沖縄に生きる女性たちの肖像 第5回:島袋芳子

太陽のような沖縄女性の生き様を紹介する本連載。5回目にご登場いただくのは、『沖縄第一ホテル』創業者の島袋芳子(しまぶくろよしこ)さんです。沖縄における朝食ブームの火付け役で、薬膳朝食が有名な『沖縄第一ホテル』。島の伝統野菜の素晴らしさを先頭に立って伝え続けてきた現在89歳の芳子さんに、朝食メニューに隠された苦労と喜びの人生をお聞きしました。

※本記事は『HereNow』にて過去に掲載された記事です。

先人達の知恵の宝庫。沖縄ならではの朝食を提供する!

沖縄の島野菜料理や朝食を語る上で外せないホテルがある。それが、『沖縄第一ホテル』の朝食だ。長命草のジュースやオオタニワタリ(日本南部から台湾で穫れるシダの植物)のおひたし、ニガナ(キク科の植物)の白和え、島ニンジンのサラダなど、色とりどりの50品目20皿以上の料理がテーブルを彩る。ハンダマは貧血予防、青パパイヤは免疫力を高めるなどの効能があり、薬を簡単に買うことができなかった沖縄の先人達の知恵の宝庫とも言えるだろう。

沖縄だからこそ食べられる薬膳朝食。このメニューを考案したのが、『沖縄第一ホテル』の創業者である島袋芳子さん89歳だ。40年ほど前、自らヨーロッパやアジアを旅行したことをきっかけに、「沖縄ならではの朝食」を出すことになったのだという。

最初に出したのは、今では当たり前になった沖縄県産のシークワーサージュース。フレッシュな果実を手搾りでジュースにし、蜂蜜を入れると、「飲みやすくて元気になる」と大好評だったそう。それから、沖縄の家庭料理をあれもこれもと作って増やしていったら、お客さまに喜ばれ、いつの間にか50品目に増えていったそうだ。

作家の大江健三郎さんやアナウンサーの故・筑紫哲也さんなど多くの著名人をはじめ、政治家や文化人に愛されてきた『沖縄第一ホテル』。芳子さんは、「このホテルは駅のような存在でありたい。出会った方のご縁を大事に、このご縁が長く続くように大切にしたい」と話す。そのわけは、芳子さん自身が「たくさんの人に支えられてきたから」だと、これまでの道のりを振り返る。

空襲の中、死んだ人の上をまたがり走って逃げた

父親が台湾の日本総督府に勤めていたため、芳子さんは台湾生まれ。20歳まで台湾の松山飛行場の近くで育った。戦争が始まるまでは、恵まれた環境で育ったが、戦争が始まった途端に立場は逆転する。

空からブーンブーンと音がするとB29がくる。ブーンブーンってそれはもう不気味な音だった。その数分後に爆弾がバババーっと落ちてきてね。死んだ人の上をまたがって走りながら逃げました。それはもう地獄絵図のようでしたよ

九死に一生を得て、終戦後、島袋さん一家は沖縄に引き揚げた。どんなにお金持ちでも日本に持って帰れる財産は、当時の金額でひとり1000円だけ。そして、地上戦が行われた沖縄で待っていたのは、文字通り、食べていくのが精一杯の生活だった。アメリカ軍のテントの中で、軍の配給で暮らす日々。「本土のほうがいくらかマシなんじゃないか」という思いで、東京にいた叔母を頼って上京した。そこで、電気関係の技術師だった夫と出会って結婚し、2人で沖縄に戻ってきた。

成功後に待っていた、大きな罠。

商才のあった夫は次々と事業に成功し、1955年、芳子さんの母の夢だったホテルを開業した。それが今の『沖縄第一ホテル』。当時、沖縄で初めてクーラーと蛍光灯を取り入れた高級ホテルで、アメリカ軍のトップや、政治や財界の人々から重宝されるようになり、戦後の沖縄であっという間に人気となった。

しかし、その直後に待っていたのは、国家ぐるみの大きな罠。

ホテルはね、すごくうまくいっていたんですよ。それをね、よく思わない人たちがいたんです

当時の沖縄はまだアメリカによる占領下で、1961年から3年間、琉球列島高等弁務官・キャラウェイによる強権発動政策が行われた。当時の米国民政府による、(沖縄の)日本への復帰運動を規制し、政治面、経済面における沖縄のリーダーを退陣に追い込んだり、権限を制約したりする発令を繰り返した。属に言う「キャラウェイ旋風」である。その摘発の一環として、『沖縄第一ホテル』が標的にあがり、あらぬ理由を並べ立てられ、経営していたホテルもバーも自宅も、全ての財産を没収された。

あまりの落胆と心労から夫は家を出た。
芳子さんは、ふたりの子どもを抱えて残された。

大きな権力に負けた悔しさ、失った深い悲しみを胸に抱きながら、芳子さんは「生きていかねば」と、ひとり歯を食いしばり、戦った。幸いにもホテルだけは芳子さんの共同名義だったため、沖縄県を相手に裁判で戦って勝利。親戚中から借金をして、競売に出された自分のホテルを買い戻した。

世界を旅して決心。朝食メニューを沖縄から変える!

それから20年は記憶がないくらいに、ただがむしゃらに働いた。仕事着のワンピースは10年に1枚、口紅も10年で1本買っただけ。沖縄の焼き物を買いたいというお客さまがいれば、やちむんの町・壷屋を自ら案内することも。サービスにルールやマニュアルなんてない。求められること、喜んでもらうためならなんでもやった。そんな芳子さんを見て、お客さんが次のお客さんを連れてきてくれたり、長期で泊まってくれたりしはじめる。

夫が日本本土の姓だから、ウチナーンチュ(沖縄の人)なのに、沖縄でも差別を受けた。私を何度も救ってくれたのは、日本から来たお客さん。いいお客さんがたくさんいたから、ホテルを続けてこられた」と話す。

そうして、40歳を過ぎた頃、頑張って貯めた30万円で旅に出た。

周囲には貯金しなさいって言われたんだけど、外の世界を一度見て、何かをつかみたいと思ったんです

イギリス、フランス、スペイン、スイス、中国、香港、ギリシャ……。2ヶ月間ほど旅をしたなかで、芳子さんは冒頭の答えに辿り着いたのだ。

どこも素晴らしい国だった。けれどどの国のホテルも、みんなアメリカ式の朝食スタイルで、パンと卵料理とサラダばかり。だったら、私から変えようと。そこで思いついたのが、私が体調を崩したときに母が作ってくれた、沖縄のクスイムンだったんです

クスイムンとは、沖縄の言葉で「体にいい食事」という意味。島ニンジンは体のサビをとってくれるし、ヘチマやモズクは血の巡りを良くしてくれる。沖縄の食材や料理は、体にいいことづくし。

知恵が詰まった沖縄の料理をたくさんの人に伝えたい」この思いが芳子さんを奮い立たせ、現在の薬膳朝食メニューを完成させることとなった。そして評判が評判を呼び、今や沖縄の朝食ブームの代名詞とも言える存在に成長した。

娘の一言。「私と仕事、どっちが大切?」

今、『沖縄第一ホテル』の女将は、次女の克江さんが受け継いでいる。大人になって話を聞くまで、克江さんは「うちがそんなに大変だったなんて、全く知らなかったし、母はそんな様子を全然見せなかったんですよ。でも思えば、洋服はいつも同じだったし、寝ている姿も見たことがありませんでした。お母さんってすごいな〜と今になって尊敬します」と驚きを隠さない。

母・芳子さんは一度、小学生だった克江さんから聞かれた言葉を昨日のことのように覚えていた。

お母さんは、私とホテルとどちらが大事なの?
胸がギュッと締め付けられそうになった。
あなたに決まっているじゃない。当たり前じゃない
そして、体を抱きよせながら、
ごめんね、でもお仕事をしないと、みんなが食べていけないから。分かってね
と諭したのだそうだ。

母の背中を見て育った克江さんは、母の考案した薬膳料理の意味をしっかり伝えられるようにと、野菜ソムリエと国際中医薬膳師の資格をとった。「クスイムンだから食べなさいと、祖母や母に言われていた料理は、栄養学的にも中医学的にも全て理にかなっていました」と話す。芳子さんが何よりも大切に守り続けてきたものを、しっかりと受け取り、次の世代へ繋げている。

100年も経っていないのに、こんなに時代が変わるなんてね」としみじみと語る芳子さん。その語り口は穏やかながら、キャラウェイ旋風の話の時だけは、声は大きく、悔しさで震えていた。それでも、最後にこうも言った。

キャラウェイのしたことは許せない。でもね、いじめられたおかげで、私は大きくなれたと思う。それだけはよかった。たくさんの人に助けてもらった。その恩は今でも忘れない

喜びも悲しみも、芳子さんが経験した全ての結晶とも言える『沖縄第一ホテル』の薬膳朝食。だからこそ、ホテルを訪れる私たちにとって、一度食べたら忘れられない思い出の朝食となるのだろう。

プロフィール
かいはたみち
かいはたみち

「沖縄の編集工房アコウクロウの空」代表。編集者・ライター。東京での出版社勤務後、雑誌『沖縄スタイル』、地元紙『沖縄タイムス』を経て現職。著書に『ていねいに旅する沖縄の島時間』(アノニマスタジオ)など。

垂見おじぃ健吾 (たるみ・おじぃ・けんご)

沖縄在住、南方写真師。文芸春秋写真部を経てフリーランスになる。JTA機内誌『Coralway』の写真を担当。 共著本に『タルケンおじぃの沖縄島案内』文・おおいしれいこ(文芸春秋社刊)、『みんなの美ら海水族館』文・かいはたみち (マガジンハウス刊)、『沖縄の世界遺産』文・高良倉吉(JTBパブリッシング刊)など。

沖縄第一ホテル
住所 : 沖縄県那覇市牧志1-1-12
営業時間 : 朝食8:00~12:00(8時、9時、10時~の入れ替え制)
※朝夜ともに完全予約制
電話番号 : 098-867-3116
駐車場 : あり


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