『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』が問いただす我々の歪んだ自意識

1970年代にドイツを震撼させた実際の連続殺人事件を、犯人側からの視点から徹底的に描き出した異色作『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』(2019年、ドイツ、監督:ファティ・アキン)が、2月14日(金)のバレンタインデーからヒューマントラスト有楽町などで封切られる。

『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』予告編

本作は、リアルな暴力描写と剛速球のブラックユーモアが同居する、シリアルキラー版『アニマルプラネット』(世界最大級の動物・自然チャンネル)とでも評すべき映画であり、何とも言えない「芳醇なトラウマ」を残すゴルゴンゾーラのごとき濃厚な味わいがある。その破壊力と面白さについてはぜひ劇場で確認していただくとして、本稿では、この恐るべき物語から受け取ることができる現代的意義を掘り下げたい。なお、文中には、1月23日にドイツ文化会館で行なったファティ・アキン監督へのインタビューの内容も盛り込んでいる。

一人の醜い男による実現不可能な「妄想の暴走」。1軒のバーを起点として繰り広げられる凶行は、SNSがわたしたちにもたらす空虚さや徒労感とも重なる

主人公は、実在の連続殺人犯であるフリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)。夜な夜な「ゴールデン・グローブ」というバーに入り浸っては酒を浴びるように飲み、そこに集う女たちを物色している。だが、ほとんど誰も相手にしてくれない。それもそのはず驚くほど醜い容姿だからだ。極度の斜視、ゆがんだ鼻、汚らしい乱杭歯、せむしのように折れ曲がった背中……。「不細工過ぎる」「小便を引っかけるのも嫌だ」という露骨な拒否反応が返ってくることもある。やがてホンカは、バーでそんな自分の相手をしてくれる「哀れな身なりの娼婦」を自宅に連れ帰り、恥ずべき凶行を積み重ねていくことになるというのが大まかな設定だ。

主人公フリッツ・ホンカを演じるヨナス・ダスラー。特殊メイクにより、特徴的な容姿をしていたとされる実在の男性を演じる。©2019 bombero international GmbH&Co. KG/Pathé Films S.A.S./Warner Bros.Entertainment GmbH
本作のフリッツ・ホンカと、実在するフリッツ・ホンカ本人の写真 ©2019 bombero international GmbH&Co. KG/Pathé Films S.A.S./Warner Bros.Entertainment GmbH

ホンカには1つの夢がある。偶然出会って一目惚れした金髪の美少女ペトラと結ばれることである。お金と酒を目当てにすり寄ってきた老娼婦のゲルダを、家政婦兼「性欲のはけ口」として使い倒す以外に関心を示さず、ゲルダが「可愛い子」と自慢する彼女の娘にペトラのイメージを投影していくのだ。このような実現不可能な「妄想の暴走」こそが、いわば本作における酸味の効いた主旋律となっている。

これは、実は単なるセクシャルな妄想に留まるものではない。その深層には、ヘドロのように沈殿した「自意識をキャンセル」し、「他者と融合」することへの飢餓感があるのだ。

「自分が取るに足らぬ人物」であるという意識からの脱出願望。人生をコントロールできている感覚を取り戻すために繰り返される血生臭い暴力

殺人研究の泰斗であるコリン・ウィルソンは、一部のシリアルキラーたちに「工業化社会」の反動としての「欲求不満と反抗」を見い出した。「『アウトサイダー』的な犯罪者――すなわち、自分が取るに足らぬ人物であるという感じを素直に受け容れるには知的すぎるが、さりとて、人に認められる自尊レベルで自己主張をするには知力もしくは肝っ玉(タフネス)が足りぬという『どっちつかずの』人たちの数が次第に増えつつある」と洞察した(『現代殺人の解剖 暗殺者(アサシン)の世界』中村保男訳、河出書房新社)。そして、その背後に隠されているのは「狭苦しい人格性」からの脱出願望であるとみなした。

彼が退屈しているのは、狭苦しい部屋に閉じ込められているように自分の人格性の中に彼が閉じ込められているからだ。彼のたえまない性欲のうずきは、人格性の中から脱出したいという欲求にほかならないのだ。が、それは、充分に遠くまで彼を運んでくれはしない。彼の自己規律の欠如は彼を再び元のけだるさの中に押し込めてしまう。(前掲書)

つまり、ホンカにとって「性の困難」との闘いは、骨の折れる仕事といえるものであり、絶望的な反復行為にしかならないのである。

一度は社会復帰を試み、酒を断ち働きに出たホンカだが、「彼の自己規律の欠如は彼を再び元のけだるさの中に押し込めてしまう」。©2019 bombero international GmbH&Co. KG/Pathé Films S.A.S./Warner Bros.Entertainment GmbH

そのいら立ちが最も良く表れているのが、ホンカが連れ込んだ2人の娼婦のうちの1人が逃亡し、それに怒り狂った彼が残った方の女の頭をテーブルに金槌のごとく連打するシーンだ。胸糞が悪くなるような血生臭い暴力が展開されるが、ここには「人格性の中から脱出」する道程が途絶え、「私は何者か」という「自己イメージ」が危機に瀕する事態が表現されている。また、ホンカが勃起不能となり一心不乱にシゴく姿を娼婦に笑われ、馬乗りになって殴るシーンにも「自己イメージ」の危機が刻印されている。

自己イメージがぼやけると、人間は自分の人生にたいする支配(コントロール)力を失い、「凡庸で、偶然的で、可死的なもの」だと感じる。だが、人間は、進化する動物であり、その幸福は自分が前進しているのだという感じと結びついたものである以上、なんとしても支配(コントロール)感を回復しなければならぬという緊急な必要を感じる。そこで、自分の支配感を回復してくれるものなら、どんな行動でも、その当座には正当化できるものと思われるのだ。飢えた意志は、空腹そのものと同じように、満たされることを渇望するのである。(同上)

つまり、ホンカにとっての「緊急な必要」としての「支配感の回復」は、娼婦への過剰なまでの暴力によってなされたわけである。

気に食わないことがあると、堰を切ったように苛烈な暴力を振るう ©2019 bombero international GmbH&Co. KG/Pathé Films S.A.S./Warner Bros.Entertainment GmbH

しかも、言うまでもないがこれらの「自己イメージ」は、社会が作り出した人工物、フィクションでしかない。ホンカは、弟からゲルダを「大切にしろよ」という言葉を投げ掛けられても意に介さず、「想像上の娘」に取り憑かれていることがすべてを物語っている。この種の欲望が誰かからの承認に依存した「借り物」に過ぎないことと、その誤った認識こそが「人格性の中から脱出」することを邪魔してしまっていることを、構造的に示しているのである。監督のファティ・アキンは、本作を「孤独、ロンリネス(消極的孤独)についての映画だ」と語ったが、ウィルソンの言葉を用いるなら「人格からの逃れ難さについての映画」といえるだろう。

「客観性」というエクスタシー。わたしたちの「ちっぽけな自意識」を浄化するために手に入れなければならないもの

ウィルソンは、「人格性」を「主観性」に言い換え、「主観性」は地獄であり、「非人格性」「客観性」は天国であると説明した。エクスタシーという言葉は、ギリシャ語の「エクスタシス(ekstasis)」に由来し、「外に立つこと」を意味している。「自分が自分の外に立つ」=「人格性」「主観性」の外に出ることなのだ。性的なニュアンスで使われることが多い言葉だが、忘我の境や恍惚といった訳語が充てられている通り、宗教や芸術などの世界では馴染み深い超越感覚であり、わたしたちの「ちっぽけな自意識」を浄化してくれる潜勢力を持っている。ただ、これは一朝一夕には手に入らない。前述のように内面化された社会が視界を曇らせているからである。ゴールデン・グローブの喧噪に突然場違いな救世軍が登場する理由もこれで説明がつくかもしれない。「外に立つこと」は、性愛でなくても宗教で可能であるからだ。

唯一、物語の中で「普通の人」として登場する救世軍の女性 ©2019 bombero international GmbH&Co. KG/Pathé Films S.A.S./Warner Bros.Entertainment GmbH

自己イメージを保つための幻想。逃れがたいSNS空間と「ゴールデン・グローブ」の共通点

ここではファティ・アキンが、ゴールデン・グローブのことを、ソーシャルメディアとの共通点をなぞりながら、「そこでのつながりというのは、リアルな場所、スペースではなく、幻想」と強調していたことが重要な意味を帯びてくる。そこでは「依存症や中毒の危険性」があることも併せて強調した。

両者を貫いているのは、いわば「自己イメージ」を保つための「幻想」にしがみつく作法だ。しかしそれは「人格性」「主観性」の地獄でもある。ソーシャルメディアをはじめとするネット空間で「いいね!」をもらおうと、あるいは意見の異なる他者をねじ伏せ、自らの存在を誇示しようと血眼になる人々が典型だが、手垢の付いた欲望に駆動された「支配感の回復」に傾倒し、知らず知らず空虚感と徒労感だけが募っていく。そのような「幻想」の舞台として、ゴールデン・グローブの陰画を抽象化してみれば、ホンカもわたしたちも、依存症や中毒から距離を取ることがいかに難しいかが分かるだろう。

物語の舞台となるバー「ゴールデングローブ」 ©2019 bombero international GmbH&Co. KG/Pathé Films S.A.S./Warner Bros.Entertainment GmbH

わたしたちはどのようなフィルターで物事の価値を推し量るのか。酒やネット空間に逃げ続ける限り手にすることのできない本質的な問いを投げかける

一方で、「非人格性」「客観性」という天国への扉は、アキンがバーの娼婦たちを「醜い」と評価する声に対して「僕はそう思わない」と述べ、「彼女たちを美しいと思う。絵画のような女性たち」と讃えたところに明確に示されている。

いかに「自意識をキャンセル」し、「他者と融合」するか。それはアキンが「何が美しいかというのは、自分で決めること」と言ったように、人生における「美醜の問題」であり、もっと敷衍すれば、わたしたちがどのようなフィルターで物事の価値を推し量っているのか、という本質的な問いとなって跳ね返ってくる。

この古くて新しい難題に取り組むことから避け続けている限りは、わたしたちはとりあえず酒やドラッグで我を忘れるか、ネット空間で少しばかり脚光を浴びたり、毒をまき散らしてやり過ごすしかないのかもしれない。そんな強烈な批評がスクリーンの端々から腐臭のように漂ってきている。それはわたしたちのグロテスクなセルフィーでもあるのだ。

主人公フリッツ・ホンカ役ヨナス・ダスラーに施される特殊メイクも必見。醜い容姿はこうして作り上げられているのだ。

作品情報
『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』

2020年2月14日(金)からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国で順次公開

監督・脚本:ファティ・アキン
出演:
ヨナス・ダスラー
マルガレーテ・ティーゼル
ハーク・ボーム
上映時間:110分
配給:ビターズ・エンド



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