『恋じゃねえから』があぶり出す、創作と恋を「言い訳」にした暴力。見て見ぬふりをしても問題は消えない

125万部を突破した『1122(いいふうふ)』(講談社)などで知られる漫画家の渡辺ペコが今年4月に刊行した最新作『恋じゃねえから』(同上)が、注目を集めている。主人公は40歳の主婦・茜。ある日、中学時代に通った学習塾の講師・今井が彫刻家になったことを知り、彼が発表した「少女像」がかつての親友・紫の姿によく似ていたことから、紫に連絡をとることから物語は動き出す。

創作と恋がはらむ加害性や、恋愛という名の暴力の問題を浮き彫りにした本作について、日本の女性の生きづらさを見つめ、彼女たちの内にある物語を絵と言葉で綴ってきたテキストレーターのはらだ有彩はどのように読んだのか。本作が可視化する問題をまっすぐに紐解く。

怒りを「無視する」こと=思考停止すること

「無視する」という行為は、最強っぽく見える。

怒りを無視すること。疑問を無視すること。抗議を無視すること。無視すれば、何のダメージも受けなかったかのように振舞うことができる。怒りを無視された側に「こんなに簡単にスルーされるなんて、やっぱり自分が自意識過剰だったのかも」と思うように仕向けることもできる。

「無視する」という行為は、怒りを無視された誰かの人生がこれから先、ずっとやるせないままでも、まったく構わないという意思表示である。その人が一生を過ごす時間を、頑なに軽んじようとする、言語化される前の執念である。

通常であれば、そんな行為には心が傷んだり、あるいはもっと打算的に、自分に対する他人と自分自身からの評価を気にして、その分の悪さに気が引けたりするものだ。しかし誰もが使っている言い訳があれば、気軽に思考停止できる。何か大事なことを間違えているのではないかと、不安にならずにいられる。

『恋じゃねえから』では、この思考停止するための言い訳が、びっちりと可視化される。

例えば、40歳になったばかりの主婦である土屋茜が、「本当は娘を出産したあとも働き続けたかった」と歯痒く思い返す怒りは、温厚な夫の温厚な言い訳で温厚に無視される。――だって、そのとき言わなかったから。こんなに夜遅くに、まともに話せると思えないから。今日は俺もくたくただから。

例えば、中学生だった頃の茜が笑いながら繰り出した「デブでゴリラ」という自虐を、友達になったばかりの川瀬紫は真顔で否定する。しかし紫がその都度口に出す疑問は、いつも友人たちに無視される。――だって、冗談だから。面白いから。ちょっと笑っただけだから。

例えば、紫が学習塾の講師である今井透から好意を寄せられ、裸の写真を撮られた「事件」は、人間関係の機微にクッションされる程度のほろ苦いトラブルとして無視される。――だって、あれは恋愛だったから。紫本人でさえ、必死で無視しようとする。――だって、あれは恋だったから。私も、自分の意思で先生に応えたはずだから。

例えば、塾講師から彫刻家へ転身した透が、紫の裸の写真を無許可で彫刻作品という物質にし、世間に広く公表し、第三者に販売し、もはや透自身のコントロールが効かない場所へ送り出してしまったことの加害性は、さほど重要でない齟齬として無視される。積極的に無視を促すのは、透の妻でマネージャーの今井紅子である。――だって、芸術だから。加害者と被害者だなんて、証明できないから。それに、もう売れてしまったから。

怒りを、疑問を、抗議を無視するための言い訳は、たいてい、ほかの言い訳と複雑に絡み合っている。絡み合い、日常生活と文化と文脈に溶け込み、より強固な「確からしさ」となって私たちを安心させる。これらの無数の言い訳のうち、とりわけ「モラルの外側にあるから」という理屈で不可侵のように扱われるのが、「芸術」と「恋」だ。

「芸術」と「恋」にはらむ、たくさんの言い訳

芸術は、特に現代芸術は、現代に生きている人間がこれまでの生活と文化と文脈に反応して生み出すという特性上、言い訳を瞬時に破壊することもできる。言葉を尽くして語ってものらりくらりとかわされてきた怒りを一瞬で可視化し、いままで人間社会のなかに存在しなかったことにされてきたものを突きつける。

そしてまた芸術は、芸術史のほとんどを男性がコントロールし、価値体系を構築し、参加者を選定してきたという特性上、ある一定の言い訳を増強することもできる。いままで人間社会と芸術が手を取り合って踏みつけてきたものの怒りを、いままでどおりすっとぼけられる。

――いや、だって、芸術だから。芸術が女性をモチーフにするのは、人類の根源的な欲求だから。女性の身体は美しいから。芸術という巨大な真理を前にしでかす「おいた」は、むしろ真理への探求心の強さを示すバロメーターだから。芸術は生身の人間を物理的に傷つけたりしないから。傷つくとしても、モチーフになったその女性一人だけだから。そのような「芸術」が文化の土壌を耕し、その文化を吸収した人々が別の女性を傷つけたとしても、芸術との因果関係は証明できないから。芸術という普遍的な人間活動に比べれば、一人の女性個人の傷は軽いから。

芸術って、そんな些末な、たった一人の女性が嫌だと思ったからといって、取り下げていいようなものじゃないから。

恋は、とりあえず素敵、ということになっている。いまや結婚の下位概念なのだから人類の繁栄に必要不可欠! というもっともらしい構図がいつの間にかしかれている。「恋愛→結婚→生殖」の図式の安心感と、あらゆる過去の歴史のなかで若い(幼い)女性が「結婚→生殖」と結びついていたという結果論的実績が、恋がカバーできる範囲を押し広げる。

恋しているとされる二人の社会的パワーバランスや、力が弱いほうにかかる判断のバイアスへの追及は、恋のいじらしさに水を差すだけのノイズとして処理される。いままで人間社会と恋が手を取り合って踏みつけてきたものの怒りを、いままでどおりすっとぼけられる。

――いや、だって、恋だから。自分を抑えられなくなるのが恋だから。イニシアチブを利用して迫ったりなんてしなかったから。ちゃんと「いい?」と聞いて、「はい、いいです」と応えてくれたから。同意の上だったから。その同意の信憑性を年齢で区切るのは、恋の覚悟を決めた本人に失礼なのでは? 後ろめたくない証拠に、ほら、いまになって君と再会しても、少しも焦らないどころか、むしろどこか温かい気持ちになっているから。

見えないふりをして目を背けても、そこにある問題は「透明じゃねえから」

かくして、紫と茜による「紫をモデルにした少女像を取り下げてほしい」という抗議は、透によってやんわりと無視される。お前は私を搾取している。私はお前に、それをやめさせたい。お前はやめるべきだ。そう言い渡されたとき、「無視する」という行為は、最強っぽく見える。何のダメージも受けなかったように振る舞えるし、無視された側にこそ問題があったかのように見せかけられる。

こんな巧妙な構造を、こんな曖昧な空気を、『恋じゃねえから』はびっちりと可視化してくれる。

可視化するということは、「透明にさせない」ということだ。『恋じゃねえから』に登場するキャラクターたちはみんな、色に紐づく名前を持っている。茜、紫、茜の娘の葵、紅子、紅子の子どものましろ。紫に力を貸そうとする玄(※)、玄の交際相手の翠(※)。今井透の「透」は、透明の「透」である。透明人間に色のついたペンキをかけると、シルエットが浮き彫りになる。

※コミックス未収録(2022年6月末時点)

加害を透明にしてすっとぼけようとする言い訳の、被害を透明にして無視しようとする言い訳の、姿かたちがようやく見える。紫の人生がペンキのように機能せざるを得ない事実そのものが、取り戻せないほど苦しい。苦しい。どれほど苦しくても、紫が最も苦しいという揺るぎない事実が苦しい。それでも、どうしても、見なければならない。いまここでたしかに目撃しているから、透明じゃねえからと、証言しなければならないのだ。

書籍情報
『恋じゃねえから』

著者:渡辺ペコ
発行:講談社


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