
素人がゼロから作り上げた『沖縄映像祭』の記録
- インタビュー・テキスト
- 田島太陽
- 撮影:柏井万作
「荒削りでもいい、自由で独創的な作品を」。そうコンセプトが掲げられた『沖縄映像祭2010』が11月19日から21日まで開催される。ジャンル、テーマ、尺の長さなどの制約を一切設けず、全国から自主制作映像を募集し大賞を決めるイベントだ。審査員に『鉄男』『悪夢探偵』などで知られる映画監督・塚本晋也を迎え、140以上の作品の中から入選したプログラムが上映される。「若者の刺激になってほしい」「沖縄から世界に通用する作品が生まれてほしい」という想いから始まった同企画だが、その発足と今回までの歩みには様々な困難や紆余曲折があった。地域に根付いた企画を一から立ち上げた実行委員長の大田康一に話を聞き、沖縄映像祭の背景にあるヒストリーや意気込みに迫った。
(インタビュー・テキスト:田島太陽 撮影:柏井万作)
きっかけは知人である映像ディレクター・下地敏史だった。下地は自主制作映画を作ったものの、県内では上映する場所すらない。そこで下地を実行委員長として『沖縄映像祭』を立ち上げることになり、かつて『ショートショートフィルムフェスティバル』(アジア最大級の国際短編映画祭)の沖縄実行委員長を務めたこともある大田も加わった。「その場がないなら自分たちで作ってしまおう」そんなシンプルな動機が発端だった。
だが沖縄にはその土台も前例もなく、イベントの立ち上げや運営に関しては大田を含めて全員が素人。右も左も分からないまま、まずは知人の繋がりから有志でスタッフを集めることから始まった。県内で映像を手がけている人がどれだけいるかを調べて告知をし、ある程度の応募作が集まるめどが立った時点で初めて上映会場を押さえた。また、広い意味での「映像」の可能性を考えてほしいという思いからあえて「映画祭」とはしなかったことにより、学生のショートフィルムや自主的に制作されたミュージックビデオ、クレイアニメ、ドラマ、ドキュメンタリーなど5分〜30分程度の多彩な作品が70本ほど揃った。中には沖縄の米軍基地に住む若者からの応募もあったそうだ。
「すごい紆余曲折を経て間違ったり戻ったりもあったけど、みなさんの協力もあってなんとかやれたという感じです。本当に手作りのイベントでした」
そう当時を振り返る。では「自主制作」に限定したのはなぜだったのだろう?
大田康一
「やっぱり若い人の刺激になるようなものにしたかったんです。普段はハリウッド映画ばかり観ることが多いので、ここで上映される小規模な映画は別世界。だから自分で撮った作品が応募できて審査される場であると同時に、県内外の同世代の作品に触れられる機会にもしたかった。ここで得た刺激で、次のステップに進んでほしいなって」
企業周りで集めた協賛金や文化庁からの助成金などで運営費をぎりぎりでやりくりし、『山形国際ドキュメンタリー映画祭』から若手作家の作品を借りるなどプログラムの充実にも尽力した。知人の繋がりから2005年の第1回では中川陽介監督、俳優・田口トモロヲ、06年の第2回では当時『さくらん』の公開で話題となっていたタナダユキを審査員長に迎えることもできた。参加者や観客の反応も上々で、「これを契機に沖縄の映像が盛り上がるかもしれない」、そんな実感があった。
ところが、沖縄映像祭はここで頓挫してしまう。
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2/2ページ:「井の中の蛙」にならないために…
イベント情報

- 『沖縄映像祭2010』
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2010年11月19日(金)〜11月21日(日)
会場:沖縄県 桜坂劇場
プロフィール
- 大田康一
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沖縄県那覇市出身。『沖縄映像祭2010』実行委員長。NHK沖縄放送局契約スタッフ、沖縄フィルムオフィスを経て、東京にて映画・ドラマ制作部の会社 (有)コンティニューに所属。企画・運営参加イベントとして、『ショートショートフィルムフェステイバルin沖縄』、『渋さ知らズ沖縄公演』、『琉球電影烈伝in沖縄〜山形国際ドキュメンタリー映画祭〜』、『Okinawa Motion Picture Festival2005,2006』がある。