「フジワラノリ化」論 −必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考− 第4回 関根麻里 其の五 まとめ:関根麻里はどうすれば消えないのか

其の五 まとめ:関根麻里はどうすれば消えないのか

第4回 関根麻里

小林麻耶を観ながら石川遼のことを考えていた。小林麻耶はどうして笑顔のママでいられるのかという点を苦慮していたのだ。笑顔の度合いがカラッとズバ抜けているのである。人間の感情表現として最も「作る」のが難しいのは「喜び(笑顔)」なのだという。悲しんでいる風、怒っている風なんかはいかにも本当のように演じきることができるが、笑う、ウケる、楽しむ、これを装うことは難しい。小林麻耶の笑顔の純度はとにかく高い。付け入る隙を与えないとは正にあの笑顔のことであって、それって作り笑顔じゃないのと問いかけた時に映るその笑顔の完成度に、作り笑顔であろうともその作り込み方に感服するほかなくなるのである。

石川遼については、「誠実な対応」において同じベクトルが作動する。報道側が邪推した際に誠実な対応のみで返すのはなかなか難しい。トゲトゲしい設問に少しでも反応すればその反応だけを取り出して報道するように出来ているもんなのだ。「私たちはこの25年間強い信頼感に結ばれています。いつだって手を取り合ってやってきました。そりゃあ、四半世紀も一緒にいればケンカをする時だってありますけど」とコメントすれば、「四半世紀も一緒にいればケンカをする時だってあります」だけ取り出して熟年離婚の危機を報じるだろう。石川遼は、その手の抜き出しすらさせない適切なコメント対応を貫く。要するに優等生なのだ。優等生っぷりが、その純度が、半端じゃないのだ。爆破予告のあったゴルフ大会の前日に不安は無いかと問われた彼は、「観に来てくださるお客様が楽しんでくれるようなゴルフを心がけるだけです」と答える。文字にしてみると平淡なのだが、顔と声とその音量と目線で、総合的にとことん誠実に対応するのである。報道陣というのは、コメントからこぼれおちる所を探り、次の設問で深追いする。しかし石川遼の返答には、その隙間が用意されていなかった。

どうして小林麻耶と石川遼の完成度を挙げたかとなれば、関根麻里の道程にはこの完成度、すなわち「笑顔」と「誠実」という、まるで選挙ポスターみたいなキーワードの成熟が必要だからなのである。アナウンサーにとっての笑顔、スポーツ選手にとっての誠実さ、これは職業柄培った取り柄とも言えるだろう。環境の中で体得するのだろう。関根麻里には今の所、確固たる環境は無い。雑食の中から主食を探している。彼女自身が体得すべきは、確固たる環境にいなければ培えない筋力なのかもしれない。笑顔と誠実という筋肉である。関根麻里はまだその筋トレを積み重ねなければならない。FM番組のDJが、あれだけプライベートをくっちゃべってるのに何となく本人がいない黒子っぽい番組作りに陥っているのと同じように、彼女の司会業としての見事な身のこなしには、黒子としての徹し方に過ぎないのだと感じざるを得ない部分も多い。デビューして数年、当然である。ベッキーの名前を何度か挙げたが、ベッキーは来年でデビュー10周年である。芸歴が長い。芸歴の短い関根麻里が「関根麻里」を安定化させるのを急ぐ必要は無いが、やはり方向付けと極めるべき力点を持つべきではある。

第4回 関根麻里

今後、関根麻里が歩むべき抜け道とは「親しみのある麻木久仁子」ではなかろうか。ほぼ、この論考の結論である。麻木久仁子は才色兼備で通っている。才と色のどちらかについて兼備と呼べるレベルじゃないんじゃないかと問う声も聞こえてきそうだが、この人の重宝のされ方を見ていると、関根麻里の安定化がこの近くに棲んでいると感じるのだ。クイズ番組には必ず秀才が必要である。おバカとの比較が出来ないからである。しかし、高田万由子やラサール石井や辰巳琢郎じゃあ、もうダメなのである。秀才が秀才として座っているだけでは、芸にならないのだ。麻木久仁子には、デキる自分を動かさずにその場その場を横断していく適応力がある。たまたまラジオをつけたら麻木久仁子が「ニートの性生活」の相談に乗っていて、「オレには女なんか一生必要ないんです」と意地張る青年を嘲笑しながら説教していた。ほう、こういう温度を出してくる人だったのかと感心した。無論、秀才がベースとなって「私は違うのよ」が消えない場面も多い。関根麻里は今までの仕事で、関根勤という特権を洗い流してきた。優等生風に甘んじず、自分の立場を模索し続けてきた。英語は出来る、司会はできる、愛想がいい、かわいくなくはない。そう、麻木久仁子のポジションを狙いながら、よりフィールドの広さを貪欲に狙っていくべきなのだ。この連載の第1回で取り上げた中山秀征が司会を務める「ウチくる!?」のサブなどどうだろう。故・飯島愛の後を久保純子が継いでいるが、これが弱い。あれはいわゆる高田万由子的才女の狭さなのである。女子アナウンサーがもてはやされているが、彼女らは順調にもてはやされたまま、誰かスポーツ選手なりを捕まえて辞めるか、フリーアナへ転向していく。それこそ小林麻耶がフリーへの転向を表明したが、女子アナバブルが数年後にもたらすものは、「フリーアナバブル」だと思うのである。そこでライバルとなるのが関根麻里やベッキーのような、広範囲で安定した仕事のできる人材なのである。しかし、女子アナは鈍感にしてまだそれに気付いていない。気付いた時にはそこにはそびえ立っている。30歳になったベッキーが、いや、関根麻里が。

今、気付いたのだが、ベッキーと関根麻里、そして、各社売り出し中のアナウンサー(TBSの出水麻衣、フジの生野陽子、日テレの夏目三久)は全員1984年生まれである。現状の安定を狙う関根麻里の行く末には、「局アナ後」の彼女たちがいるのかもしれない。まあ、負けることはないだろうけど。



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