
相馬千秋×石倉敏明 いま芸術に必要な「集まる」ことの新しい定義
EPAD- インタビュー・テキスト
- 島貫泰介
- 編集:宮原朋之(CINRA.NET編集部)
様々な境界を揺さぶるコロナ禍は、旧来の人間中心主義を脱臼する機会として、私個人はポジティブにも捉えています。(相馬)
相馬:1年間大学でオンライン授業をやってきて、100人単位の学生が出席する講義形式の授業は問題なく行えることはわかりました。でも、少人数に向けて「振る舞い」を伝えるグループワークやワークショップはかなり難しい。
学びの場では、情報の伝達だけでなく相互の身振りの模倣や交換が必要ですけど、モニター越しではほとんど不可能です。十全な学びを得るには、やはり何らかの形で集まる必要があると感じています。
相馬:そこで考えるべきは、「集まる」ことの定義です。辞書的な意味で言えば、「同一の空間、同一の時間に複数の人間がいること」ですよね。
でも、例えば石倉さんにも参加していただいた『みちのくアート巡礼キャンプ』(相馬が主宰する芸術公社が2015年から開催している、東北の複数の場所を移動しながらワークショップや講義を行うプログラム)のように、「巡礼」を集まることの一形態として捉え直すこともできるでしょう。
相馬:「巡礼」とは特定の道を移動して目的地に向かう宗教的行為ですが、原理的には一人ずつが個々に移動するものです。100年、1000年という長い時間のなかで、ある道を何十万人、何百万人という人たちが歩いている。
その時間を超えた集積を「集まること」と捉えてみる。つまり定義の射程を変えることで、現在の危機を創造的に乗り越えることができるかもしれません。
石倉:人類学のフィールドワークにも変化の兆しがあります。「人間の集まり」を調査するだけでなく、複数種のエコロジカルな集合体を観察し、バーチャルな想像物とリアルな存在が絡まり合う「人間以上の集まり」のネットワークを見ていく方法など。巡礼や儀礼のように、重層的なトレイルを追うことも重要な課題ですね。
「人間圏」の外とつながるために、生活の仕方を変えた人も少なからずいます。海の近くに移り住んで、毎日釣りをして魚を食べているとか、都市部を離れて野菜を作ったり、狩猟をしたり。僕の家族もそうですが、子どもたちと里山で遊んだり、農作業をしている知人も大勢います。
石倉:そういった変化も「新しいフィールドワーク」のヒントになり得るかもしれません。東日本大震災の直後と同様に、自分と人間でないものの関係の接触点を作り直す動きが、活発になってきていますね。
相馬:人間がコロナ禍でウイルスを敵視するのは、人間(ヒューマン)中心的に世界を見ているからだ、という考え方もできます。現在のようなパラダイムシフトが起きたことで、今まで私たちが耳を傾けてこなかったもの……それこそ植物とか鉱物、あるいは天体や死者に時間と空間を超えて接触できる新たな扉が開きつつあると感じます。
いわゆる大文字のアートは「近代」の産物であり、つまりは近代を生み出したヒューマン=「西洋・白人・男性」を中心に編成されてきた概念でした。様々な境界を揺さぶるコロナ禍は、旧来の人間中心主義を脱臼する機会として、私個人はポジティブにも捉えています。
物事の全体を直感的に掴みとるようなレンマ的知性を、コロナ禍の今こそ再考すべき。(石倉)
相馬:ところで、今日インタビューしてくださってる島貫さんは、昨年末にTwitterでコロナ陽性になって入院したことや、退院後の後遺症についてつぶやいてましたよね。私がコロナ禍のポジティブな側面を楽観的に言ってしまってることについてどう思われてるか聞いてみたいのですが……。
―いろんな気づきがありました。コントロールできないウイルスの猛威を通してポストヒューマン的な視点を得ることもできますが、徹底的に人間的な事情に左右されるものでもあると思うんですよ。いまもワクチンの有効性や弊害が議論されているように、明確な治療法や対症法、医療制度も十分に確立されていないので、看護師さんもお医者さんもみんなが手探りという感じで、心的な衝突や摩擦が生じざるをえないときが多々あります。いっぽう、自分自身はとにかく不安な状態に置かれ続けているので、それをケアしてくださった看護師さんたちの思いやりに触れて「人間も捨てたもんじゃないな!」と心から思いました(笑)。
相馬:なるほど。
―特に印象に残っているのは、退院して以降の経験です。後遺症の例として、思考力の低下や記憶障害を訴える人がかなり多いようなのですが、僕もまさにそれで、失読症のような状況に2週間近く悩まされました。
基本的にずっと意識が呆けているような状況で、歩道を歩いていると自他の境界が限りなく曖昧になるんですよ。ちょっと気を抜くと道路を走る車や歩行者のほうによろよろと寄っていって、轢かれてしまいそうな気分になる。しかもそれに対する恐怖心を抱かないという。
でも、その感覚がけっこう新鮮でもあって。親しいダンサーや画家の友人からは「それめっちゃいいダンス踊ってるときの感覚と同じやで!」とか「絵を描くときの心持ちはそれに近い」というコメントをもらったりしました。アーティストの秘密がちょっとわかった気がして、職業柄「これはお得な経験!」だと思っているところもあります。
相馬:(笑)
―それで思うのですが、今回の『シアターコモンズ』は身体や意識の変容に注目した作品が多くありますよね。VRの全面的な活用はもちろん、例えば実際の鍼治療をパフォーマンスに持ち込む百瀬文さんのアイデアは、身体に異物が進入することへの強い関心を感じます。
―今回のプログラム全体から、アーティスト一人ひとりがコロナ禍の状況に対して悩んだり試行錯誤してる印象を受けます。
相馬:コロナ禍に対するアーティストの反応として、それはとても自然な流れだと思います。世界的なパンデミック下、人々の身体や身体にまつわる情報は、好むと好まざるとに関わらず、肥大化する権力の管理下に置かれ、身体的接触や体液の交換は、まるで社会の「悪」になってしまった。
そんな時代だからこそ、アーティストは接触的な感覚を求めるのではないでしょうか。中村佑子さんの新作はARを活用した体験型映画で、実際に体験していただくとよくわかるのですが、ものすごく触覚的な表現になっています。「今の時代にこそこれをやらなければ」というのは、アーティストの本能的なリアクションだと私は思っています。
石倉:コロナ禍以降、相馬さんがアントナン・アルトー(20世紀前半のフランスで活動した演劇作家・詩人。自身の経験から身体と精神に関わる模索を続けた)の演劇論について、印象的な話をしてくれたのを覚えています。アルトーは演劇という行為をペストの猛威になぞらえていた、と。つまり、皮膚の境界を超えて身体の内側に侵入してくる菌やウイルスによる感染症と、人間の魂に接触して憑依したり増殖したりする演劇を、アルトーは敢えて同一視しようとしていた。
それはすごく理解できるんですよね。人間の存在にとってポジティブな効果をもたらしてくれる他者と共生することを、僕たちは「ロゴス的(論理的に語りうる)共生」の次元として、無理なく理解することができます。しかし、死や病をもたらすウイルスのように残酷な存在との共生についても、人間は深く考えていく必要がある。アルトーのような芸術家は、こういったパラドックスを実践的に引き受けてきたんだと思います。
これは必ずしも非科学的なトピックではなくて、むしろ現代の進化論もウイルスという存在の両義性に着目しています。ウイルスは生態系全体の中ではありふれたものですが、遺伝子の水平伝播という形で生物進化の決定的な鍵を担うことがある。
例えば現在、哺乳類が胎盤を獲得する進化のプロセスに、ある種のウイルスが関わっていたと考えられています。こういう学説なんかは、まさにロゴス的な共生の論理を超えてしまっている。個体の死をもたらすものとの共生から、胎盤という母子の共生条件が生まれてくるというわけですからね。
パンデミックの時代は、こうした根本的な問いを人類に突きつけます。人類学者の中沢新一さんは近著の『レンマ学』のなかで、線的に物事を整理していく「ロゴス的知性」の考え方に対して、物事の全体性を直感的に掴みとるような「レンマ的知性」の重要性を訴えています。「レンマ的知性」に基づくパラドキシカルな共生は、果たして可能か。それはコロナ禍の今こそ再考すべきことでしょう。
相馬:私自身、アートをレンマ的共生の現れとして捉えているところがあります。今日のアートはポリティカルコレクトネスの問題が常に問われますが、今回の『シアターコモンズ』に参加していただいた小泉明郎さんや、歴史を再演する手法で社会の再考を促す藤井光さんたちは、しばしば制作のなかで、悪の側、加害の側から事象をとらえるアプローチを採ります。
それゆえ、日本人の加害性を想起させること自体を良しとしない人々との摩擦を引き起こしてしまうこともあるんですけど、しかしアートとは常に両義的なものであって、どちらかに転んでしまうかわからない不安定さが最初から内在している。
相馬:どうしても人間って、ロゴス的共生だけを取り入れて「社会を良くしよう」「環境を良くしよう」と思ってしまうものだけど、毒をも含みうるレンマ的共生のあり方にどれだけ自覚的であれるか、というのが重要な鍵ではないかと思います。
石倉:ウイルスは、代謝や自己複製といった生物の要件を満たしてはいないけれど、遺伝子のレベルでは紛れもなく「生きている(=活動的である)」という、矛盾を抱えた存在です。しかも、自然の一部でありながら、主に社会的な集まりのなかで増殖・伝播していきます。自分の生命を脅かすウイルスが増殖していく状況に不安を抱えながら私たちは暮らしていますが、じつはそういった矛盾に満ちた状況こそ、生命の基本的な条件だったことを思い出させてくれます。
だからこそ、現在の宙吊りのような、サスペンデッドな状況について改めて考えたり行動するアーティストが増えている。性差別や人種主義を乗り越えようとするMeToo運動やBlack Lives Matterもその表れであって、単に矛盾のない正しさを主張するだけではなく、別のやり方によって社会や人間の関係を再構築する様々な動きが連鎖しているように思えます。
ウェブサイト情報

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プロフィール
- 相馬千秋(そうま ちあき)
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アートプロデューサー / NPO法人芸術公社代表理事。横浜の舞台芸術創造拠点「急な坂スタジオ」初代ディレクター(2006~2010年)、国際舞台芸術祭『フェスティバル/トーキョー』初代プログラム・ディレクター(2009~2013年)等を経て、2014年にNPO法人芸術公社を設立。国内外で舞台芸術、現代美術、社会関与型芸術を横断するプロデュースやキュレーションを多数行う。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受章。立教大学現代心理学部映像身体学科特任准教授(2016~2021年)。『あいちトリエンナーレ2019』パフォーミングアーツ部門キュレーター。2017年に東京都港区にて『シアターコモンズ』を創設、現在まで実行委員長兼ディレクターを努めている。
- 石倉敏明(いしくら としあき)
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1974年東京都生まれ。人類学者。秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻准教授。シッキム、ダージリン丘陵、カトマンドゥ盆地、東北日本等でフィールド調査を行ったあと、環太平洋地域の比較神話学や非人間種のイメージをめぐる芸術人類学的研究を行う。美術作家、音楽家らとの共同制作活動も行ってきた。2019年、『第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭』の日本館展示『Cosmo-Eggs 宇宙の卵』に参加。共著に『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』『Lexicon 現代人類学』など。