な知名度を持った作家ではないわけですが、今、駒井哲郎さんの全生涯を一望できる展覧会を行なうことの意義はどのようにお感じですか?

福原:やはりこれだけコレクションが育ったので、1人の作家の生涯というものを一望できるということでしょう。駒井さんほど、それまでの木版画を中心とした日本の伝統の殻を破って、銅版画という技法を一途に追求し、これだけ多彩な表現をした作家は他にいないと思います。初期の具象作品から、実験工房などとの出会いで前衛的な創作にも果敢にチャレンジしていく過程も見ていただくことができるでしょう。駒井哲郎といえば「黒と白の世界の作家だ」とブランド化されていますが、あまりこれまで知られていない駒井さんの魅力をご紹介できたらと思っています。

2/3ページ:僕はもともと実業家になるべき人間じゃなかった。

僕はもともと実業家になるべき人間じゃなかった。

―福原さんは実業家で大企業のトップでいらして、一方駒井さんは1人の芸術家です。経済と文化、とくに芸術は、一見対極的に語られがちだと思いますが。

福原:実はそうじゃないんですよ。それから僕はもともと実業家になるべき人間じゃなくて、やはり趣味の世界で生きる人間なんですね。ですが、生まれからこういう風に位置づけられてしまったから、経営者として生きてきたに過ぎないんです。それを私は経営の職人だと考えています。今でも経済と文化が両立することが、世の中に幸福をもたらすことだと考えています。

駒井哲郎《食卓I》1959年 福原コレクション(世田谷美術館蔵)(展示期間:5月27日迄)©Yoshiko Komai 2010 /JAA1000185

駒井哲郎《食卓I》1959年 福原コレクション(世田谷美術館蔵)
(展示期間:5月27日迄)
©Yoshiko Komai 2010 /JAA1000185

―資生堂は今年140周年を迎えて、これだけ続いている大企業です。福原さんの時代にもいろいろな改革をされて、今なお業界トップ企業です。

福原:僕はもともと経営の職人のつもりでいます。駒井さんだって絵を描く職人だと思っていたに違いないし、僕は経営者という職人にだんだんなってきたわけです。それは、目先の利益にばかりとらわれず、いかにこの会社を世の中の役に立てる存在にし、世の中も社員も幸福にしていくか、それを実現することを第一にする。これが私の仕事だと思っています。

―福原さんの中では、芸術や文化と経営は思想として統合していると。

資生堂名誉会長 福原義春
資生堂名誉会長 福原義春

福原:ええ。たとえば今、アメリカ的な民主主義が世界中を吹き荒れていますけれど、それも金融資本が結びついて生まれた、ハリウッド文化がつくったものです。『十二人の怒れる男』『市民ケーン』『カサブランカ』などが世界に波及したからこそ、アメリカの政治が一番正当的だと世界中で思われているわけです。これは経済の力だけではなくて、ハリウッドの力なんですよ。そしてハリウッドをつくったのはヨーロッパからギリシャ・ローマ文化を持って亡命してきた人たちです。


―脈々と受け継がれた文化が根元になっていて、経済が生まれるんですね。

福原:そうなんです。根はとても深くて、「今日儲かって、明日潰れた」という話とはレベルが違うんですね。経済だけではここまで大きく、持続的な力はつくれないのです。

―震災もあり、日本は経済的な競争力が落ちてきていると言われています。これも日本の文化のありようと何か関係しているのでしょうか?

福原:薄っぺらになっちゃったんですよね。日本だけでなく世界中で文化は劣化しているんです。

―劣化、ですか?

福原:そうです。つまり、これ以上豊かな文化を求めなくなっちゃったから質が衰えてきているということです。例えば、銀座通りの名店はたとえ値段は高くても、他所よりも良質で筋の通った品物を売ることで成り立っていたのですが、今は「いかに安くていいものをつくるか」という文化に世界中が変わってしまったんです。「あるものを安く売る」というのは20〜30年前の話で、今は「安くていいものをつくる」。機能だけは現在の水準を満たしていますが、品質に関しては、必ずしも前世代までの水準を問わない。そうして妥協していくわけですから文化は劣化していきますよね。

―それは、付加価値を求めなくなったということでしょうか?

福原:見えない、もしくは見えにくい付加価値を求めなくなったんですよね。価格を安くするには、素材や人件費が抑えられてしまうから、職人による端正な仕事ができなくなる。そのため、一目見ても気づかないんだけれども、徐々に品質が落ちていく、そういうことだと思います。

―では、そういう時代を生きる若い世代には、どのような力を養ってほしいとお考えですか?

福原:本物に触れる以外ないと思います。本物に触れて自分で考えることですね。パソコンや携帯端末で調べれば、どんな情報にもたどり着く。たしかに便利にはなりましたけど、誰もが知るような名画でも、本物に触れると何故か全く違うんですよ。その喜びをみんな知らなくなっちゃった。だから美術館の役割というのは今後も大きくなっていくと思います。

3/3ページ:調べて出てくる答えは、他人の答えなんです。

調べて出てくる答えは、他人の答えなんです。

―美術館の役割というお話しがありましたが、福原さんは、東京都写真美術館の館長もお勤めですよね。

福原:ええ、もう12年間ですね。そろそろ後の人に譲りたいんですけどね(笑)。

―東京都写真美術館も、毎回趣向をこらした企画展示をされている印象です。

福原:僕はまだまだ努力が足りない、もっと色んなことをやれ、って学芸員にいつも言ってるんですよ。だけど皆さん保守的なんですよね(笑)。

―そうなんですね。意外です。

福原:僕は、学芸員が面白いと思うことをやるんじゃなくて、お客さんが面白いと思うことをやんなきゃいけないと、常に言うんです。でも、どうしても安全的に自分たちが面白いと思うことをやっちゃうんですよね。少しくらいはハメを外すつもりでやらなきゃいけないと思うんですけどね。

―それは学芸員が自分の研究の方向にばかり目が向きがちということですか?

福原:もちろん研究はしなくてはならないですよ。彼らは論文を書かなければならないからね。だけど思い切ったことをしないで、自分の調べた範囲内からは絶対にはみ出ようとしないということですね。論文だと、誰かに突っ込まれた時に返答が出来ないとダメなんです。でもそれは自分の話であって、世の中の話ではないよ、と言っています。

資生堂名誉会長 福原義春

―厳しいですね……。

福原:他の美術館の館長とも集まって話す機会があるのですが、そういう話題が出ることが多いです。かつて学芸員だった方がいざ自分が館長になってみると、いかに学芸員が保守的だったかよく分かったって言うんですよ。学芸員から上がった人ほど急に言い出すんですよね(笑)。立場が変わって視野が変わって、これじゃいけないって気付くんです。美術館はもっと世の中に影響を与えて、もっと色んなことを教えたりすることが出来るはずです。

―一方、来場者の立場から伺いたいのですが、一見してどのように見たらよいのかわからない作品というのも、多いと思います。

福原:どう見ていいか教えてもらえないと見れないのではなく、自分で発見すればいいんだけれどね。考える力がない。なぜ考える力がないかというと情報過多なのです。考えなくても調べれば、大体の答えは既に世の中にあるんですね。でもそれは自分ではなくて他人の答えなんです。どうしてこれを僕は好きなんだろう、どうして好きじゃないんだろうって、もっと自分で考えてみればいいんです。

―なるほど。まさに先ほどの「本物に触れる」という力と「自分で考える」ということは、この情報過多な時代にリンクする課題だと思います。今回の世田谷美術館リオープン第一弾として駒井哲郎展が行なわれるわけですが、駒井さんの作品にも、本物でしか味わえない価値を強く感じます。

福原:駒井さんの作品は、やはり実際に絵の前に立って見てほしいですね。写真で模様や色や形だけを見て、分かったような気になってしまうのは本当にもったいないです。こればかりは本物に触れてみないと。自分で見て、考えてみてほしいと思います。

イベント情報
『福原コレクション 駒井哲郎1920-1976』

2012年4月28日(土)〜2012年7月1日(日)※前期・後期で作品総入替
第I部:若き日のエッチャーの夢(1935-1960)
4月28日(土)〜5月27日(日)
第II部:夢をいざなう版の迷宮(1961-1976)
5月30日(水)〜7月1日(日)

会場:東京都 世田谷美術館
時間:10:00〜18:00(入場は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日(但し4月30日は開館)※5月29日(火)は展示替えのため休室
料金:一般1,000円 65歳以上・大学・高校生800円 中学・小学生500円
(入場券半券のご提示で、2回目のチケットご購入時に、ご観覧料が2割引となります)

講演会
『コレクションを語る』

2012年4月29日(日)
会場:東京都 世田谷美術館 講堂
時間:14:00〜(当日、整理券を配布します)
講演者:福原義春(株式会社資生堂 名誉会長)
聞き手:清水真砂(世田谷美術館学芸部長)

講演会
『「レスピューグ」スライド原画に寄せて―実験工房を語る』

2012年5月3日(木・祝)
会場:東京都 世田谷美術館 講堂
時間:14:00〜(当日、整理券を配布します)
講演者:湯浅譲二(作曲家・国際現代音楽協会名誉会員、カリフォルニア大学名誉教授、桐朋学園大学音楽部特任教授)

講演会
『わが師 駒井哲郎を語る』

2012年6月2日(土)
会場:東京都 世田谷美術館 講堂
時間:14:00〜(当日、整理券を配布します)
講演者:中林忠良(版画家・東京藝術大学名誉教授)、渡辺達正(版画家・多摩美術大学教授)

『100円ワークショップ』

小さなお子様から大人の方まで、どなたでもその場で気軽に参加できる版画体験。
2012年4月28日〜6月30日の期間中、毎土曜日(随時受付)
会場:東京都 世田谷美術館 地下創作室C
時間:13:00〜15:00
参加費:100円

イベント情報
カフェ・ボーシャン CAFÉ BAUCHANT

世田谷美術館のリオープンに合わせて、美術館地下にカフェが新たにオープン。テイクアウトもでき、緑溢れる砧公園に立地する美術館カフェとして、公園利用者にも開放されています。
営業時間:10:00〜18:00(ラストオーダーは17:30)
休業日:毎週月曜日(その日が祝日の場合はその翌日)、年末年始

『世田谷アーティスト・コロニー「白と黒の会」の仲間たち』

2012年3月31日(土)〜6月17日(日)
会場:東京都 世田谷美術館 2階展示室
時間:10:00〜18:00(入場は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日(ただし4月30日は開館)
料金:一般200円 大学・高校生150円 65歳以上・中学・小学生100円

プロフィール
福原義春

1931年東京生まれ。資生堂名誉会長。資生堂創業者・福原有信の孫。1953年慶応義塾大学卒業、資生堂入社。資生堂米国現地法人社長、商品開発部長などを経て、1987年社長、1997年会長、2001年名誉会長に就任。文化・芸術に造詣の深い経営者としても知られ、エッセイ、蘭栽培、写真は有名。文部科学省参与、企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館館長ほか多くの公職を兼務。『ぼくの複線人生』(岩波書店)、『わたしは変わった 変わるように努力したのだ―福原義春の言葉』(求龍堂)など著書多数。



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