
vol.273 「上から目線」序説(2010/5/10)
よく、上から目線だよねと言われる。2点ほどさっさと議論をふっかけておこう。まず1点。そう言ってくる君は何から目線なのか。唐突にその人の立地・アングルを決定付ける行為、それこそ上から目線ではないのか。もう1点。上から目線は、どうして悪いものとして扱われるのか。斜め目線とか、下から目線とか、一緒だよね目線とか、いろいろあるんだろうが、その中で上から目線だけがそれはちょっといかがなものかという扱いに追いやられることに、納得できる説明が欲しい。
冷静な分析と偏った分析のどちらかに押し込む作法をそろそろ止めにしたらどうか。分析する当人も、これは2つのうちのどっちだと理解した上で発しているようで気色悪い。つまり、自分の引き出しには2種類あって、「ああこれはそうだよね」という冷静、「ちょっとそれ許せない」という異議、この2種だけを使い分けている。自分に甘い・優しいというのはその人なりの身のこなしだから問いつめる事なんて出来ないけれども、この、自分の分析力への緩慢については、近辺でうろつく知人群にそれなりの危害を加えている事に、そろそろ気づいてくれないだろうか。
人であろうが、消防車であろうが、バナナであろうが、そこへ向かう分析というのは、冷静でもあり偏ってもいる。混在するのが常だ。頭の中に、NHK(1 チャンネル)と2ちゃんねるが合わさっているのが常態であるべきで、それを区分けして、公的な発表と私的な野次に変換するのは、白スーツの蓮舫もさすがにビックリの仕分けであろう。しかし、それに気づこうとする気配はない。これはこういうことだからと涼しい顔をして、次の日にちょっとこれはどういうことと青筋を立てている。それは混ざろうとしない。
どちらかが際立つと重宝される。ワイドショーのコメンテーターを見ていれば分かる。絶対に冷静か、絶対にキレているか、どちらかだ。そういう人が、キャラクターとして認知される。逆に言えば、簡単に特徴付け出来なければその位置にはいられない。それはテレビの中の話。外で同様のアプローチを踏襲する必要は無い。それなのに、踏襲する。
上から目線だよね、というのは、両極のどちらかに何もかもを置いておきたい人が議論を放り投げたい時に使われる言い方なのかなと思えてくる。冷静か偏屈のどちらもなく混色している意見を見つけると、「知りもしないくせして俯瞰しやがって」という見方で、上空へと排他する。困ったものだ。
ある対象に向かって、イラッとして、理解して、憤怒して、許す。万事は、こうやってグラグラと揺れていくんじゃないのか。その後で意見を発すると、どうしても俯瞰した言い方になる。それを、上から目線だと片付けられる。何なんだよそれは。彼等なりの定義では、上から目線とは「何もかも知ったかのように物事を決めつける」ことのようだ。最後に冒頭の復習。人の発言を上から目線だとするその行為こそ、君の言う「上から目線」の定義にピッタリあてはまると思うのですが、そこのところ、いかがでしょうか。