『この人に、この人生あり!』

『この人に、この人生あり!』 第5回:半径3mの世界から始まった「マンガ研究」浅野いにお(漫画家)

『この人に、この人生あり!』 第5回:半径3mの世界から始まった「マンガ研究」浅野いにお(漫画家)

『素晴らしい世界』で日常をベースにした新世代のマンガ家として注目され、若者たちの喪失と再生の物語『ソラニン』が大ヒット&映画化。連載中の『おやすみプンプン』では超現実的描写も用いて、誰もが持つ人間のドス黒い内面世界の表現に挑むなど、絶えず話題作を世に問い続ける、浅野いにおさん。そのマンガ世界は、どんな「人生」から生まれ出てくるのでしょう? 現在の作風にも通じそうな少年時代のエピソードから、17歳での幸運なデビューに続く暗中模索の日々。そして『ソラニン』ヒット後の悩みや新たな挑戦、さらにこの冬描き下ろした、ローソンのカフェサービス・MACHI café×アーティストコラボタンブラーのお話も含めた、最新の心境を伺いました。

浅野いにお プロフィール

1980年生まれ、茨城県出身。2001年『宇宙からコンニチワ』で第1回GX新人賞に入賞。主な作品に『素晴らしい世界』『ひかりのまち』『虹ヶ原ホログラフ』『おざなり君』、宮崎あおい主演で映画化された『ソラニン』など。現在ビッグコミックスピリッツにて『おやすみプンプン』、マンガ・エロティクス・エフにて『うみべの女の子』を連載中。

 浅野いにお

「授業ひとコマ中に1作品」を描いた高校時代

浅野さんは茨城県石岡市生まれ。小学生のころは「自分でいうのも何ですが、人気も人望もある子どもでした」と笑いますが、マンガの趣味は友だちと少し違っていたようです。

浅野いにおさん

浅野:特別マンガ好きではなかったのですが、6歳違いの姉が貸してくれた『伝染るんです。』(吉田戦車)や『バタアシ金魚』(望月峯太郎)にはすごく刺激を受けました。周りの同級生はやっぱり『週刊少年ジャンプ』を読んでる人がほとんどでしたけどね。

ちなみにジャンプ系なら、怪作ギャグマンガ(?)として名高い『ハイスクール!奇面組』(新沢基栄)のファンだともいう浅野さん。こうした志向は、マンガを描き始めたころの表現にもつながったようです。

浅野:中学生になるとヤンキーっぽい人たちが幅を利かせるようになって、僕もなぜか同級生にカツアゲされてしまったこともありました(苦笑)。そんな環境の変化の中で、もともと得意だった絵で自分のポジションを獲得できないか探っていた面はあります。8頭身のドラえもんとか、シュールな絵で周りを楽しませて一目置かれよう、みたいな。人気の不良マンガを真似してもよかったかもしれないけど、そこはやはり自分の描きたいもので、という気持ちもありました。

代表作に見られる日常 / 非日常の融合や、『おざなり君』のような異色作も、このあたりに原点が? いっぽうで当時、性格的にはかなりマジメな一面もあった浅野少年。学内一のやんちゃな同級生の万引き現場に居合わせ、思わず「それはいけないことだ」と、説得を試みたこともあったとか。

浅野:でも結局、「ナニ言ってんのお前?」という空気になってしまって。そのときですかね、世の中、ちゃんと話し合いすれば何でも互いに通じ合える、ってわけじゃないんだとわかったのは。

後の浅野作品を考える上においても、興味深いエピソードですね。こうした環境からの変化を求め、卒業後は学区外のつくば市にある共学の公立高校に通います。学園都市の研究者の子供たちが多く、「自由な雰囲気で居心地がすごく良かった」というこの高校時代に、初めての彼女も、バンド仲間もできたとか。

浅野:バンドでは僕はベース担当。ジャンルはスラッシュメタルでした(笑)。勉強は全然しなくなって、授業が1時限終わるまでに4コママンガをひとつ仕上げるのを自分に課してみたり、このころからマンガを自己流で描くようになりました。

浅野いにおさんの部屋

初の原稿持ち込み、落胆直後の異例デビュー

当時描いていたのは、手近な鉛筆やペンで描いたシュールな4コマギャグマンガ。友だちに見せて楽しんでもらうことが嬉しかったものの、浅野さんはそのうち、これをマンガのプロに見せたらどう評価されるのか、確かめてみたくなります。

浅野:高校入学後に成績がガクッと下がったので、自分は得意な絵でなんとか生きていかなければ、という危機感もあったかもしれません。それである日、学校を早退して電車に乗り、東京のビッグコミックスピリッツ編集部に原稿を持ち込んだんです。とにかく直接、何か感想を言ってもらいたかった。そこで、後に長くお世話になる編集者の小室時恵さんが見てくれたのですが、その場では「相手にされてないな」という印象で、がっかりして帰ってきました。

ところが、それからひと月も経たないうちに、その作品を同誌に急遽掲載したいという連絡が飛び込んできます。これが浅野さんの漫画家デビュー。まだ17歳という若さでした。でも本人いわく、このデビューは「とにかく幸運に恵まれたもの」だったとか。

浅野:話をよく聞くと、ある連載作家さんのマンガが一部間に合わず、埋めるべきページ数が僕の持ち込み作品とちょうど同じだったんです。小室さんはその後「あのときは原石的なものを感じた」的なことも言ってくれたようですが、本当のところは僕にはわからないですね(笑)。

なお印象的な名前「いにお」は、急遽ペンネームを決めることになり、手元にあった保険証に「いにを」という表記があったのを採用。その後は「いにを」が「いにお」と誤植されたりされなかったりを放っておいたら、結局「いにお」に落ち着いたそうです。繊細な作品作りが印象的な浅野さんですが、意外とアバウトな一面もあるようで(?)、また面白いですね。

新人賞受賞などの典型的な「マンガ道」をショートカットした、高校生でのメジャー誌デビュー。しかしこの後、初連載の実現まで約5年間、暗中模索の時期が続くことになります。

幸運な処女作の後の長いトンネルと、そこからの脱却点

浅野いにおさん

異例のデビューは果たしたものの、続く展開はけして芳しくなく、浅野さんは大学受験のために執筆を一時中断。玉川大学芸術学部に進みます。進学を選んだ当時の心境には、先が見えない不安から、猶予期間が欲しいという気持ちがありました。「好きなゲームの世界でイラストレーターを目指す道もアリかと考えた」「同級生が大学受験を前にメキメキ学力アップしていくのを見て、将来が少し恐くなった」ことなど、浅野さんは照れ笑いで振り返ってくれました。

入学後の2001年、『月刊サンデーGX』の新人賞で『宇宙からコンニチハ』が入選。連載獲得へのステップにと、前述の編集者小室さんの助言も得て勝ち取った成果でしたが、それでも「賞をとるために割り切って描いた」という複雑な想いが残ったそうです。

それでは、今に至る作風――何気ない日常から出発して、そこにある光と影を描く「いにお節」への本格的移行はいつ起きたのでしょう? これには、10代終わりの2つの出来事が関係しています。

浅野:ひとつは、岡崎京子さんやよしもとよしともさんの作品との出会いです。「こういう、半径3mのリアリティーを描くマンガもアリなんだ」と気付かされました。もうひとつのきっかけは、大学2年のとき、恋人にフラれたこと(苦笑)。それまでずっと恋人と二人きりの世界だけで、友だちも作らなかったから、ゲームをやるか、マンガを描くかだけの孤独な日々になってしまって。かなり煮詰まったあげく、友達を作って普通の大学生活をしてみようと思い立ったんです。

最初は「普通の大学生のフリをしてみる」くらいの一歩引いた気持ち。高校で漫画家デビューを飾ったこともあり、どこかで「自分は周りより有利な立場にいるし、色々考えてもいる、と天狗になっていた」面もあったそうです。

浅野:でもちゃんと付き合ってみると、みんな個々の事情や背景があって、その中で日々考えて生きている。当たり前なんですけどね。周囲を勝手に上から見ていた自分が、実は一番バカだったのかもしれないという気持ちになって。やがて彼らとの付き合い方も変わっていったし、それを楽しめるようになりました。

大学卒業を間近に控えて始まった不定期連載『素晴らしい世界』(サンデーGX)は、そんな変化が作風にも表れたものになりました。

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