「フジワラノリ化」論 第12回 市原隼人 今、「熱血」という商売を問う 其の二 男子本意の「本気(マジ)」と、女子目線の「カワイイ」の親和性

其の二 男子本意の「本気(マジ)」と、女子目線の「カワイイ」の親和性

本気と書いて「マジ」と読ませる圧力じみた言語に出会ったのはヤンキーマンガだった。ナメんじゃねーよの対語として本気(マジ)があった。ナメてねぇよ、こっちは本気だかんな、と。ナメてんならボコボコにするし、本気なら本気同士殴り合おうぜという世界。昔から、この手の世界が嫌いだった。イエスかノーかは、そんなにすぐに答えられるわけではない。これはもう、自分にずっと通底する態度なのであります。本気かと問われても、これは本気なのかどうかについて、2週間は欲しい。おっと、それではボコボコにされちまうようだ。即答を求められる世である、思案中は優柔不断と名を変えて、糾弾の対象へと姿を変える。

市原隼人は本気だ。いつの瞬間も本気だ。そして、何よりも、本人の中に、市原隼人は本気であるという植え込みが成されている。だから速攻だ。カメラが彼にピントを合わせた瞬間、本気ですと宣言してくる。まだ、聞いていない。でも、言う。だって、本気だから。

アントニオ猪木の最たる名言は、「元気があれば何でも出来る」だと思う。自分ではなく外の皆を鼓舞させる。外への配慮が利いている。外への気合いだ。自分ではなく、放り投げた気合いで他人をジャンプアップさせようとする。その名言を市原隼人に準えると、「本気でいけば何でも出来る」ということになろう。でも、この場合、その本気は内に向かう。その後で、その内を持っていれば大丈夫だよと、外に向かう。ほら、自分でどうにかしようぜ。彼はそう訴える。それは、自分の本気を信じている証にもなる。彼はこの4月頭、新社会人に向けてのメッセージという形で「WONDA」のCMに出演した。唐沢寿明とGACKTと市原のそれぞれが、白バックのシンプルなセットに登場し、新たなスタートを迎えた新社会人にメッセージを伝えた。市原のそれは、今、書き記したように、自分の本気を自分の内に持っていれば、それを外に出した時、とんでもなく大きなことが出来るんだ、だからおまえらも本気で行けという、「本気の手本」としての立地を自らに課していた。そこに疑いは無かった。全文を書き起こすのが丁寧だろう。1分ほどのロングCMである。

「フジワラノリ化」論 第12回 市原隼人

おはようございます。今日から社会人になる皆さん、おめでとうございます。みんな、新しい世界に飛び込んでいくわけだけど、やる気にあふれる今日の気持ちを忘れずに、いつも前向きにやっていこうぜ。これからの社会人生活、例え壁にブチ当たったとしても、一歩ずつ乗り越えていこう。そんな経験を積み重ねていかないと分からないものがあるんだよ、きっと。オレらは、まずは、何でも全力でやってみるしかないと思う。そこで失敗しても、ちゃんと後から何か学んで、立ち上がっていこうぜ。何度でも、何度でも。そうやってオレらの世代が頑張ってったら、ほんのちょっとでも世の中が、ニッポンが、明るくなると思うんだよ。大げさかもしれないけど、だからさ、がむしゃらにやっていこうぜ。今日から、みんなで。頑張っていこう。

本気は必ず善良に至ると信じて社会へ入り込むと、社会人としては挫けてしまう。「こんなに真面目にやってるのに、どうして」とか「私は一生懸命やってるのに」という場面に出くわす度に思う、ここは真面目度や懸命度を披露する場所ではないのだ、と。市原の言うことは間違っていない。現役社会人の誰もがそう思うだろう。しかし、声を張り上げて言うことではない。がむしゃらに言うことではない。やる気にも種類があって、具体的に声を張り上げるタイプとそうではないタイプ、そのどちらも、やる気としてとても有効なものだ。社会人はそれを知っている。本気であることを前面に押し出せばそれが本気になるのか。それは違う。内在させた本気を「世の中」や「ニッポン」といったとてつもなく大きい対象にブツけていくのもいかがなものか。叫ぶなら、こう叫べば良いじゃないか。君の入った部署をちょっとでも良くしていこうぜと。ニッポンを、そんなに近くに置いちゃいかん。ぷちナショを量産させるワールドカップが近い。市原が「使われそう」な気がする。

市原隼人がウケているなと感じるのは、彼に対する女性の反応だ。2つの番組を記憶している。まずは「行列のできる法律相談所」への出演。島田紳助に、「中学3年生からずっと同じ彼女とつき合っている」と宣言した彼の男っぷりに周りの女性タレントや客の女性達は黄色い声を上げた。流行りの男性俳優がわざわざ自ら彼女の話を切り出す機会は珍しい。それを紳助は「芸能史を変えた」とまで言ってみせた。DAIGOは「(この話を出されちゃって)完全に負けましたね」と笑いを取り、石田純一は「そんな事言っちゃうと後で大変だよ」と失笑を得た。磯野貴理は、「こういう青年もいるんですよ」と惚れ込んだ。市原は恐縮しながらも、してやったりという顔をした。単なる1番組への出演だか、これは市原の転機となった。女性週刊誌ではこの放送に続くように「一途な愛」を報じたし、市原は男らしい、という文脈をあちらこちらで見かけるようになった。

「恋のから騒ぎ」にゲスト出演した彼を、迎える女性陣は「カッコいい」とし、ほくそ笑む彼に向かって「かわいい」と連呼した。いやそんなことないっすよとはにかめば、更にその連呼が群がった。さんまはこの番組にカッコいいとされる男性が出る度にそれを崩そうとする。その崩しを笑いに転化するのが、彼にとって番組を進行する上での容易な手段だからだろう。大抵の男性俳優は、さんまに対する接し方を心得ているから、さんまに何かを言われれば、それを何がしかの突起を生じさせてからさんまに返す。それをさんまが拾って笑いを興す、というやりとりが通例となる。しかし、市原隼人はそうしなかった。褒められたら、それを、そのまま受け取る。照れながら手で顔を触る。そこへ向かって、女性陣は「かわいい」と連呼する。さんまが、久々に参ったなという顔をする。

気づいた。いや、前から気づいていたのだけれども、改めて確認をする。市原の「本気」の需要は女子にある。男子の需要があるとすれば、それは女子に受けるためにどうすればいいのかという手本・憧れとしてのそれだ。ヤンキーマンガには常に、その強者のことを好きになる女子がいた。或いはずっと引き連れた彼女さんがいた。市原の「WONDA」のCMを見て覚えた違和感、あれは何だったのか。言っていることは正しいのだけれども、その本気が新入社員という特殊な対象に絞られた途端、訴えが陳腐に見えた。ん、なんか、届ける所を間違えていないかと思った。しかし本来、本気の男が新入社員に訴えるという構図はとてつもない強度を持つはずである。何故か。女子だ、女子なのだ。女子がいないといけない。カメラに向かって喋るのではなく、大学の授業かなんかに出て男女混合の面々に話しかけ、その模様を映せば、説得力がもっと増しただろう(唐沢とGACKTはそうせず白バックのままが良い)。

男らしい、で売り出しているはずの市原隼人には、誰よりも女子の存在が必要である。男の本気は、何がしかの支えが無ければ起動しない。彼が長年つき合っている彼女の存在を明かしたことはその意図の充足になった。しかし、テレビの中での彼の評価を格段に上げているのは、から騒ぎの女性陣のような、即物的な熱狂を男子に向けられる女子目線なのである。この親和性とのつき合い方が、彼の寿命を決めると言えるのではないだろうか。本気の入口も出口も、女子にあるのだ。だから、自身の本気を磨くだけでは生き延びてはいけない。女子にモテることが何より必要なのだ。



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