君島大空、苦闘の第二作。狂騒と覚醒の狭間で、ひっつかんだ実感

君島大空が、前作『午後の反射光』より約1年半ぶりとなる新作EP『縫層』をリリースした。「縫層(ほうそう)」というのは君島自身が生み出した造語で、彼が今、こうして自分だけの言葉を生み出さなければいけなかったということがまず、この作品に刻まれた彼の、そのヒリヒリとした実感を物語っている。日常の言葉では到底言い表すことができないものがあり、しかし、無言ではいられなかった――そんな、彼が立った「狭間」。その「狭間」の感覚があまりに生々しく表出したのが、この『縫層』という作品なのだ。

それゆえに、君島の内的世界のなかにある夢想を結晶化したような『午後の反射光』とは違った歪さを、本作は持っている。現実と幻の狭間で、時代と時代の狭間で、時間と時間の狭間で、人と人の狭間で、「そうだよ!」と「そうなの?」の狭間で、混乱し、泣き、笑う、「自分」という存在。その混沌のなかに手を突っ込み、ひっつかんだ実感を、音にして、言葉にして、編んでいく。『縫層』は、そうやって作られた作品なのだろう。君島大空は、彼自身の「生」を裏切らない。改めて、すさまじい表現者だと思う。

そしてまた、本作を聴くと思う。君島大空の音楽は純然たる音楽であると同時に、優れた詩である。そして、優れた詩が常にそうであるように、彼の音楽は、「批評」としての強度も持ちえている。だから、この音に、声に、肉体に接したとき、我々は気づくのだ――この音楽を聴く我々もまた、あらゆるものの「狭間」に在るのだと。

本作には、西田修大、新井和輝、石若駿といった「合奏形態」のメンバーも演奏で参加。他者と交わるからこそ浮き彫りになる「自分」もまた、確実にあっただろう。約1年半ぶりの単独インタビューをお送りする。君島大空は、最近愛読しているという北爪満喜の詩集『飛手の空、透ける街』を携えて、取材現場に現れた。

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多くのリスナーと出会う契機になったデビュー作、『フジロック』への出演以降、君島大空が抱いた窮屈さと脳裏にこびりついた「縫層」という造語

―新作EPのタイトルである「縫層」というのは、君島さんによる造語だそうですね。言葉によって世界を作るというのは、非常に難しいことだと思うんです。言葉とは、やはり生活のものなので。音の場合、ある単音を鳴らすだけで世界を作りえると思うのですが、言葉だと、それがどうしても難しい。なので、人は詩を書いたり、欲したりするのだと思うのですが。

君島:ええ、ええ。

―君島さんが今回、作品に冠するために言葉を作らなければいけなかったのは、非常に象徴的なことだと思ったんです。日常にある言葉では到底説明できないことが君島さんのなかにあり、しかし、無言ではいられなかった。そういう「狭間」から生まれたんだろうと思ったんです、この「縫層」という言葉は。

君島:そうですね、いろんなものの狭間に自分がいるような感覚が、去年の夏の終わり頃からありました。ファースト(『午後の反射光』)を出して、『フジロック』に出たりしたあとくらいから、この「縫層」という言葉がずっと自分のなかにあって。まず響きがあり、そこから言葉になっていったんですけど。

君島:縫われた層……人の手によって作られた層のようなものがいろんなところにありすぎて、すごく窮屈だなっていう感覚が、その頃の自分にはあったんです。なにかを作りたい、作らなければいけないと思いながらも、去年の夏や秋あたりは、時間的にもそれができなくて。そういうときに降ってきたというか、こびりついてきた言葉でした。自分でも知らなかった言葉だけど、自分のなかにたしかにある言葉だったというか。

―どんなところに「層」の存在を感じていたのですか?

君島:たとえばSNSにも言葉は氾濫しているなと思うんですけど、ネットを介していろんなものと繋がっている、それだけで、現実にはありえない次元が複雑なレイヤーを作りながら、普通に、自分のすぐそばにあったりする。そういうことを無意識に受け入れながら生きていることの不自然さが、際立って見えすぎてしまったんだと思います。そのときはそこに対して、自分はなにもアクションができなかったんです。ただ、やられていくだけ……そんな感覚があったんです。

「縫層」というのは、低気圧のようなイメージです。ずっと瞼の上から上空までの余白を覆っている雲があって、暴れながらも上に進んで、その雲をやっと突き抜けたと思ったら、まだ空は全然晴れていなくて、むしろ、よりすごい厚さの暗雲がそこにはあった。それは人の手には負えないほどの層なんだけど、でも、多分それは人が内省で作り上げてしまう層でもあって。

君島:ひとりの人間の思い込みや不安、そういうものが大きくさせてしまった雲のようなもの。それが、「縫層」なんじゃないか? 今言ったことは、このEPを作りながら段々と言葉になっていったことなんですけど。ずっと、「これは一体なんだろう?」と思いながら、作っていったような気がします。

―作る前から見えていたものというよりは、作りながらわかっていったことなんですね。

君島:最初は、「ファーストの続きを作ろう」という気持ちがあって。改めて振り返ったとき、『午後の反射光』という作品は、作品を通してずっとひと続きの光景が鳴っているような感じがするんですよね。そういうものが、僕は一番好きなんです。

この間、夢を見たんですけど、日本とは思えないような荒野で、ずっと遠くまで一本道が続いていて、だけど、50メートルごとに季節が違うっていう夢で。『午後の反射光』も、その長い一本道のようなものが貫いている作品だったと思うんです。あそこに入っていた“午後の反射光”という曲は、本当はもっと長かったんですけど、それをまとめて、あの長さになったんです。

君島大空『午後の反射光』を聴く(Apple Musicはこちら

『縫層』という作品は、君島大空にとってどうしようもなく作らなければならないものだった

―崎山蒼志さんとの対談のときも、「“午後の反射光”は本来、16分くらいあった」とおっしゃっていましたね(関連記事:崎山蒼志と君島大空、2人の謎を相互に解体。しかし謎は謎のまま)。

君島:そう。なので、“午後の反射光”の、あの先にある景色というのも、確実にあるんです。でも、その手前にどうしてもやっつけておかなければいけないものがあった。それがこのEPであり、「縫層」という言葉だったんだと思います。なので、このEPに関しては「自分らしくないな」と思う部分も多いんです。

本当はもっと優しい気持ちで作品を作れればよかったんですけど……。後悔はないんですけどね、仕方がなかったんだと思うから。マスタリングを終えて改めて聴いてみたとき、これが今の自分にとっては自然なものだったんだし、出しておかなければいけない膿のようなものだったんだとも思いました。

君島大空“午後の反射光”を聴く(Apple Musicはこちら

―『午後の反射光』、そして今回の『縫層』。こうして2作が並んだときに感じるのは、君島大空という音楽家は、その時代、その瞬間の、人間としての実感、自分がどういうことに苦しみ、どういうことに喜びながら生きているのか……そういうことが、その時々の作品によってリアルに表出される作家なんだ、ということでした。

君島:そうですね、その地点その地点のものが出てくる。そうでないと、体も気持ち悪くなってしまう。そういうところは、今回のEPを作ったことですごく生々しく、自分で自分が見えた感じがしました。自分はそういうタイプではないと思っていたんですけどね(笑)。

本当はローレン・コナーズのような、気まぐれに、誰にも見えない様に、宝箱のモノローグの様な音楽を録音しては出して、をしながら生きていくような人に憧れてきたはずなのに、なんだか歌を歌い出してしまって、そうしたら言葉がどうしても難しくて、それでも、なにかを言いたい気がしていて……。

「すべて、自分を救うためにやっている気がします。救われなくてもいいときは、作らなくてもいいんです」

―「なにかを言いたい」というのは、やはりありますか?

君島:無差別に人に伝えたいことは、ないんです。それは、この作品を作ってわかりました。いや、そんなことはないのかもしれないけど……。

―どちらとも言い切れない?

君島:強要したり、縛りつけたりするようなことは嫌いだし、そういう歌も嫌なんです。もちろん、ときにはそれを心地よく感じるとは思うんですけど。

僕は、言いたいことは結構、ハッキリしていると思います。それをいろんな角度から言うことで、絶対に誰にも解けないものにしようとしている、そういう感じかもしれないです。「あなたが好きだ」という言葉の周りに、違う言葉で核の周りに塀を作っていくようなイメージというか。

「あなたが好きだ」「あなたが綺麗」「うわあ、この瞬間が、僕は幸せだ」……そういうことを、取り囲んでいく。絶対にそこからその感覚の手触り、景色の体温が逃げないために、どういう言葉で、それを言っていこうか? そういうことを自分はずっと考えているし、このEPに入っている曲も、そういうものなんだと思います。

君島:「俺っぽくないな」と思う曲もあるけど、それでもやっぱり、言いたいことはひとつしかなくて。自分が見せたい、見たい景色が、音と言葉によって、どんどんと明瞭になればいいなと思っているんです。そのために、言葉をどうにか搾り出している。その感じは前からあったんですけど、今回は、すごく自覚的にそれをやったような気もします。ちょっと、考えすぎたEPかもしれない(笑)。

―しかし、こうしてアウトプットするからこそ見えてくる自分自身というものがあるということですよね。

君島:すべて、自分を救うためにやっている気がします。救われなくてもいいときは、作らなくてもいいんです。聴いているほうが楽しい。このEPは、気持ちがいろんな寄り道をしているなと思うんですよね。「なにがやりたいんだろう?」と思うくらい自分を混乱させてしまったとも言えるし、自らそうしようとした、とも言えるし。

窮屈で煩わしい世の中で探った、狂騒と覚醒の狭間のグラデーション

―『午後の反射光』のあと、本作にも収録される“散瞳”と“花曇”の2曲がシングルとしてリリースされました。この2曲は、君島さんにとってはどのような位置づけの曲ですか? 僕はこのEPを聴いて、“花曇”はこの作品を締めくくるために生まれた曲だったんじゃないか、くらいの感覚を抱きました。

君島:“花曇”のためにこのEPを作った、という感じもします。というのも“散瞳”と“花曇”の間の景色を見ることができないと次に行けない感じもしていて。この2曲は、音像としては対極だけど、同じ人の見ている景色なんです。でも、それを描くところで去年は止まってしまった。その間にある、いろんな断片が見えてきてはいたんですけど……。この2曲をどうにか成仏させなければいけないという気持ちは、強くありました。だから、“花曇”を最後に持ってくることは最初に決めていましたね。

君島大空“花曇”を聴く(Apple Musicはこちら

君島:“散瞳”は、精神的な興奮状態を迎えてしまって、自分がどこに立っているのかわかっていない状態の人の音楽なんですよね。2曲目の“傘の中の手”も、わりと“散瞳”と繫がっているような感覚があります。高揚していて、浮足立っている。それは僕自身のことなのかもしれないけど、めちゃくちゃ嬉しいのか、めちゃくちゃ悲しいのかもわからず、ひたすら高揚している。

だから、そいつを落ち着かせてやらないといけない。多分自分のことだとも思うんだけど、そいつの過ごす世界の一日の前後をちゃんと作ってやらないと、こいつには立つ場所がないんじゃないか? という感覚があった。なので、“散瞳”でめちゃくちゃ気持ちが舞い上がって、踊り狂って暴れまわった人が、寝て起きて冷静になったときに、起きる手前に見る夢のような……。起きる直前に見る夢ってありますよね? 寝ているときに見る夢じゃなくて、意識が覚醒しはじめるときに見る景色のような。

―ありますね。

君島:その景色が、“花曇”のようなイメージなんです。なので、ひとりの人間の起伏のようなものを出したかったんですよね、このEPは。ひとりの人が見ている景色のようなものを作ったつもりはあります。

―先ほど、「自分らしくない」とおっしゃっていましたけど、具体的にはどういった部分が、このEPのなかで「自分らしくない」と思う部分ですか?

君島:たとえば、3曲目の“笑止”ですかね。ある意味、すごく自分らしいんですけど、コンプレックスを解消しようとして作った感じがすごくします。

この曲は、「ギターをたくさん弾こう」と単純に思ったし、サウンド面でも、自分以外の人と録っていて。合奏形態も一緒にやっている西田(修大)と曲を作っていったので、いい意味で自分らしくない曲だなと思います。自分らしくないというのも別に悪い意味ではなくて、どこかで「笑って聴いてほしい」みたいなことでもあるんです。特にこのEPは、「ふざけたい」って気持ちもあったから。

君島大空“笑止”を聴く(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く

“傘の中の手”の不思議なリズムの所以――「すべてに恋をしているような、『全部好きだよ!』というような(笑)。そういう瞬間が、最低な時期のなかにもあったりして」

―音楽的な面でいうと、“傘の中の手”はどうですか? すごく不思議なリズムの曲ですよね。

君島:ああ、この曲も、今までを鑑みると自分っぽくないなと思います。そもそも、このEPに入れようと思ったけど、長すぎて作り切れず、入れなかった曲があって。その曲も3拍子の曲だったんですけど、クリックを聴きながらなんとなく、軽い気持ちでギターを録りはじめたところから、この曲は生まれていて。

この曲を作ったのは去年の終わり頃なんですけど、その頃は、音楽を作るよりも聴くほうが楽しかった時期で。ブラジルのレオナルド・マルケスというプロデューサーの作品にすごくハマっていたんです。彼の、『Early Bird』っていうアナログ機器だけで作った作品があるんですけど、それを「いいなあ。助かるなあ」という思いで聴いていて。

レオナルド・マルケス『Early Bird』を聴く(Apple Musicはこちら

君島:で、この人は一時期、ロスにいたことがあったらしくて、いろいろと調べていくうちに、ジョン・ブライオンというギタリスト、映画音楽家の存在に行きついたんですよね。

―フィオナ・アップルやルーファス・ウェインライト、カニエ・ウェストの作品にも関わっていた人ですよね。最近だと、フランク・オーシャンやマック・ミラーの作品にも関わっている。

君島:その人の1枚だけ出ているソロアルバム(2001年発表の『Meaningless』)を聴いていたら、レオナルド・マルケスがやっていることなんかにも、すごく合点がいったんです。こういうふうに、国を超えて気持ちのテクスチャーや音作りが影響し合っていくんだなと思うと、すごく心地よくて。

それで、彼のプロデュース作品も漁って聴くようになったんですけど、そのなかで、ブラジルのMinimalistaというバンドを知って。日本人からは絶対に自然に出てこないようなビートに乗せて、軽やかに全ての要素が歌っているようなバンドなんだけど、どこか祭りっぽいというか、素朴で、めちゃくちゃ気持ちよくて。それが先ほど言った、作りかけていた曲のリズムとリンクしたんです。それで、“傘の中の手”に繫がっていったんですけど。

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君島:“傘の中の手”は、そのときに出会った人たちや景色のこととかを考えて作った曲だから、すごく恋をしているような気持ちで作っていましたね。すべてに恋をしているような、「全部好きだよ!」というような(笑)。そういう瞬間が、割と最低な時期のなかにもあったりして。このEPのなかで一番明るい曲だと思うし、プラスの感情に満ちていると思います。

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君島が自らの音楽に初めて冠した「アシッドフォーク」という言葉。混沌とした作品作りを通じて思い返した、その言葉の実感

―君島さんの音楽って、多様な文化の混合という側面も持っていると思うし、録音手段の発達やインターネットといったテクノロジーの進歩も真っ向から享受している、極めて現代的な、今の時代でなければ産み落とされなかった音楽だと思うんです。

君島:それは、そうだと思います。前に、どこかのインタビューでCorneliusが「僕、DAWがなければ音楽作れてないですから」みたいなことをあけっぴろげに言っていたんですけど、それを読んだときに、「僕もです」と思いました(笑)。家で録音ができる仕組みがなければ、絶対に作っていなかったと思う。

―そうした技術やテクノロジーの発達と深く関与しながらも、同時に、君島さんの音楽は人間のプリミティブな部分に通じているなと思うんです。人間の「生」とか、「肉体」とか、そういうものとシンプルに結びつき、それを描いているような感じがする。そういう部分は、非常に民謡的な感じもするというか。これはこの先、もっと考えていきたいことなんですけど。

君島:……最近、思い返したことがあって。「自分はなにをしたいのか?」と考えてみたときに、最初に自分の音楽をSoundCloudに上げたときに、「俺はこれをやる」って、はじめて言葉にできたのが「アシッドフォーク」という言葉だったんです。「アシッド」が必要かはわからないけど、わざわざそれを言わないと、フォークというものは伝わらないというか。

君島:本当にジャンキーがやったものが大好き! というわけではなく、「フォークとはなにか?」と考えたときに、「アシッド」という言葉がついたほうが核の部分を捉えやすいかもと思ったんですよね。薬物がどうのというよりも、人間の精神状態の起伏の振り幅の深さ、それが非常に自然であることを表しているような受け取り方を勝手にしています。「自分はそれをやっていくんだ」というのは、外に対してというより、自分に対して言って聞かせていかなきゃいけないなって思ったことがあります。

―僕、1曲目の“旅”がすごく好きで。

君島:ああ、嬉しいです。僕もすごく好きな曲で。“旅”は僕の知人の歌なんです。その人が歌わなくなってしまったので、「じゃあ、私が歌おう」ということで、ずっと歌っている曲で。ほぼほぼ、僕がいじってしまってはいるんですけどね。僕が初めて、「これが自分の音楽だ」と思えた弾き語りのライブがあったんですけど、そのときから、ずっとやっている曲です。

君島大空“旅”を聴く(Apple Musicはこちら

君島:このEPのなかでも、一番自分らしいなと思う曲ですね。1曲目にこの曲があれば、その先がどうなっても大丈夫だっていう気持ちもあったし、なにより、このEPに扉を作らないといけないなと思ったんです。

このEPって、ずっと出口がないような、ずっと同じところで周っているような作品だと思うんですけど、だからこそ、出入り口になるものがないと自分でこの作品を好きになれないと思って。“旅”は、自分の気持ちを収めるために、このEPのなかで最後に録った曲です。歌詞には、隙間があるというか、名前を書くような気持ちで書きました。

君島大空が信じる音楽というものの強度と、呼吸音や衣擦れの音、咳払いや鼻をすする音などを自身の作品に取り込む理由

―これは“旅”にも顕著なことで、君島さんの音楽の記名的な部分だと思うのですが、呼吸音とか、なにが擦れたり接触したりするような物音とか、震えるような空間の感じとか、立体的な音像のなかに、そういったささやかで生々しい音が捉えられていますよね。

君島:そうですね、僕は、自分の歌より、自分の息のほうが好きです。息の音だけを他のところから切り取って、曲に貼り付けたりすることがあるくらい。たとえば、そういうのがまったく入っていないのが、3曲目の“笑止”で。だから、あの曲は自分らしくないなと思うんです、完全に声のディケイ(音の減衰の時間を指定するパラメータ)を切ったりしたから。

でも、そのぶん歌詞のなかに、今までよりも「手」とか、「指」とか、「腕」とか、そういう「体」についての言葉が出てきている。僕は、「目」や、「手」が、人の部位ですごく好きなんですけど、音からそういうものを排除していくと、自然と言葉になって出てくるんですよね。やっぱり、体温みたいなものはすごく大事だし、音にせよ、言葉にせよ、自分はとにかくそういうものを出したいんだと思います。

―他の誰かにとっては単なるノイズに過ぎないかもしれない、かすかなブレスや、空間の震える音を、君島さんはなぜ、ここまで自身の曲に閉じ込めようとするのでしょうか?

君島:自分のいる場所の音が入っていないと、音楽じゃないなと思う瞬間があります。即興演奏の録音や、ライブ音源、ホームレコーディング主体の音楽家の作品とかもそうですけど、その人の着ている服の衣擦れの音が大きく入っていたり、その人が住んでいるアパートの音響なんだろうなと感じたりできるような、そういう音楽が好きなんです。そういうものを聴くと、すごく近く感じるというか、「気づいたら、そんなところにいてくれたんだ」って、温かい気持ちになれる。

それは、自分が音源を作るうえで一番意識していることかもしれないです。ギターや自分の声と同じくらい大事なものですね。意図せぬ音、録られるはずではなかった音……そういうものが、すごく好きです。そういうものが残るのって、すごくヤバイことだと思うんですよ。好きな人の裸を見たくないのに見ちゃった、みたいな(笑)。

―(笑)。

君島:そういうものが僕は好きだし、そのくらいのもの……「誰にも聴かれたくない」と思えるくらいのものじゃないと、残す意味がないがないと思うんです。そういうところに、僕はその人の「生」があるような気がするから。「このなかに人が生きていた」ということ、「ここで生きている」ということーーそういうものの集積だと思います、自分の音楽の中にあるものって。何回でもそこに戻れるし、それくらい、壊れない強度を持った時間を作ることができる。

君島大空“遠視のコントラルト”(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く

―音楽というものの、記録や記憶という側面を、君島さんは非常に大事にしていますよね。

君島:録音って、とんでもない発明だと思うんです。死んだ人の歌だって残る。「じゃあ、自分はなにを残すのか?」と考えたときに、僕が最初に録りたいと思ったのは、「言葉」よりも先にある「音」だったんですよね。鼻をすする音とか、衣擦れの音とか、そういう、「この人が生きていたんだな」と思える音。歌や言葉よりも前に、息や声を録ることで感じられるものがあった。

それは、人が発する音に関してだけじゃなくても、環境に対しても同じことが言えて。どこで録ったのか? どんな気持ちのときに録ったのか? 昼に録ったのか? 夜に録ったのか? そういうことは、自分にとって死ぬまで大事なことなんだと思います。

「音がいい」ってどういうことなんだろう? って、このEPの制作中によく考えたんですけど、単純に音質がいいものや、最先端の音響機器を使って「いい音だなあ」みたいなことって、僕はこのEPを作るぞ! という姿勢になるまではあまり興味がなくて。それよりも、録った場所と、その人との関係性が出ているものが、僕は「いい音」だと思うんです。

ずっと、胸の奥に降り続けていた「雨」。悲しみも喜びも、最低も最高も関係なく、等しく感情を騒ぎ立てるノイズの存在

―今のお話は、本作に収録された“火傷に雨”の石若駿さんによるドラムを、自粛期間開けに東池袋KAKULULUで録音したというエピソードと繫がりますよね。

君島:そうです、そうです。僕が駿さんと初めて演奏したのって、さっき言った、“旅”を演奏したライブのときで。それが本当に、自分のはじまりだったなと思うんですけど、そのちょっとあとくらいから誘ってもらって出はじめたのが、東池袋のKAKULULUという喫茶店なんです。すごく好きな場所なんですよね。

コロナでその時期出るはずだったイベントもなくなっていた頃に、駿さんがKAKULULUの合鍵を借りてきて、「ちょっと音録ってみない?」と言ってくれたので、マイクを買って、西田も含めて3人で行って。この3人で、あのコロナの時期に、あの場所で録れたことの意味はすごく大きかったと思います。

君島大空“火傷に雨”を聴く(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く

君島:空調もない、コンクリ打ちっぱなしの地下室で、マイク3本だけで録ったんです。「いい音だなあ」と思いました。温かくて、沁み込んだ空気も、ちゃんと鳴ってくれているなって。……その頃は、なんというか、ずっと雨が降っているような感覚があって。

―雨というのは?

君島:(胸を手で撫でながら)このへんで、ずーっと雨が降っているような感覚。自粛期間に入ったくらいから、それがあからさまになっていったような気がして。

今までは、ライブがあったり、ギターを弾く用事があったりしたことで、忙しいふりをして見なくてすんでいた、気づかなくてもよかった自分の本当のこと……そういうことが、「家にいてください」と言われたり、外が危なくなったり、誰かがいなくなってしまったりしたときに、グッと生々しく感じられるようになってきたというか。「そういえば、ずっと雨が降っているな」と気づいてしまった。その感覚は、「縫層」という言葉にも近いような気がしたし。

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―その「雨」の感覚というのは、君島さんのなかにずっとあったもの、ということですよね? それが、コロナの自粛期間によって暴かれた。

君島:そう、ずっとあるものです。晴れてはいるので、なにが雨なのかわからないんですけど、それでも、花が散っていく景色も雨みたいだし、涙も雨みたいだし、光がいろんなところに跳ね返って、すごくキラキラした時間も雨が降っているような感じがするし。古い映像に張りつくノイズも、雨が降っているという言い方をしたりもするし。

あとは自分の個人的な記憶であったりも、ずっと底のほうに落ちていかないで、(胸を指しながら)このへんで渦を巻いているもの。それは、自分のなかでずっと雨が降っているような感じなんです。でも、それは悲しいことではないんですよね。

君島大空“散瞳”を聴く(Apple Musicはこちら

君島:“散瞳”と“花曇”が、対極でありながらも通じているという話にも近いと思うんですけど、悲しいことも嬉しいことも、時間が経てばぼやけていってしまうけど、それがずっと、自分のなかで雨のように降っている……そんな感じがするんです。悲しみの頂点も、喜びの頂点も、行き過ぎると繫がっていくような。

「今、すごく幸せだ!」という瞬間と、本当にどうしようもなくて、なにも美しいと思えないピークの瞬間、その感情の高ぶりとか傾斜の仕方が、一緒だなと思うんです。それが、僕にとってはすごく雨が降っているような感覚なんですよね。騒がしい感じ。嬉しいことも嬉しくないことも、そのノイズのなかでない交ぜになって、自分ができ上がっているような気がするんです。

自粛期間中に形になった2つの歌。自分の生存を、他人の存在を確認するように過ごした時期を振り返る

―これはCINRA.NETで書かせていただいたレビューでも書いたんですけど、僕は、“火傷に雨”という曲は、2年前に既にSoundCloudに上がっていたものと、今回リリースされたものでは、同じ「雨」なのに、違うイメージを想起させたんですよね(関連記事:君島大空が照らす、アンビバレントな生。この切れ切れの人の世で)。

君島:ええ、ええ。

―2年前のものは、「痛み」や「遮断」というイメージだったんですけど、僕、今回の“火傷に雨”を聴いたとき、非常に「生活」というものを感じたんです。君島さんが仲間たちと一緒に酒を飲み交わしている光景が浮かんできたというか(笑)。

君島:ああ~、それは、めちゃくちゃ嬉しいですね(笑)。合奏形態のメンバーって、真面目で実直な人たちが集まっているんですけど、過ごしている時間の半分は真面目で、もう半分くらいは、大概祭りのようにずっと酒を飲んでいるんです(笑)。その感じが出ているのかもしれない……恥ずかしいけど(笑)。

“火傷に雨”って、そもそも、自分にとってすごく悲しい曲なんです。でも今回、このメンバーで録音したことで、それがほぐれたというか。自分の声も、EPのなかで一番抜けているし。ちゃんと自分がいる感じにしたかったし、ちゃんと人が生きているものにしたかったんですよね。まぁ、大勢の人の気配は、大っ嫌いなのでいらないですけど(笑)。

―うん(笑)。

君島:それでも、人がひとり、そこにいること。それで安心する自分がいるから、他の誰かも安心してくれるんじゃないかっていう気持ちだったんだと思います。ひたすらに自分を助けたかっただけなのかもしれないですけどね。

―自粛期間中は、君島さんはどんなことを感じながら過ごされていましたか?

君島:本当に恐ろしくって。ひたすら、「あいつ、大丈夫かな?」って気になるやつにはこっちから連絡したり、人がいる確認をずっとしていたような気がします。世界に取り残された感じというか。それが心地よかったり、誰とも話さなくても許されることで、気が楽になった瞬間もあったんですけどね。それでもやっぱり、慢性的に疲労感があるような時期で。

あと、さっきの音の話にも繫がりますけど、僕、自粛期間中、男女問わず好きな声の持ち主たちにうおーって電話して、その声を盗録して聴いたりしていたんです。そこから曲を作ったりもして……本人になんて言おうかって感じだし(笑)、それはEPに入っていないんですけど。やっぱり、僕は人の声がすごく好きなんですよね。声のなかで寝たい、とすら思います。

―(笑)。自粛期間は、そういうことをずっとたしかめていた時期だったんですね。

君島:そうですね、ずっと、なにかを探している感じがありました。「ないよ」ってみんなに言われているものを探している感じ。でも、「みんな」って誰? って時間でもあった気がします。「みんな」なんてなくなっちゃったなって。急に、知らない場所に放り出されたような感覚がありましたね。

―羊文学の塩塚モエカさんと一緒に出した七尾旅人さんの“サーカスナイト”のカバーは、どういった経緯があったんですか?

君島:あれは、モエカちゃんから「なんかやりたい」と連絡がきて、「僕もやりたい。じゃあ、なんかやろう」と言って、それだけです(笑)。

―ははは(笑)。

君島:僕、すごく彼女の歌が好きなんですよ。声も好きだし、人柄も、わけわかんなくて好きで。ずっと、「一緒になにか作りたいな」と思っていたし、あっちも、「おまえのこと嫌いじゃないよ」って思ってくれているような気もしたし……(笑)。とにかく、「お互いを救うために、ふたりで録ったものを持っておこう」っていう話をしていたんですよね。

それで、完成したものをモエカちゃんがfelicityの人に聴かせたら、「出しませんか?」という話になって。そういうつもりはなかったし、最初は「やめたほうがいいよ!」って思ったんですけど、七尾さんも快く「いいよ」と言ってくださって。あの曲も、“火傷に雨”と同じように、あの頃の生活のなかで、勝手にモエカちゃんと作りだしたものっていう感じだったんですよね。

君島大空と塩塚モエカ“サーカスナイト”を聴く(Apple Musicはこちら

君島大空が明かす、七尾旅人という音楽家の存在の大きさとその衝撃

―僕が『午後の反射光』を初めて聴いたときに思い浮かんだ人が、七尾旅人さんだったんです。君島さんにとって、七尾旅人さんとはどのような存在ですか?

君島:僕が、自分で自分の音楽を作ろうと思った、その原因を作ってくれた人って何人か浮かぶんですけど、そのうちのひとりが七尾さんですね。最初に聴いたのは『OMOIDE OVER DRIVE』(1998年)だったんですけど、あのシングルは、伊藤銀次さんがプロデュースに入っていたじゃないですか。

―そうでしたね。

君島:僕は、高校生の頃に銀次さんと一緒に演奏したことがあって。それがきっかけで聴いたんです。その頃、僕は19歳で、ちょうどあの作品を出した頃の七尾さんと同い歳で。すごい衝撃でした。「人の声はこんなに見えないものを歌えるんだ」と思った。1曲目の“おもひで!おもひで!!”とか、「その景色、めちゃくちゃ知ってるな」と思ったし、僕はあの作品の中で“戦闘機”が一番好きなんですけど、「声に出した言葉って人にこんなふうに届くのか」とも思ったし。

七尾旅人『OMOIDE OVER DRIVE』を聴く(Apple Musicはこちら

君島:リアルタイムじゃなかったけど、同い歳の人がこの音楽を作っていることに対して、「急がなきゃ!」という気持ちになりましたね。そもそも、僕は20歳で死ぬと思っていたんですよ。で、19歳の頃にはもう“午後の反射光”の片鱗は生まれていたので、「僕は絶対にこれを19歳のうちに形にしないと、終わる!」みたいなことを考えながら、でも録音の仕方もわからず、「どうしたらいいんだ?」と思っていたら、いつの間にか19歳が終わっていて、「終わったー」みたいな(笑)。

―(笑)。

君島:でも、ギターだけは残されているし……「弾くか」って(笑)。その頃はもうサポートみたいなことをしてはいましたが、当時はそんな身勝手な葛藤の中にいましたね。その頃に(高井)息吹と出会ったりして、自分で歌う以外にも、ギターで自分の音楽と思えるものはできるんだなと気づき、マーク・リボーや、ビル・フリゼールのような、ある種異端なギタリストたちの音楽を好んで聴きはじめたんです(関連記事:高井息吹、一粒の音の奥にあるもの 新井和輝、君島大空と見つめる)。

他にも、フェネスや、石橋英子さん、ジム・オルーク……そういう人たちの存在を知って、「こんな人たちがこの世界にいるんだ」という気持ちになって。当時は、今の自分を形成していくような、自分の細胞のなかに入り込んできている人たちの存在を知って、ばかばか取り込んでいった時期だったんですけど、七尾さんは、そのなかのひとりでしたね。

19歳の淵に佇みて。その景色のなかで音楽を編み続けた君島大空と、初めて得た「次」があるという実感

―「20歳のときに死ぬ気がしていた」というのは、なぜだったのですか?

君島:アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の最初のほうに、「人間の感性は20歳から下降する」みたいなことが書いてあって。『シュルレアリスム宣言』はそれを取り戻すための宣言だと僕は解釈しているんですけど、そういう本を10代の後半で読んで、わかりやすく食らってしまったんですよね(笑)。

でも、そうはいっても、僕は部屋でひとり暴れまわることくらいしかできないし、すごく怖くて。「死ぬ気がしていた」というのも、希死念慮だったり、実際の死というよりは、世紀末的な感覚だったと思います。1999年が2000年になるような、世界が大きく変わってしまうような感覚。行きたくないのに、向こう側への扉が開いてしまう……そういう感覚で、あの頃は生きていましたね。

―じゃあ、僕らは今、生き延びた君島さんの音楽を聴いているわけですね。

君島:どうなんですかね? まだ、そこにいるような気もすごくします(笑)。ファーストを出してから、同年代の素晴らしい人たちにも出会いましたけど、彼女ら、彼らが着実に自分を更新していくなかで、僕はずっと、10代のあの頃の景色のなかにいるような気もしていて。だから動けないし、『午後の反射光』はそういう作品だったし。

ただ、『午後の反射光』を作った直後は、「もう、次は作らなくてもいい」と思っていたんですけど、『縫層』が完成して自分で聴いてみたときに、「次がある」と思ったんです。そこが、前作とのすごく大きな差だと思います。「君島さん、3枚目があるんですね」という気持ちになれた。そういう作品なんです、この『縫層』というEPは。なので、ファーストから時間は経ちましたけど、「おまたせー!」という気持ちは、全然ないんです(笑)。

―はい(笑)。

君島:それよりも今は、「こいつらが出てきて、息吸えてよかったなあ」という気持ちです。これでやっと、次の呼吸ができる気がしています。

リリース情報
君島大空
『縫層』(CD)

2020年11月11日(水)発売
価格:2,200円(税込)
APLS-2010

1. 旅
2. 傘の中の手
3. 笑止
4. 散瞳
5. 火傷に雨
6. 縫層
7. 花曇

プロフィール
君島大空 (きみしま おおぞら)

1995年生まれ、日本の音楽家。2014年から活動をはじめる。同年からSoundCloudに自身で作詞 / 作曲 / 編曲 / 演奏 / 歌唱をし、多重録音で制作した音源の公開をはじめる。2019年3月13日、1st EP『午後の反射光』を発表。4月には初の合奏形態でのライブを敢行。2019年7月5日、1stシングル『散瞳/花曇』を発表。2019年7月27日、『FUJI ROCK FESTIVAL'19』 ROOKIE A GO-GOに合奏形態で出演。同年11月には合奏形態で初のツアーを敢行。2020年1月、Eテレ・NHKドキュメンタリー『no art, no life』の主題曲に起用。2020年7月24日、2ndシングル『火傷に雨』を、同年11月11日にはEP『縫層』を発表。ギタリストとして、高井息吹、坂口喜咲、婦人倶楽部、吉澤嘉代子、adieu(上白石萌歌)などのアーティストのライブや録音に参加する一方、劇伴、楽曲提供など様々な分野で活動中。



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