映画『国宝』を九龍ジョーがレビュー。歌舞伎ファンの「こうあってほしい」を具現化【微ネタバレ】

メイン画像:©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025 映画「国宝」製作委員会

歌舞伎ファンの「こうあってほしい」を具現化した作品

約3時間という上映時間の長さを忘れさせる映像体験。李相日監督による映画『国宝』は、歌舞伎ファンの多くが「こうあってほしい」と妄想する歌舞伎界、あるいは昭和歌舞伎への憧憬を見事に具現化した作品だった。

肌に白粉が塗られる、ひんやりとした感触。まだ何者でもない少年時代の喜久雄の背中から物語は始まる。チュニジア系フランス人の撮影監督ソフィアン・エル・ファニのカメラは、カンヌのパルムドール受賞作『アデル、ブルーは熱い色』でも見せたように、人物の肌理を通して雄弁に物語る。首筋、目尻、手先、指先――。身体の一つ一つを捉えるクローズアップは、汗で崩れる化粧の一筋までを登場人物の迸る感情そのものとして描く。

このフィジカルで生々しい質感こそが、本作を「歌舞伎の映画」ではなく、歌舞伎を題材とした「映画」たらしめる。間違いなく、同じ吉田修一原作となる『悪人』や『怒り』などにおいて人間感情の極限をえぐってきた李相日監督のフィルモグラフィーに連なる最新作として。

『国宝』原作は上下巻に及ぶ物語だ。エピソードを余すことなく映画化すれば、6時間でも足らないだろう。主人公・喜久雄に視点を絞り、「血と芸」という軸で構成されている。結果として、ドラマがやや図式的になった点は否めない。また、原作にはあった喜久雄が映画やテレビでも活躍するメディア横断的なリアリティや何人かの魅力的なサブキャラクターは削られた。それでも李監督と脚本の奥寺佐渡子の判断は、正解だったといえる。

喜久雄の鏡としての俊介の表情が忘れがたい。化粧台の前で震える喜久雄の目元に俊介が紅を差すとき、あるいは、父の代役を務める喜久雄の舞台を客席から見つめるとき、その表情が「血と芸」の相克を深掘りする。

舞台内外のドラマとリンクする、歌舞伎演目の周到な配置

シナリオを構成するカギは、「道行」だったのではないだろうか。『曽根崎心中』におけるお初と徳兵衛の、心中へと向かう恋人たちの道行。喜久雄と俊介それぞれが恋人との逃避行で体験する道行。何より、喜久雄と俊介の関係そのものが辿る道行。2人の関係性(あるいは血と芸)は単純な対立構造をとらず、互いが互いを必要とする共依存的な絆にも思える。

喜久雄は、劇中で2度『曽根崎心中』を演じる。1度目の道行の場面は、芸道への旅立ちを体現し、結果、俊介や春江(高畑充希)との訣別につながる。2度目の『曽根崎心中』の相手は伏せるが、道行の決意を問う足のつま先を捉えたクローズアップのグロテスクなまでの美しさは、本作を象徴するショットだ。

『曽根崎心中』以外にも歌舞伎演目の配置が周到だ。幕開けの『関の扉』は原作通りだが、その他は選び抜かれている。『二人藤娘』『二人道成寺』『鷺娘』――劇中で演じられる演目が、舞台内外のドラマ、さらには喜久雄の人生と綯い交ぜにリンクする。

もともと歌舞伎における舞踊は、長大な物語における「つなぎ」の役割も果たす。単なる時間的省略ではない。踊りの振りや構成に、物語の展開や登場人物の関係性などが、その「心」として結晶化される。つまり歌舞伎の舞踊は単なる身体の動きではない。一つ一つの振りや型に意味があり、ドラマや感情が込められている。

これと同じ構造が、本作の劇中演目でもとられている。吉沢亮の喜久雄も、横浜流星の俊介も、言葉では表現しきれない複雑な想いや感情を、歌舞伎の所作や型、あるいは発声に結晶化させて伝える。この映画の視覚的訴求力と歌舞伎の象徴的表現力が融合したところに、映画『国宝』の到達点がある。

圧倒的なディテールを支える裏方と名優の存在

歌舞伎指導として中村鴈治郎がいることの意味は大きい。上方歌舞伎の重鎮である鴈治郎は、原作の連載段階から全面協力しており、今回の映画では吾妻千五郎という歌舞伎俳優役での出演も果たしている。舞台上だけではなく、楽屋裏など歌舞伎俳優のオフのディテールにおいてもかなり貢献したと思われる。

また、吉沢亮と横浜流星は、撮影開始の1年以上前から舞踊家・谷口裕和のもとで日本舞踊の基礎を学び、さらに撮影にあたって吾妻徳陽(鴈治郎長男でもある歌舞伎俳優・中村壱太郎の舞踊家名)による女形の指導も受けている。劇中の演目は、鴈治郎ないし、徳陽にとっての重要なレパートリーでもあり、そのことが単なる「歌舞伎風」ではない、本物の歌舞伎としての説得力を裏書きしている(なお余談ではあるが、徳陽は新海誠監督『君の名は。』でも巫女の儀式の振付を手がけている。このキーパーソンぶりは、現代日本映画の裏面史として記録されるべきだろう)。

吉沢亮が舞踊を通して見せる喜久雄の複雑な内奥。横浜流星が俊介を通して見せるしなやかさと華。いかに万全の布陣とはいえ、現代劇の俳優がこれを成し遂げたのは奇跡的に思える。映画は舞台とは違う。カメラが回る間だけ、ピークを刻めばよい。しかし、歌舞伎の舞踊は単なる身体の動きではない。一つ一つの振りや型に「心」がなければならない。さらにそこに、喜久雄や俊介の心も載せる必要があるのだ。

2人を支える名優たち、特に田中泯の万菊は本作の白眉だろう。芸の高みを短いカットに凝縮した『鷺娘』は圧巻。歌舞伎ファンなら誰もが昭和を代表するあの名女形を思い起こすだろう。ただ、単なる模倣ではない。様式を超えた魂の表現として、観る者に迫ってくる。終盤、床に伏した際の手の動きには、舞踏家・大野一雄の晩年を幻視した(大野一雄といえば、映画『ジョーカー』のホアキン・フェニックスにもその面影がよく指摘されるが、本作の喜久雄のある場面に、あのジョーカー的な狂気を重ねる者も多そうだ)。

渡辺謙の半二郎は、上方の人気役者らしい風格と軽やかな凄みを漂わせる。彼の少年時代の喜久雄と俊介への元禄見得の厳しい指導や、自身の代役を勤める喜久雄へのダメ出しの激しさもまた、歌舞伎場面の説得力を支えている。歌舞伎の家に生まれ、歌舞伎俳優という職業に複雑な思いを抱き、いまは歌舞伎俳優の母となった寺島しのぶのリアルな存在感については、言うまでもないだろう。

道行のパートナーとなる高畑充希や森七菜、さらに一歩引いて喜久雄を見守る見上愛、瀧内公美らも短い場面のなかで、ステレオタイプを超えた存在感を示す。少年時代の喜久雄と俊介を演じる黒川想矢と越山敬達も印象的だ。『怪物』『ぼくのお日さま』など、すでに突出した出演作のある二人が、芸に懸ける少年たちの初々しさと緊張感を見事に体現している。

ソフィアン・エル・ファニのカメラワークについて、クローズアップだけでなく光の扱いにも触れておきたい。すっぽんをセリで上がる場面が印象的だ。薄暗い奈落から光に満ちた舞台へ。この光と影のコントラストが、歌舞伎という世界の二面性を象徴する。美術監督・種田陽平による劇場の再現度がまた素晴らしい。時代ごとの実在の劇場をモデルとしたのだろう、南座や歌舞伎座、さらには地方の芝居小屋まで、微細にわたって再現されている。エキストラの観客で埋まった劇場の空気感は、たしかに歌舞伎見物のそれである。

端的に言って、この映画には、歌舞伎を観たことのない観客を劇場に誘う力がある。そういえば、三浦貴大演じる竹野という興行会社社員の再現度もなかなかのものだった。歌舞伎の元締めである松竹も、おおっぴらにはリレーションしづらいだろうが、この話題作を歓迎しているのではないか。なにより間違いなく、歌舞伎の間口を広げているはずだ。

血統を持たぬアウトサイダーだからこその「渇望」

ショットのフレームが時に舞台を端正に捉える。劇中で舞台を見つめる観客の視点と、それをスクリーンで見ている私たち観客の視点が重なる。さらに、舞台外で進行する喜久雄と俊介のドラマもまた、舞台のなかに溶け込むことで、虚構と現実の入れ子構造が曖昧になっていく。

喜久雄と俊介が舞台に寝転がる場面がある。御曹司である俊介は「なにかに見られているような気がする」と口にする。舞台芸術を扱うフィクション作品のクリシェと言ってもよいセリフだろう。だが、喜久雄は違う。見られているのではない。喜久雄は「見たい」人である。そこに、この映画の核心がある。

日本一の歌舞伎役者になりたい。師に抱かれ、父の死を見届けた夜に降った雪は、いつしか降りしきる紙吹雪に変わる。血統を持たぬアウトサイダーだからこそ、その眼差しは芸の頂に立つ者の景色を渇望する。喜久雄の目に映る景色を、私たち観客もまた、彼の表情を通して見るかもしれない。少なくとも私は、「美しい歌舞伎を見た」という感触を得た。

作品情報
『国宝』
全国東宝系にて公開中

原作:「国宝」吉田修一著(朝日文庫/朝日新聞出版刊)
監督:李相日
出演:吉沢亮
横浜流星/高畑充希 寺島しのぶ
森七菜 三浦貴大 見上愛 黒川想矢 越山敬達
永瀬正敏
嶋田久作 宮澤エマ 中村鴈治郎/田中泯
渡辺謙


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