『BEEF/ビーフ』とはどんな作品なのか? 配信と同時に大ヒットも、出演者に向けられた疑惑で物議

4月6日に配信がスタートしたNetflixオリジナルドラマ『BEEF/ビーフ』は、配信開始と同時に大きな注目を集め、批評家から高評価のレビューも相次いだ。一躍『エミー賞』候補の筆頭に躍り出た話題作にもかかわらず、現在製作陣に大きな批判の声が向けられる事態となっている。

キャストの一人、デヴィッド・チョーが過去にポッドキャスト番組で黒人女性に性的暴行を行なったと発言していたことが再浮上したのだ。アーティストでもあるチョーは当時、この発言を「挑発的な自身のアートの延長」でつくり話であったと述べていたが、『BEEF/ビーフ』のヒットでこの発言が広く知られることとなり、キャスティングした製作陣にも批判が集中。4月21日に製作陣は声明を発表し、この「つくり話」は容認できるものではないとしたうえで、チョーは過ちから学ぶために対処をしてきたなどと釈明した。

発言を「つくり話」と断定し、チョーを擁護するかのような製作陣の姿勢は説明不足であり、批判に対する応答として十分であるとは言い難い。仮につくり話であっても性的暴行をジョークとする行為自体が非常に悪質である。

本稿は『BEEF/ビーフ』が配信直後からここまでの高評価を獲得したポイントはどのような点にあるのか、セメントTHING氏に解説を依頼したもので、本文にもあるとおり、大半が上記の発言が世間に再浮上する前に書かれている。近年アジア系のつくり手によるアジア系の物語を目にする機会が増えたが、その最新のかたちとして本作が達成したものはなんだったのか。韓国系、中国系、日系など多様なアジア系キャストによってつくられた本作のレプリゼンテーションの革新性を紐解く。

『BEEF / ビーフ』予告編

配信開始時から作品への高評価が相次ぐも、出演俳優の過去発言を巡る疑惑が噴出

本稿の内容の大半は、目下関心を集めているデヴィッド・チョーの性的暴行疑惑以前に書かれたものである。彼は2014年に自身のポッドキャスト番組のなかで、「黒人女性のマッサージ師に対し性的暴行を行なった」という「冗談」を言った。当時、本人はこの発言は嘘だったと釈明している。結果、2014年時点でこの発言は問題視されていたのにも関わらず、なぜチョーを重要な役に起用したのかという批判がなされた。

4月21日、ショーランナーのイ・サンジン、主演のスティーブン・ユアンとアリ・ウォンは声明を発表。このような有害な発言をいかなる場合も「容認することはない」と表明した。そして、発言については認識してはいたが、それはあくまでつくり話であるとの立場をとった。また、チョーはメンタルヘルス上のサポートを受けて、よりよい人間になろうと過去10年努めてきたとも付言している(*1)。この対応についても、どうして「つくり話」といえるのか、結果としてチョーを擁護するかたちになっている、という批判が起こっている状態だ。

性的暴行の被害を軽視し、それを助長する性差別的文化を強化するような発言は、あってはならないことである。また、この発言が人種差別と性差別という二重の差別によって苦しんできた、黒人女性に向けられていることも看過できない。『BEEF / ビーフ(以下、BEEF)』はホモソーシャルの有害な側面や、アジア系女性に対する性差別をもまた丁寧に描いたドラマだった。本件は作品が描いた問題の根深さを、製作陣自身が証明してしまった例だといえるだろう。

だが同時に、なぜここまで批判が大きくなるほど『BEEF』という作品が急速に世間の注目を集めたのか、それについて解説することには、一定の意義があると考える。本稿は『BEEF』という作品の魅力について語っているが、視聴の是非については読者個々人の判断に委ねたい。

日常のなかの「怒り」を起点に展開していく、壮大な嫌がらせの応酬。その「怒り」はなぜ新しいのか

NetflixとA24製作による新ドラマシリーズ『BEEF』は、公開後に全世界総視聴時間ランキングトップ10入りを達成(*2)。批評家をはじめ各レビューサイト上での視聴者からの評判も上々で、作品内容については満場一致での好評価だったといっていいだろう。

そのなかでも特に目立ったのが「アジア系アメリカ人の描写として革新的」という評価である。確かにエイミー役のアリ・ウォン、ダニー役のスティーヴン・ユアンを始め、このドラマの主要キャストはほぼアジア系だ。だがショーランナーであるイ・サンジンは、さまざまな取材に対し「人種についての作品にするつもりはなかった」と明言している(*3)。

人種についての作品ではないのに、その描写が革新的であるとは、どういうことなのだろう。その理由を探っていこう。

物語のきっかけは些細なことから始まる。ロサンゼルスに住む冴えない工事請負業者の男性・ダニー。彼はある日ホームセンターの駐車場で、裕福な起業家の女性・エイミーの運転するSUVと接触しそうになる。乱暴にクラクションを鳴らし、中指を立てるエイミー。強い「怒り」を感じたダニーは、走り去るSUVを追いかけ、あおり運転を始める。この一件をきっかけに、ダニーとエイミーの嫌がらせの応酬が始まり、どんどん過激にエスカレートしていく……。

日常のなかの小さな「怒り」から出発する本作は、主人公二人の暴力性や加害性を全編にわたってこれでもかと描く。その生々しさは見ていて居心地が悪くなるほどだ。そして、このドラマの「新しさ」について語る人々の多くは、まずこの「怒り」の描写をポイントとしてあげている。

もちろん日常のなかの暴力性を描く作品は『BEEF』が初めてではない。だが、劇中で「怒り」を爆発させるのがアジア系となると話は変わってくる。なぜなら、アジア系に対する「行儀が良い」「おとなしい」といった偏見がアメリカ社会には存在するからだ。

誤った選択を繰り返す、「模範的(モデル)」とはほど遠い主人公二人のキャラクター

アジア系アメリカ人は、あらゆるマイノリティがそうであるように、人種的偏見と無縁ではない。そのなかでも代表的なのが、アジア系は「モデルマイノリティ」であるというものだ。アジア系は衝突を避け、学歴が高く、勤勉で社会的に成功している。つまり、「模範的(モデル)」で、マジョリティにとっての問題を起こさない「無害」なマイノリティということである(*4)。

そのようなステレオタイプは、ハリウッドにおけるただでさえ少ないアジア系の描写に影響を与えてきた。勤勉で聡明な、主人公のサポート役。記号的な金持ち。もしくは、不思議なところのある変わり者。本筋に大きく関わらず「控えめに」存在するアジア系キャラといえば、すぐに何人か思いつく読者もいるだろう。

だが、『BEEF』の主人公二人にまったくそれは当てはまらない。二人はそれぞれが深刻な問題を抱えた、複雑な人物として描かれている。劇中の二人の行動は褒められたものではないし、感情を抑えることができず誤った選択をしてしまうこともしょっちゅうだ。さらになんとか一時的な「成功」にたどり着いたとしても、内面的な問題から多くの人に悪影響を与えてしまう。二人は「無害」な存在ではない、欠点を抱えた不完全な人間として描かれているのである。

そして、それこそがこの作品の「新鮮さ」なのだ。少し前ならばアジア系の役者がこのような人間臭い人物像を演じることはなかっただろう。「良い人」というアジア系に対する一面的な偏見を徹底的に打破する『BEEF』の描写は、その徹底ぶりにおいていままでの作品と一線を画しているのである。

自身の欲望を追求し暴れ回るエイミーは、「アジア系女性」への偏見のアンチテーゼ

また、アジア系一般に対する偏見に加え、アジア系女性にはさらにネガティブなステレオタイプが付与されていることも指摘しておきたい。アジア系女性は歴史的に、過剰なまでに性的対象化されてきた。受け身で淑やか(しとやか)、男の欲望を受け入れ堕落させる「エキゾチックな」存在……アジア系女性は、性差別と人種差別が絡んだ二重の差別を受けてきたのである。

そして、その状況は深刻な被害を招いている。そもそも、アジア系女性は男性よりヘイトの標的になりやすい(*5)。去年アトランタのマッサージ店やスパで働くアジア系女性たちが、「性依存の原因を取り除くため」という動機から、銃撃被害を受けたのを覚えている人もいるだろう(*6)。

だがそんな偏見についても、このドラマは強く揺さぶりをかけている。主人公の一人であるエイミーはアジア系女性だが、受け身でもなければ「おしとやか」な存在でもない。彼女はダニーにも負けない苛烈さで暴れまわり、場を大胆にかき回していく。彼女は自身の欲望を追求し、正しいかどうかはともかく、主体的な存在として選択を重ねていく。

女性に向けられる性差別的視線。そして「アジア系女性」であることに伴う根深い人種的偏見。不完全な人間として奥行きをもって提示されるエイミーの描写は、それらに対する強烈なアンチテーゼになっているのだ。

40代手前の「こんなはずじゃなかった」という絶望。普遍的な人生の辛苦を描く製作陣のねらい

ここまで『BEEF』がいかにアジア系アメリカ人の描写として革新的であったのかを確認してきた。だが興味深いのは、そのような「新鮮さ」というものは結果としてそうなったのであって、製作陣は「アジア系アメリカ人についてのドラマをつくろう」と思っていたわけではないということだ。

イ・サンジンによれば『BEEF』のアイデアは、自身がダニーのように路上で煽られた体験から生まれてきたそうだ。そしてまた、エイミーの立ち位置にあたる人物として当初スタンリー・トゥッチをキャスティングすることも考えたという(*7)。だが、彼はそのアイデアを早々と放棄した。なぜなら、「アジア系男性と白人男性が対立する」という構図をドラマの中心に置くとしたら、人種問題について語らないわけにはいかないからだ。

では、本作の目指すところとはなんだったのか。ふたたびイ・サンジンの言葉を借りれば、それは「生きるということが、いかに大変か」というシンプルなテーマである(*8)。

ダニーとエイミーは激しく対立するなかで、見て見ぬふりをしてきた自身の人生の問題と向き合わざるを得なくなる。絶え間ない経済的不安。過去の失敗の記憶。抑圧してきた欲望。メンタルヘルスの悪化。家族との根深い軋轢。そして世代間トラウマ……それらが渾然一体となって、40代を手前にした二人の、「こんなはずじゃなかった」という絶望を浮き彫りにする。二人とも「自分」を生きていくことに深い苦痛と孤独を感じており、ドラマはその様子を一種の悲喜劇として描いていく。

自らの生に向き合い、それを引き受けることの厄介さ。このテーマはあらゆる人に通じるものである。そしてそれを表現するうえで、登場人物がアジア系であることはたしかに必須だとはいえない。極論、どんな人が演じたとしても成立するものであるからだ。本作はそんな地平を目指していたといえる。人種についての話になることを避けた背後には、そのような理由があったのだろう。

しかし、だからこそ『BEEF』はステレオタイプから大きく離れた複雑な人物像を、アジア系の俳優を通して提示することが可能だったのではないだろうか。この作品が描こうとした普遍的なテーマを表現した役は、いままでなら多くの場合マジョリティの俳優が演じてきたものである。

そして、それをマイノリティであるアジア系が演じることそれ自体が、既存の「アジア系といえばこれ」という固定観念に対する挑戦になっているのだ。アジア系の登場人物を、その属性に完全には還元されないかたちで描くこと。それはつまり、その人物を「アジア系」という「キャラ」ではなく、視聴者と変わらないひとりの「人間」として描くということである。

『BEEF / ビーフ』サウンドトラック(Apple Musicはこちら

音楽面においてもその姿勢は垣間見える。本作ではエンディング曲としてHoobastank、Incubus、The Offspring、ビョークにThe Smashing Pumpkinsなど、1990〜2000年代のヒット曲が多数使われている。これらはまさに1980年代生まれであるダニーとエイミーの青春を彩ってきた曲であり、世界中のミレニアル世代の集合的記憶に刻まれているものだろう。

ここからも、製作陣が二人を広く「ミレニアル世代」全体に通じる悲哀を体現する存在として描こうとしている姿勢がうかがえる。インターネットの普及がもたらしたネガティブな影響について言及したり、空疎な自己啓発的レトリックやニューエイジ思想の蔓延を風刺したりするところなども、そのような効果を狙っているといえる。

『クレイジー・リッチ!』の大ヒット以降、いままでアジア系には開放されてこなかったような役柄が、次々とアジア系の役者によって演じられてきた。テレビ界においてもアジア系が重要な役を演じる例は増え続けている。そのようなメディア環境の変化が、このドラマには結実している。

『BEEF』の主人公が、アジア系でなければならない理由は存在しない。だが、それゆえにそんな役をアジア系が演じられるようになったという事実が、逆説的に際立だったものとして感じられるのだ。

韓国系、中国系、日系など、異なる背景を持つ「アジア系」の経験と記憶の描写

前項では『BEEF』は「アジア系」であることが物語の中心になっているドラマではない、ということを解説してきた。だがそれは、製作陣が登場人物の背景としてのアジア系の文化を描いていないわけではない。イ・サンジン自身の体験が色濃く投影されていることもあって、このドラマにおけるアジア系の描写は、さりげなくも生々しいものとなっている。

第1話、自身の身分を偽ってエイミーの豪邸に入り込んだダニーが、エイミーの夫で日系のジョージの写真を見て言うセリフなどはその好例だ。ダニーは子ども時代のジョージの着物姿の写真を見て、「彼は日本人?」と言ったあと、複雑な表情をみせるのである。この背後にあるのは5話の冒頭でダニーが言うように、「アジア系女性が自力でここまで成功できるはずがない(だから社会的強者である白人の男と結婚しているはずなのに)」という内面化された差別からくる驚きである。そしてここからは、東アジアの国々の緊張関係や、世代間で引き継がれる日本帝国主義の記憶もまた同時に読み取ることができるだろう。

アメリカにおいては「アジア系」と一括りにされがちな人々も、実際は個々の属性によって異なる背景や歴史をもっており、一枚岩というわけではない。韓国系の男性ダニーと、中国・ベトナム系の女性であるエイミーの経験には、そのため重ならない部分もある。そんないままで見逃されてきた微妙なニュアンスを、このドラマはすくい上げている。

また、韓国系教会の描写にも言及しないわけにはいかないだろう。韓国社会においてキリスト教の存在は大きく、国外の韓国系移民にとっても韓国系教会の存在は非常に重要である。

なぜ教会の存在が大きいかといえば、教会が韓国系コミュニティー内で人々をつなぐハブの役割を果たしているからである。渡米した韓国系の人々は、教会を通して別の韓国系の人と知り合い、現地のコミュニティーにスムースに参加できる。また、牧師や信徒の紹介を通して新しい職を得たり、法務や税務などの専門サービスにつながったりすることもできる。

さらに教会は訪れるものを全員「信徒」として平等に扱う。それによってどのような背景があれ、拠り所を得ることができる。加えてこのような教会は韓国文化の継承の機会(韓国語教室など)を多く主催しており、アイデンティティーを維持していくうえでも重要な存在となっている(*9)。

そして、ここまで読んだ人ならお気づきの通り、『BEEF』において描かれるダニーの教会体験は、このような韓国系教会の特性をよく反映している。彼は教会で自身の精神的・文化的拠り所を再発見し、仕事の機会を見つけ、チャンスをつかみ再起を図ろうとする。教会が物語で重要な役割を果たすのは、在米韓国系移民のリアルを追求した結果なのだ。

『BEEF』はこのようにアジア系固有の体験を、さまざまな角度から巧みに作劇に組み込んでいる。その結果として、本作で描かれる人物のあり方には強烈なリアリティーがあり、作品としての説得力が増している。製作陣は普遍的なテーマを下支えするために、登場人物のアジア系としての固有性を利用しているのだ。

このような「普遍性」と「固有性」の絶妙なバランス。これこそが先行作と比較したとき、『BEEF』が突出しているといえるポイントである。

人生についての普遍的な問題を、アジア系を主演に、その固有性を利用しながらもステレオタイプとは無縁なかたちで表現してみせた『BEEF』。近年さまざまな作品が挑戦してきたアジア系のレプリゼンテーションが、ここでは一段と深化したといっていいだろう。『BEEF』という作品は、今後何度も参照されることになるに違いない。



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