沖縄返還50年とウチナージャズ

戦争の爪痕残る激動の沖縄を、ジャズとともに生き抜く。86歳の現役ドラマーが語る、本土返還50年

「沖縄にはジャズが根づいている」。

そう言われても、沖縄とジャズがひとつの線でつながらない人もいるかもしれない。しかし、歴史を振り返ればピンとくるはずだ。第二次世界大戦後、沖縄は米軍の統治下にあったからこそ、ジャズをはじめとしたアメリカ文化が身近にあった。そして今年は、沖縄が日本に返還されて50年の節目の年にあたる。

本稿は、沖縄が背負ってきたものに考えをめぐらせるべくスタートさせた「連載:#沖縄返還50年とウチナージャズ」の2本目となる。文筆家の大石始と取材したのは、沖縄ジャズの生き証人とも言うべきドラマー、上原昌栄だ。

なぜ、そしてどのようにしてジャズは沖縄に根づき、独自の音楽に発展するに至ったのか。その言葉からたどっていく。

(メイン画像:1969年ごろ撮影の一枚(提供:上原昌栄))

戦後沖縄の激動を生き抜いた現役ジャズドラマー、上原昌栄の半生

沖縄ジャズ史を生き抜いてきたドラマー、上原昌栄はこれまで激動の人生を送ってきた。

幼少時代に戦時下の沖縄を生き抜き、沖縄ジャズ黄金時代にはドラマーとして活躍。1972年の本土返還とともに基地内での仕事を失うものの、沖縄ジャズ界が再生するなかでリーダーのひとりとして長年シーンを引っ張ってきた。

そうした人生のなかで上原が決して手放さなかったものがふたつある。それがジャズと家族だ。80代になった現在もウチナージャズ(沖縄ジャズ)屈指のドラマーとして活動を続ける彼の言葉には、時代を生き抜くヒントが隠されていた。

戦後直後にジャズと出会い、沖縄のリズムとの共通点を見出した上原少年

上原は1936年、那覇生まれ。父が琉球古典音楽に没頭していたこともあり、つねに三線が鳴り響いているような家庭で育った。疎開していた沖縄本島北部・国頭村(クニガミソン)の比地(ヒジ)集落ではこんな体験もしている。

「国頭村では豊年踊りや村芝居のような地域の行事があって、父は三線の指導をやっていました。わたしも幼稚園のころ、村芝居で太鼓を叩かされましたね。そのリズムがジャズのシャッフルと似ていた。ですから自然にドラムを叩けるようになってたんです。

たとえばね、ジャズのシャッフルはこんなリズムです。トットトットトット……(と、机を叩く)。そこに沖縄の歌を合わせられるんですよ。たとえば……(と、リズムに合わせて沖縄民謡の代表曲のひとつである“唐船(トウシン)ドーイ”を歌う)」

上原は高校時代に初めてジャズと出会う。その段階で沖縄のリズムとジャズの共通点を見抜いていたのは、さすがと言わざるを得ない。

「ウチナーンチュよ、起きて、奮い立て!」と歌い込まれた、沖縄民謡のスタンダード曲のジャズアレンジバージョン。ウチナー・ジャズ・オール・スターズ『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』収録曲

また、上原がそのとき出会ったジャズとは、アメリカという異国からやってきた「新しく、刺激に満ちた外来文化」であった。そこにはアメリカ文化に対する憧れとともに、決してひと言で語ることのできないアンビバレントな感情が渦巻いていた。なにせ沖縄戦からわずか数年の時期。その複雑な思いをぼくらは想像することすらできないだろう。

ジャズは沖縄にどのようにして根づいていったのか?

1950年代から60年代にかけて沖縄のジャズ界は黄金時代を迎えていた。

基地の拡大に伴い、ジャズクラブが次々にオープン。そこでは東京やフィリピンからやってきたミュージシャンがしのぎを削っていたほか、カウント・ベイシーやルイ・アームストロングなど大物ミュージシャンも基地内で公演を行なった。彼らをお手本としながら、沖縄の若きプレイヤーたちも台頭していく。

上原が基地内の米軍クラブで演奏をはじめたのは、高校生のころ。音楽の教師だった兼村寛俊(かねむら ひろとし)に誘われ、兼村がバンマスを務めるキングバンドで演奏するようになるのだ。最初は楽器を持つだけで演奏をしない「かかし」を任せられたが、やがてその資質を認められてドラムに定着する。

「当時は軍の規模が拡大されていた時期で、クラブがどんどん増えていたんですよ。フィリピンからもたくさんのミュージシャンがやってきたんですが、それでも足りない。東京からバンド単位で呼び込むこともありました」

本土返還前から活動を続けるサックス奏者、テリー重田は自身のブログで当時のことを「フィリピンのミュージシャンは沖縄で仕入れたヒットソングをいち早くレパートリーに取り入れて、東京で稼いでいた」と書いている(※)。沖縄は最新のジャズが演奏される場所であり、そうした環境のなかで上原もジャズにのめり込んでいく。

※ブログ「テリー重田のJAZZYな日々・・・・・・・♪」内の「超一流が続々、、」より(外部サイトを開く

「ジャズを教えてくれたのは高校時代の兼村先生でした。そのあと、仲良くなった兵士にPX(※)でレコードを買ってきてもらって、それを聴くようになりました。ハリー・ジェイムスとかベニー・グッドマン、マックス・ローチのコンボ、ライオネル・ハンプトン、アート・ブレイキー。当時、(基地の)外のレコード店では買えなかったんです。アーティ・ショウもよく聴いたよ」

※軍隊内で飲食物や日用品を売る店のこと。Post Exchangeの略

Art Blakey & The Jazz Messengers『A Night in Tunisia』(1961年)を聴く(Apple Musicはこちら

沖縄ジャズの黄金時代を回想して思うこと

当時の米軍クラブはいくつかのクラスに分かれていた。将校たちが通う「将校クラブ」、下士官が集まる「NCOクラブ」、一般の兵士たちが遊ぶ「EMクラブ」、そして退役軍人のための「VFWクラブ」。

上原は1965年まではEBB TIDE CLUBというEMクラブで演奏し、1966年から復帰まではVFWを拠点に活動を続けた。当時はベトナム戦争が激しさを増していた時代。上原は当時のことをこう回想する。

「踊っている兵隊たちも明日ベトナムに行ったら帰ってこれるかどうかわからない。そこで私たちは演奏をしているわけでね。いろんな感情がごちゃ混ぜになりながら演奏していました」

そのころ「東京で演奏しないか」と誘われることもあったという。だが、上原は迷った挙句、その誘いを断ってしまう。

「そのころ子どもが3人できて、家族の面倒を見ないといけなかったんです。東京に行ってもいいけど、沖縄でもジャズはできる。そう思ってね、結局お断りしたんです。

東京へのライバル心? いえいえ、沖縄のジャズはまだまだそのレベルじゃなかった。(本土復帰前は)自分たちのジャズをやるというより、本場アメリカのものを追求していました」

本土復帰によって引き裂かれ、同時に独自の表現を模索しはじめた沖縄ジャズ

東京やアメリカの真似ではない沖縄独自のジャズ。各プレイヤーがその探求をはじめるのは、1972年の本土復帰以降のことだった。きっかけとなったのは、1975年7月から翌年1月まで華々しく開催された『沖縄国際海洋博覧会(海洋博)』だ。

「1972年に復帰してからアメリカの基地が縮小し、その家族がみんな本国へ帰ってしまったんですよ。自然にクラブも減っていきましたし、みんな仕事にあぶれて他の仕事をやりはじめました。ただ、私は音楽をやめようとは思わなかった。昼は仕事をできますから」

「1975年に『海洋博』がありましたでしょ。沖縄にたくさん観光客がやってくるということで、ホテルがたくさんできたんですよ。そこで演奏するようになって、三線を入れてジャズをやったりしました。私は『海洋博』でも三線を弾いたんですよ」

海洋博は入場者数が目標を大きく下回り、沖縄経済に大きなダメージを与えたこと、開催に合わせて行なわれた開発によって海洋汚染が引き起こされたことなど、多くの問題を残した。

だが、本土復帰によって職を失ったジャズミュージシャンの一部は、『海洋博』によって仕事を得ることになった。米軍関係者から観光客および地元住民へ。オーディエンスが変わったことにより、ジャズミュージシャンたちの奏でる音楽も次第に民謡などを取り入れた沖縄独自のものとなっていく。

ジャズアレンジで演奏された、平和への祈りを込めた沖縄発の名曲“月桃”。ウチナー・ジャズ・オール・スターズ『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』収録曲

「ジャズは私の身体から離れない」ーージャズとともに戦後沖縄を歩んできた上原の言葉

6月23日の「慰霊の日」前日にリリースされたウチナー・ジャズ・オール・スターズのアルバム『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』には、沖縄ジャズのレジェンドたちとその現在を担うメンバーが集結している。

黄金時代を思わせるビッグバンド・スタイルのスウィングジャズがあれば、民謡のカバーもあり、アメリカでも東京でもないウチナージャズの真髄が奏でられている。

上原もまたスウィングジャズの代表的楽曲である“シング・シング・シング”に参加し、豪快なドラムを聴かせている。10代のころの上原はベニー・グッドマン楽団が演奏するこの楽曲に惚れ込み、なかでもドラマーであるジーン・クルーパの激しいプレイに心酔したという。

「私がドラムをはじめたころはジーン・クルーパの時代だったんです。レコードがすり減るまで聴きました。私のドラムはジーン・クルーパ・スタイル。歌うようなドラムをずっと追い求めているんです」

ジーン・クルーパの叩く“Sing, Sing, Sing”

アルバムのプロデュースを手がけた真栄里英樹(まえざと えいき)は1973年生まれ。上原とは40歳近く年齢が離れている計算になるが、そうした若い世代が新たな時代のウチナージャズを鳴らしていることについて、上原はこう話す。

「真栄里英樹のお父さんもギタープレイヤーで、私も若いころに一緒にやったことがあるんですよ。そのころまだ生まれてなかった英樹がこういうことをやってるというのは嬉しいですよね。家族同然ですから」

『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』は本土復帰50年の年にリリースされることになったわけだが、復帰からの50年を上原はこう振り返る。

「私はいろんなことをやってきました。でもね、自分がミュージシャンであるという意識を忘れたことはない。

つねにミュージシャンとしての活動を優先してきましたし、これからもみなさんに喜んでもらえる音楽をやっていきたいですね。ジャズは私の身体から離れない。生涯の宝物なんです。大事な友達なんですよ」

上原は高校生で米軍キャンプ内のクラブで活動をはじめ、本土返還とともに仕事を失い、それでもなおジャズを手放すことはなかった。

それどころか、ジーン・クルーパにのめり込んでいた10代からジャズに対する上原の愛情は変わらない。いくら時代は変わってもジャズは上原のなかで鳴り続けている。誰も彼からジャズを奪うことはできないのだ。

リリース情報
ウチナー・ジャズ・オール・スターズ
『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』(CD)


2022年6月22日(水)発売
価格:3,300円(税込)
RES-339

1. ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン(オープニング・ヴァージョン)
2. ヒヤミカチ節
3. 月桃
4. かりゆし(ロング・ヴァージョン)
5. ウチナー、ワンダフル・トゥナイト
6. マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ
7. えんどうの花
8. でんさ節
9. 童神~天の子守唄~
10. ミッドナイト・イン・コザ
11. レキオス・ブルース
12. シング・シング・シング
13. かりゆし(ショート・ヴァージョン)
14. ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン(オープニング・ヴァージョン)
15. 酒とバラの日々(ボーナストラック)
イベント情報
『ウチナー・ジャズ・オールスターズ スペシャル・コンサート 2022』

2022年7月30日(土)
会場:沖縄県 ミュージックタウン音市場
プロフィール
上原昌栄 (うえはら しょうえい)

1936年1月15日、那覇市生まれ。父親が琉球古典音楽をやっていた関係で物心がつく前から音楽に対して関心を持つようになる。1953年、高校在学中、米軍のクラブでプレイするようになる。担当楽器はギターとトランペット。その後ドラムを担当する。高校卒業後も米軍のクラブを中心に演奏を続け、1960年に沖縄一を誇るクラブ「VFWクラブ」のオーディションに合格し、以後13年間ここを中心に演奏を続ける。1979年、琉球古典音楽の研究所に入門。その後も精力的に活動を続け、2011年に初のリーダーアルバム『ウチナー・ビート!』をリリースした。



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