追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代

坂本龍一 追悼連載vol.8:高橋悠治を通じた現代音楽との出会い。西洋音楽に感じた限界とYMOへの加入

坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)。第8回の書き手は、『〈無調〉の誕生: ドミナントなき時代の音楽のゆくえ』(2020年、音楽之友社)の著者で、ジョン・ケージの名著『サイレンス』(1996年、水声社)の翻訳でも知られる音楽学者の柿沼敏江。「坂本龍一が高橋悠治から受け取ったもの」をテーマに、現代音楽との関わりから坂本龍一の音楽を見つめた。

小学生の坂本龍一に大きな衝撃をもたらした、高橋悠治という作曲家

坂本龍一のジャンルを超えた多彩な活動のなかに折り重なって見えてくるのは、一人の人物とその周辺の音楽家たちである。

坂本は小学校5年の頃に、母に連れられて草月会館にコンサートを聴きに行き、大きな感銘を受けたと述べている。コンサートが終わると彼はその音楽家のファンになっていた(※1)。17歳のあるとき、父親の知人を介して一人でその人に会いに行った。そしてその人は、坂本がいちばん尊敬する作曲家となった。その人とは当時、前衛音楽の最先端で活躍していた作曲家の高橋悠治である(※2)。

高橋悠治および高橋と関係の深い音楽家やアーティストたちの存在は、生涯を通じて坂本の活動のバックグラウンドとなっていったように思われる(※3)。それはジョン・ケージをはじめとするアメリカ実験音楽、ミニマル・ミュージック、エリック・サティの音楽であり、また高橋を通じて知りあったナム・ジュン・パイクの活動である。

※1編注:『skmt 坂本龍一とは誰か』(2015年、ちくま文庫)のなかで、坂本龍一はこのときのことを以下のように振り返っている。「小学5年生の時だった。母は、青山通りにある草月会館で行なわれた高橋悠治のコンサートにskmtを連れて行った。そんな場所に行くのも、高橋悠治という人を聴くのも全く初めてだった。彼は真ん中あたりの席に座って、ずっと高橋悠治がピアノを弾く手ばかりを見ていた。コンサートが終わり、高橋悠治のファンになっているのに気がついたけれど、ロビーに出てきた高橋悠治に、ドキドキして、何も言えずに終わった」——『skmt 坂本龍一とは誰か』より(外部サイトを開く

※2編注:高橋悠治に対して坂本は以下のように語っている。「70年代ちょっと前っていうのは湯浅譲二とかが中心になっていろいろな実験的なコンサートがあったんです」「アメリカの実験音楽とか実験フィルムの紹介があって、テリー・ライリーなんかもその頃知ったけど、やっぱり(高橋)悠治が一番すきでね。悠治のお師匠さんだったからクセナキスにも圧倒的に興味持った」——田中雄二『電子音楽in JAPAN』(2001年、アスペクト)より孫引き(外部サイトを開く

※3編注:17歳で対面を果たした高橋悠治の音楽と、そのほかの現代音楽家との違いについて、坂本は「現代音楽の作曲家でも、ニューミュージックの作曲家と同じように、漠然としたイメージを描いておいてとりかかるのがフツーじゃない。ロマンティシズム的なスタイルでね。でも、バウハウスがセザンヌを抽象した絵のように、丸とか三角形とか直線とか点、形の基本から組み立てるということを彼はやっていたの。それが今までの西洋音楽史のなかで一番原理的であって、僕にとっては非常に魅力的だった」と語っている。坂本龍一が高橋悠治の音楽に惹かれた理由については、自身の音楽家としての問題意識と大きく重なる部分があり、先の発言に続けて以下のように説明された。「雰囲気とかイメージっていうのは今まで聴いてきたもの、蓄積されちゃったもの、社会環境から学習されちゃったものに圧倒的に決定されちゃうじゃない。そういうものをいかに排除するか、が当時の僕にとって大問題だったから、それに代わる操作的な原理、操作的な手段、概念記号を操作できる明晰な手段を欲していたわけですよ」——坂本龍一、山下邦彦『坂本龍一・音楽史』(1999年、太田出版)より孫引き(資料は筆者提供)

高橋悠治と坂本龍一はともにピアノを弾く作曲家である。しかも二人とも即興演奏に長けている。共通点はまだある。ともに父親が編集者だった。

高橋の父、均は最先端の音楽も扱うような音楽雑誌『音楽研究』(1923年創刊)の編集者であった。坂本の父、一亀は、文芸編集者として埴谷雄高、高橋和巳、小田実、三島由紀夫、丸谷才一らと仕事をした。高橋自身も雑誌『トランソニック』(※)を編集し、坂本は自ら出版社「本本堂」を起こして本を出版した。そのなかには高橋との共著『長電話』(1984年)が含まれている。

※全音楽譜出版社より、1973年–1976年にかけて12回にわたり出版された作曲家のための音楽雑誌。坂本龍一も1976年夏号に「反権力の音楽生産/環螺旋体設営?」と題したテキストを寄稿している

坂本龍一の2つの「デビュー作」と高橋悠治

坂本の作曲家としてのデビュー作ともいえるのが、原田力男プライベートコンサート第2回『高橋アキの夕べ 六人の若い作曲家のピアノへの捧げもの』で演奏された“分散・境界・砂”(1976年、高橋アキ初演)である(※1)。高橋アキは高橋悠治の妹である。

このピアノ曲では、ピアノの弦を直接指で奏で、またところどころで言葉を発するように指示されている。ヘンリー・カウエルが1920年代に考案し弟子のジョン・ケージも使っていた内部奏法(※2)も、またピアニストの発声も新しい手法ではない。しかし、冒頭に哲学者ミシェル・フーコーの言葉が掲げられたこの作品からは、若き作曲家の熱い意気込みが感じられる(※3)。

※1筆者注:初演の録音は『Year Book 1971-1979』(2016年)に収録

※2編注:『async』(2017年)でも取り上げられている内部奏法について坂本龍一は、「自分の欲求としてそういう音が聴きたくなる、自分の音楽にそういう音が欲しくなってきたのは、ここ十年ですね」「ニューヨークでジョン・ゾーンや大友(良英)くんと一緒に演奏したり、一人でソロ演奏する時も、半分くらい内部奏法を取り混ぜたりしていました」と『SWITCH』2017年5月号掲載インタビューで語っている。あわせて、この時期に内部奏法を取り入れた理由として、「近代的に整備された楽器の極致」であるピアノを、木や鉄鉱石といった自然物からできた「もの」として感じるためと明かしている

※3編注:『Year Book 1971-1979』収録のインタビューによると、“分散・境界・砂”の初演を客席で聴いた武満徹は、後日、坂本龍一に「君はいい耳してるね」と楽曲に対する賛辞を贈ったのだという(外部サイトを開く

『async』の制作の裏側も映したトレイラー映像。9:50あたりから坂本が内部奏法をする様子も映し出される。『async』収録曲では“disintegration”や“Life, Life”で内部奏法あるいはプリペアドした音を聴くことができる(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く

坂本の最初のアルバム『千のナイフ』(1978年)に収められた“GRASSHOPPERS”の演奏に高橋悠治はピアノで参加した。ポップでも現代音楽でもないこの曲は、当時の坂本の立ち位置を教えてくれる。

同曲は高橋が手がけたピアノ編曲も発表されているが、1984年に神奈川県立音楽堂の『神奈川芸術祭 第326回音楽鑑賞の夕べ 現代作曲家シリーズ3 坂本龍一の音楽』(※1)のために新たな編曲が行なわれ(※2)、高橋アキと坂本との3人で演奏された(※3)。ダンスリーとのアルバム『エンド・オブ・エイシア』(1983年)でも古楽器用に編曲されており、また違ったテイストを楽しむことができる。

※1編注:同公演では藝大時代に書いた現代音楽に加え、高橋悠治、高橋アキのピアノと坂本龍一のシンセサイザーというトリオ編成で、テーマ曲を除くとライブ演奏される機会があまりなかった『戦場のメリークリスマス』(1983年)の収録曲、『音楽図鑑』(1984年)収録の“TIBETAN DANCE”と“M.A.Y. IN THE BACKYARD”も披露された。『Year Book 1980-1984』(2017年)収録のインタビューで坂本は、『音楽図鑑』からの選曲について「共演する高橋悠治さん、高橋アキさんに弾いてもらっても恥ずかしくないのはどの曲だろうと、まじめに考えた結果だと思います」「どちらもここだけのアレンジでおもしろい。あの忙しい時期に、ちゃんと三人で演奏するためにまじめにアレンジをしたんですね。尊敬する悠治さん、アキさんに対して適当じゃいけないという意識があったんでしょう」と語っている。また、坂本によると、高橋悠治と高橋アキは『戦場のメリークリスマス』と『音楽図鑑』の楽曲は当日の開演前の音合わせで初めて聴いたのではないか、とのことで「知らない曲を、譜面だけを頼りに演奏しているわけだからすごい」と2人の演奏を称賛している(外部サイトを開く

※2編注:この“グラスホッパーズ”は『エンド・オブ・エイシア』での坂本によるアレンジをベースとしたそうで、『Year Book 1980-1984』収録のインタビューで「そのときのためのアレンジをもとに、高橋悠治さんがこれをやろうとピアノ用に編曲してきてくれたんです。この曲をライヴ演奏したのはこれが最初で最後かな?」と自ら振り返っている

※3筆者注:この録音は『Year Book 1980-1984』に収録

坂本龍一“GRASSHOPPERS”を聴く(Apple Musicはこちら

坂本龍一+ダンスリー“グラスホッパー”を聴く(Apple Musicはこちら

YMOの結成年、1978年に2人は互いに「現代音楽」から距離を置く

現代音楽は1970年をピークとして力を失い、衰退の気配を見せていた。高橋悠治は1978年に水牛楽団を結成し、アジアの抵抗歌を政治集会で演奏するようになった。同じ年に坂本はYMOに参加する。つまりともに同時期に「現代音楽」から距離を置くようになっていった。

坂本は学生時代、民族音楽と電子音楽しか今後の道はないと考えていた(※)。当時はNHK電子音楽スタジオの活動がピークを迎えていた時代で、坂本も藝大の学生としてスタジオを見学した可能性もあるが、彼はむしろYMOに加わって、テクノポップという形で電子音楽に関わるようになった。

※編注:語りおろしの自伝『音楽は自由にする』(2009年、新潮社)のなかで坂本は「大学に入ったときにはっきり心に決めていたのは、『とにかく民族音楽と電子音楽は学び倒してやろう』ということでした。ぼくは不遜な小僧でしたから、『西洋音楽はデッドエンドだ、この先に発展はない』と思っていた。発展があるのなら勉強して進んでいけばいいけれど、もう袋小路だとしたら、西洋音楽以外のものに目を向けるしかない。外側を見ていかなくてはいけない」と語っている。なお、坂本龍一の東京藝術大学入学は1970年。西洋音楽に対してある種見切りをつけた理由は、スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、フィリップ・グラスらミニマル・ミュージックとの出会いが大きかったようで以下のように語っている。「ミニマルと呼ばれるぐらいですから、彼らの作品には構造らしい構造がなく、変化に乏しい音が、延々と続きます。ベートーヴェンのころから百数十年続いてきた西洋音楽の一つの流れがデッドエンドに来て、今こういうものが生まれているんだ、ということが実感できました」——『音楽は自由にする』より(外部サイトを開く

坂本龍一が監修を務める音楽全集『commmons: schola』シリーズの第13巻「電子音楽(Electronic Music)」の刊行に際して行なわれた、坂本龍一・小沼純一・三輪眞弘・川崎弘二による特別座談会より(外部サイトを開く

1979年のワールドツアーで演奏されたYellow Magic Orchestra“東風”(1980年)を聴く(Apple Musicはこちら

筆者は1980年頃にYMOのライブコンサートを聴きに行ったが、そこに繰り広げられていたのは、まさに電子音楽の世界だった。ステージには最新の機材が山のように積まれていて、奏者たちはその間を縫って動きながら、つまみを回し、レバーを上げ下げしていた。

高橋幸宏はドラムセットを叩いていたが、坂本と細野晴臣の二人は、まるで電子技師のように機材を操作し続けていたのだった。そうした身体性の欠如を補っていたのが、バックで歌い、飛び跳ねて踊っていた矢野顕子だった。坂本は仲間とともに自身の電子音楽をこうした形で実現したのだった。

Yellow Magic Orchestra“TECHNOPOLIS”(1979年)を聴く(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く

坂本龍一のキャリアにおいて途切れることのなかった「現代音楽」の地脈

当時の時代状況を考えると、坂本は現代音楽からポピュラーに乗り換えたというよりも、高橋悠治と同じように現代の作曲家として行くべき道を歩んだのである。

そのまま「現代音楽」の狭い世界に居続けることは、彼の性分に合ってはいなかった。YMO参加はある意味で必然だったともいえる。またポピュラー的なスタイルで曲を書くことは、現在では「現代音楽」のひとつの傾向になっており、振り返って見れば、坂本はその先駆だったともいえる。

坂本龍一“千のナイフ”(1980年)を聴く(Apple Musicはこちら

YMO散開後の1984年、ナム・ジュン・パイク展が都内で開催された際に、パイクの『タイム・コラージュ』出版記念ライブパフォーマンスが原宿ピテカントロプス・エレクトスで行なわれた。坂本も高橋悠治とともにパフォーマンスに参加した。

同年、坂本はパイクとともに映像作品『All Star Video』を制作し、また1986年には東京、ソウル、ニューヨークを衛星でつないだパイクの『バイ・バイ・キップリング』に出演することになる。パイクとの共同作業の経験は、次のステージを準備することになった。

坂本龍一『音楽図鑑』収録曲。ナム・ジュン・パイクに捧げたこの曲には、「voice」としてパイク自身もクレジットされている

1999年のオペラ『LIFE』が坂本にとって、ひとつのターニングポイントになる。21世紀を前にして、20世紀の音楽史を振り返るこの壮大なプロジェクトの要請に、十分に応えられる知識と能力を坂本は備えていた。ここでダムタイプの高谷史郎と出会ったことをきっかけとして、坂本は音楽よりも「音」へと傾いていく。

音を聴くことへの志向は、最後の3つのアルバム『out of noise』『async』『12』において強まっていった。グリーンランドの氷河の音や水の音、バシェの音響彫刻(※1)の音などを組み入れた近年の傾向ついて、「やっと10代で知り会ったジョン・ケージの思想に触れた」(※2)と坂本は語っている。

※1編注:ベルナール・バシェ(1917–2015年)、フランソワ・バシェ(1920–2014年)の兄弟によって考案された音の鳴るオブジェのこと——京都市立芸術大学「バシェ音響彫刻 特別企画展」より引用。なお京都市立芸術大学のページには「Ryuichi Sakamoto Prototype」と名づけられたものをはじめとする音響彫刻の写真が、ICA京都が開催する『追悼シンポジウム 「坂本龍一の京都」』のページには、京都市立芸術大学にてバシェ音響彫刻のレコーディングをする坂本龍一の写真がそれぞれ掲載されている(外部サイト①を開く / 外部サイト②を開く

※2編注:坂本龍一がジョン・ケージに通じるような音楽、偶然性を取り入れた音楽に触れた最初の機会として振り返っているのが、前述の草月ホールでのコンサートでの高橋悠治の演奏だった。『音楽は自由にする』のなかで当時のことを、「そのとき演奏されたのは、たとえば高橋悠治さんがピアノの中に野球のボールをぽんと投げ入れ、するとボールがぽんぽんと転がり音がするというもの。それから、目覚まし時計をピアノの中に入れて鳴らしたり」と語っている。なお筆者による引用は、美術手帖「坂本龍一ロング・インタビュー。あるがままのSとNをMに求めて」より(外部サイトを開く

坂本龍一“LIFE, LIFE”を聴く。バシェの音響彫刻の録音は、同曲のほかに”honj”にも取り入れられている(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く

いわば原点に戻った坂本は、最後にダムタイプのメンバーとして『2022: remap』の制作に携わった(※)。そこには世界各地から集められた環境音(ケージを想起させる)を含め、多様な音の緻密な構成を聴き取ることができる。それは洗練された優れた耳を持った音楽家でなくしては、つくることのできない世界である。

※編注:ダムタイプは、1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティスト集団。活動開始以来、特定のディレクターを置かず、ビジュアルアート、映像、コンピュータープログラミング、音楽、ダンスなど、多彩な分野のメンバーで構成される。『芸術新潮 2023年5月号』掲載の高谷史郎のインタビューによると、2022年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館での展示に際して、ダムタイプへの参加をオファーされた坂本龍一は「わかりました。うれしすぎます」とふたつ返事で承諾したという(外部サイトを開く

坂本龍一が制作し、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館で展示されたダムタイプのインスタレーションの音楽に、ライブリミックスを施したパフォーマンス映像

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リリース情報
坂本龍一
『Year Book 1971-1979』(3CD)


2016年1月17日(日)リリース
価格:4,700円(税別)

[Disc 1]
1. Sonate pour Violon et Piano ヴァイオリン・ソナタ
2. Quatuor à Cordes, études I, II 弦楽四重奏曲 エチュードI, II
3. Quatuor à Cordes 弦楽四重奏曲
4. Hitori Heyani Ite ひとり部屋に居て
5. Hoshino Aru Kawa―Rikoppuomanai― 星のある川―リコップオマナイ ―
6. Dispersion, Boundary, Sand 分散・境界・砂

[Disc 2]
1. Parade パレード
2. Kawarano Hikoojoo 川原の飛行場
3. Repetition and Chant 反復と旋
4. Nakaorebousi wo Kamutta Otousan 中折帽子をかむったお父さん
5. Yakusha Kagyo 役者稼業
6. The Cosmos 宇宙
7. Tropical Love トロピカル ラブ
8. The End of Asia (Live in London 1979) ジ・エンド・オブ・エイジア(Live in London 1979)

[Disc 3]
1-13. Memories of Nazca (Anti-oneiric device or music as a function of anti-collectivism)
ナスカの記憶 (非夢の装置 或いは反共同体関数の音楽)
坂本龍一
『Year Book 1980 -1984』(CD)


2017年3月29日(水)リリース
価格:3,500円(税別)

1. Finale (Live Version)
2. Happy End
3. Foto Musik(Dub)
4. Zoyy(Live Version)
5. Demo #3(Live Version)
6. The Arrangement(Live Version)
7. Happy End(Live Version)
8. Demo #6(Live Version)
9. Piano Pillows(Live Version)
10.Syosetsu(The Novel)
11.Merry Christmas Mr. Lawrence(Live Version)
12.Before the War(Live Version)
13.Last Regrets(Live Version)
14.Beyond Reason(Live Version)
15.The Fight(Live Version)
16.Tibetan Dance(Live Version)
17.M.A.Y. in the Backyard(Live Version)
18.Grasshoppers(Live Version)
プロフィール
坂本龍一
坂本龍一 (さかもと りゅういち)

1952年東京生まれ。1978年、『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。映画『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督作品)で『英国アカデミー賞』を、映画『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトリッチ監督作品)の音楽では『アカデミーオリジナル音楽作曲賞』、『グラミー賞』ほかを受賞。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。



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