大黒摩季はなぜ復帰した? バブル時代も主婦の気持ちも知る女の歌

シンガーソングライターとして、そして女性として、40代を「生きる」ということとは、どういうことなのだろうか。そして「歌う」ということは、どういう表現なのだろうか。ちょっと大袈裟な話になってしまうかもしれないけれど、そういうことを感じさせてくれた取材だった。

2010年に子宮疾患と不妊治療のため音楽活動を休止し、今年8月、6年ぶりの復活を果たした大黒摩季。先日放映されたテレビ番組『情熱大陸』では、活動休止中だった6年間の病気治療、専門学校の講師としてボーカリストを目指す若い世代を教える姿、そして母の介護を行う日々も赤裸々に描かれていた。

一方、先日は18年ぶりとなる『ミュージックステーション』に出演。“熱くなれ”“あなただけ見つめてる”“ら・ら・ら”という自身の代表曲を歌い上げ、パワフルな歌声を披露している。デビュー25周年を迎え、コンプリートベスト『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles + ~』のリリースを機に、大黒摩季のこれまでとこれから、そして若い世代に向けたメッセージを聞いた。

2回お腹を切っているので、一度は歌えない覚悟をしていました。

―まず、『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO』(以下、『ライジング』)で6年ぶりの復活のステージに立ったときの感触はいかがでしたか?

大黒:とりあえず「みなさまの思っている、ファンの方々が好きな大黒摩季ってなんだっけ?」ということを思い出すところから始まりました。活動休止はまったくポジティブなものではなく、病気に身ぐるみはがされた感じでしたからね。完全に音楽から離れて、母の介護と、自分の治療と、あとは主婦として暮らすだけでした。音楽やエンターテイメントに関しては、作り手ではなくて受け手にまわっていたんです。普通に音楽ファンとして洋楽や若い世代のアルバムを聴いていただけで。復帰すると決めたのも、今年の4月くらいのことでした。

『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO』
『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO』

―復帰を決めたのはなにが大きかったのでしょうか。

大黒:身体の調子です。去年の11月に最後のオペをしてから、体力が回復してきて、メディカルの先生から「歌ってもいい」と言われたんですね。それ以前から、「25周年のタイミングで復帰できたらいいね」と周りは言っていたんです。でも私の様子待ちだった。3月、4月くらいから、「いけそう」「いけるかも」みたいになってきて、『ライジング』が手を挙げてくれたので、ホームグラウンドの場所から出ようと思ったんです。

―地元の札幌は再スタートの場所として思い入れがあった?

大黒:そうですね。気分的にはゼロなんてものではなく、マイナスからのスタートでしたから。身体が前と違うから、戦いの場である東京に出る勇気はなくて。なにがあっても抱擁してくれるような、ホームの場所から出たほうがいいだろうって思ったのがひとつです。

もうひとつは、マイナスからのスタートっていうのはデビュー前と同じだから、もう一回デビュー前から始めようと。実を言うと『ライジング』は一般のみなさんへの復帰だったんですけど、その前に、休んでいる間も支えてくださったファンクラブのみなさんの前で歌う機会があったんです。そこが本当に6年ぶり、オペ後初めて歌う場所でした。実は一番緊張したのが、その小さいライブハウスです。たかだか20cmのステージなんですけど、そこに上るのにはすごく勇気が必要で。

―音楽から完全に離れて生きていくという選択肢もあり得たわけですよね。なぜそちらを選ばなかったのでしょう。

大黒:2回お腹を切っているので、一度は歌えない覚悟をしていました。声量も、ハイピッチの地声も、お腹周りが肝なんです。まさにその部分を切っている。先生たちも腹筋を横に切らずに縦に切るとか、いろいろ考えてくれたんですけれど、それでも手術後の痛みを思うと、「無理だろう」と言われたりもしました。

でも、その20cmを上った瞬間に「始まった」と思ったんです。そのあとに、高校生のときからやっていた札幌のベッシーホールという小さいライブハウスで、バンド編成で歌いました。それを経て、みなさんが大好きなノリノリな大黒摩季が『ライジング』に出たんです。

『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO』
『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO』

―『ライジング』のMCで、「みなさんで私を大黒摩季にしてください」と言っていましたよね。あの言葉にはどんな思いがあったのでしょう?

大黒:大黒摩季って、私の「私物」じゃないんですよね。大黒摩季というブランドでありプロジェクトである。たくさんのミュージシャンの才能を拝借して、自分の血肉にして、プロデューサーや周りのスタッフたちが選んでくるものに乗っかる。

大黒摩季というブランドをみんなで作っている意識が強くて、私自身もそのキャストの一人なんです。だから「大黒摩季にしてください」って言っているときにいつも思うのは、お客さんが望んでいるものを教えてください、ということ。それは嘘ではなく自分の一部なんです。

大黒摩季
大黒摩季

―ある種客観的に「大黒摩季らしさ」というものを捉えている。

大黒:たとえば活動休止中に吉川晃司さんがバックコーラスに呼んでくれたときも、「大黒くんっぽいのでどうぞ」って言われたんですけど、「大黒摩季っぽいのってどういう感じですか?」って感じですから(笑)。「地声がとんがってて、ビブラートがかかってて、シャウティーなやつ」「了解、これ?」「そうそう、っぽいね!」みたいにやり取りしながら確かめていく感じでした。

今は完全に消費者の目線です。そういう意味で業界を一度離れて、考え方が変わってよかったなと思います。

―復帰して、周囲の状況に関して以前と変化を感じたところはありますか?

大黒:業界に関してですか? それはもう、気の毒です。私がデビューした頃や休む前までは、音楽業界がバブルで、制作費もあったし、みんなが叶えたい夢に向かって突っ込んでいけた。けれど、今は底がないほど縮まっているから、どこを見ても制作陣が悲壮ですね。

「休んでいたあんたになにがわかる」って思われるかもしれないけれど、「そこまで窮屈な選択をしなくていいんじゃないの?」って思うことがたくさんあります。主婦的感覚でいうと、冷蔵庫の中を探して、あるもので料理すればいいじゃん、みたいな。削減したり縮めていくだけじゃなくて、いろんなやり方がある。休んでいた時期は完全に作り手を離れていたからこそ、わかることも多いです。

―ただの音楽ファンとして過ごした時間があるから、受け手側の感覚が見えるようになった。それは今の大黒摩季さんの強みですね。

大黒:そうそう。だから今回出すベスト盤も、「STANDARD盤」に加えて、「BIG盤」というのを作ったんです。だって私たちの年代、だんだん小さい文字が見えなくなってるから、歌詞カードが読めないんですよ(笑)。若者に合わせて小さくするのではなくて、見えないものは見えないから大きくしようよって。「裸眼で見える」っていうキャッチコピー(笑)。

大黒摩季『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles + ~』BIG盤ジャケット
大黒摩季『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles + ~』BIG盤

―ファンが欲しいものを届ける、ということですね。

大黒:しかも、大きいパッケージになると、どこに置くか迷うじゃないですか。そこで大切なのは、テレビや電話の横に置けることだと言ったんです。だからちゃんと立つように、絵本みたいな硬い紙にしよう、と。作り手じゃなく主婦的な発想です。それに歌詞の見せ方にもこだわりました。大きくなるなら読み物にさせてくれ、って。

そうしたら値段も高くなっちゃって、制作や営業の人たちには「この値段では今の子は買えない」と言われたんですけど、「いやいや、そういう子は買わなくていいんです。STANDARD盤でも裸眼で見えるから」って(笑)。私たちの世代は、変なものを何枚も買うくらいなら、いいものをひとつ買いたい。完全に消費者の目線です。それを業界人は「面白い」とか「今までにない」って言うんですよね。でも、これが正論だと思いますよ。今までにないものを作らないと買わないですよ。そういう意味で業界を一度離れて、考え方が変わってよかったなと思います。

―ユーザー目線でベスト盤を作ったんですね。

大黒:そうそう。一家にひとつある薬箱みたいなベストにしようと思ったんです。薬屋さんが家に持ってくる、昔の薬箱ですよ。具合が悪くなったら効くものが全部入ってる。心が弱ってるときは“あぁ”で、今日はプレゼンだ、勝たねばならないっていうときは“熱くなれ”みたいな。そういう風になってくれればいいなと思ってますね。

バブルは、上の世代が「こんな貧乏は嫌だ」って頑張った結果に、私たちは乗っかって空騒ぎしただけ。

―若い世代の読者は大黒摩季さんがデビューした1990年代前半の頃を知らないと思うので、その頃の時代のムードがどういう感じだったか教えていただけますか?

大黒:どこまで遡ればいいのかな。私が東京に来てビーイングに所属したのが20歳の頃だったんですね。

―89年ですね。

大黒:そうそう。でもバックコーラスの時代が長かったんですよね。その頃はいい時代でしたよ。バブルが来てるときに東京に来て、そのままバブルが弾けて今になった。だから「いい時代でした」としか言えない。 でも、あの頃のバブルは自分たちが作ったものではないんですよね。上の世代が「こんな貧乏は嫌だ」って頑張った結果に、私たちは乗っかって空騒ぎしただけ。自分たちの底力じゃない。だから私は、今の若者にそれをプレゼントしたいという気持ちですね。それが“Higher↗↗Higher ↗↗”という曲で書いたことなんです。「中年よ熱くなれ」って。「未来は捨てたもんじゃないよ、大人って楽しいよ」という背中を見せないと、世の中の経済も上がらないでしょ、という曲なんです。

―時代を振り返ると90年代前半にはバブルが弾けたことになっていますが、大黒摩季さん自身が世相が変わったと感じたのはいつくらいですか?

大黒:音楽業界やカルチャー系は、いつも少しあとに影響を受けるんですよね。不動産とか株価とか、そういうところでバブルが弾けたと言っていたときは、まだ空騒ぎが続いていたと思います。

―CDの売り上げは98年がピークで、00年代は下り坂を辿っていきました。そのあたりはどう感じていらっしゃいましたか?

大黒:私は単純なので、子どもが少なくなっていくんだからしょうがないだろうと思ってました。しかもネットが広まってきた。作り手としてはたまらないと言いながら、ユーザーとしてはネットで音楽が聴けたり、データで音源が買えるのは便利だし、どちらかと言えば否定より肯定派でした。

ただ今言えるのは、自分たちのシェアを守るがゆえに鎖国みたいな気分になっていたのがマイナスだったと思うんです。業界が保身をしようとしていた。最初からちゃんとオープンな姿勢になっていれば、今頃アメリカみたいにサブスクリプションとストリーミングとか、デジタルコンテンツで売上をカバーできたかもしれないですよね。でも私はそこをやっている人間じゃなくてクリエイターだから、ああだこうだ言うだけですけど(笑)。

―今は市場やビジネスモデルの話ですが、大黒摩季さんのアーティストとしてのキャリアにおいてはどうでしょう? 25年を振り返って、どこにターニングポイントがあったと思いますか。

大黒:私、こないだファンに「6年も休んでごめんね」と言ったら「大丈夫です、慣れてます」って言われたんです。「どういう意味!?」って聞いたら、「摩季さん、10年に1回ずつくらいリフレッシュのためにいなくなるじゃないですか」って。そこで改めて気付いたんですよね。振り返ってみれば、私、ターニングポイントになりそうなときに、ちゃんと立ち止まってるんです。99年にも一度活動休止していましたから。

毎日「寝たい」「遊びたい」としか思ってないのに、いいものが生まれるわけない。だから、ちょうど30歳になったときに休止したんです。

―1999年の活動休止は、どういう理由だったんでしょうか。

大黒:単純に疲れたからです。だって、1年の365日中364日スタジオに入るような生活を3年くらい続けて、その前後にはツアーもやっていたんですよ。疲れない人はいないと思うんです。

―97年からはライブも積極的にやっていましたね。でも、デビューして5年間はライブもほとんどやられていなかったですし、メディアへの出演もありませんでした。ステージに立つことになったのは、キャリアの中でもひとつの変化だったと思います。

大黒:でも私としては、もともと中高生の頃からバンドをやっていて、ライブハウスでライブをしてたんですよ。子どもの頃から音楽をやって、曲を作ってバンドをやって。

東京に出てきて、レコード会社の門を叩いて、ビーイングという日本一の制作集団に入った。どこかのオーディションで受かっていきなりデビューとかじゃなく、叩き上げなんです。だから、ビーイングに入ってからは、そりゃいろいろ学びたいから夢中になりましたよ。そうして、気が付いたら謎になってたんです。

―気が付いたら謎になっていた?

大黒:表舞台に出そびれたんです。気が付いたら売れていて、出てる暇がなくなってしまった。

『STOP MOTION』(1992年、デビューシングル)は、親戚しか買ってないくらいの枚数しか売れていなくて、一回「大黒摩季の話は撤収」ってなったんですよ。「お前、またバックコーラスに戻るか」という話になって。そのとき、事務所でとあるCMのプロデューサーに会ったんです。その人には食えない時代にも仕事をいただいて、お世話になっていて。「いいCMの話があって、ビーイングさんに来たら曲があると思って来たんだけど、もうないと断られた」って言うから、「いつまでになにをしたらいいですか? やりますよ、恩返しとして」「明日の昼までにお願い」なんて話をして。それで寝ないで作ったのが、“DA・KA・RA”(1992年、2ndシングル)なんです。

大黒摩季『STOP MOTION』ジャケット
大黒摩季『STOP MOTION』ジャケット

大黒摩季『DA・KA・RA』ジャケット
大黒摩季『DA・KA・RA』ジャケット

―そんなやり取りから生まれた曲だったんですね。

大黒:最初は勝手に進めてたんです。大黒摩季チームは撤収してたので、同期のアシスタントに、ZARDとかB'zの作業が終わった夜中に「お願いだから手伝って」って言って。マネージャーを通してる時間がないから、アレンジャーにも直談判して。それでそのCMプロデューサーに、1日で作り上げた音源を渡したら、プレゼンが通ったんです。

だから、CMが流れ始めてからビーイングに問い合わせが来て、会社からは「お前は勝手になにをやってるんだ!?」ってなって。それでもフルサイズの曲にしてCDを作ったら、あれよあれよとミリオンセラーになった。だから私の座右の銘は「落とし物には福がある」(笑)。あのときに「明日の昼」って言われて、「無理です」って言っていたら今の私はないんです。

―ブレイクした当時はテレビなどのメディアへの露出もほとんどなく「大黒摩季は実在しないんじゃないか」という都市伝説すらありました。

大黒:私は制作も一人でやっていたので、とにかく音源作りに時間を費やしていたんですよね。テレビって、たかだか1分半の出演のために1日拘束されたりもする。でも、締め切りは延ばせないわけだから。

―制作者としてスケジュールを守るほうが大事だった。

大黒:そうなんです。で、出なくてもいいならそれでいい、みんながそれを面白いって言うならそれでいいって放置していたら、ますます人前に出にくくなっちゃって。でも、そろそろファンに会ったほうがいいねって話になって、97年にレインボースクエア有明の大きなライブが決まった。だから、全て嬉しいラッキーが降ってきたのを束ねたら、こういう現象になった感じなんですよね。

―結果的にライブに力を入れてきたことは、ちゃんと今に繋がっていますね。

大黒:だってライブが原点だもん。結婚はしたけど、家庭よりステージ上がホームだなって思うし、家庭のほうがアウェイだと思うときがある(笑)。立つだけで身体の血が流れるし、育ってきたのがあそこだから。デビューしてから数年間、それが抜けていただけなんです。だからライブをやるようになったときは「やっと会えたね」って感じでした。

それでたくさんライブもやったけど、その一方でクリエイティブは続けていたし、5人の作家が書くような量を一人でやっていたんです。そりゃ、枯渇するのも人一倍早くなりますよね。歌いたいことがなくなった。毎日「寝たい」「遊びたい」としか思ってないのに、いいものが生まれるわけない。だから、きっぱり休むことを選びました。大晦日が誕生日なんで、ちょうど30歳になったときに休止したんです。

幸せな人は幸せだって言ったほうがいいし、女性はもっと「女」を生きたほうがいいと思います。

―そうして30代のスタートが1度目の休業だった。そして2010年、40代のスタートで2度目の活動休止になったわけで、それからの6年間はミュージシャンというよりは、女性としての40代だったと思うんですが、そのあたりは振り返ってどうですか?

大黒:女性としては壮絶! 笑っちゃうくらい壮絶でした。「私だけどうしてこんな目にあうんだろう」って思うことばっかりだった。女性は30代から厄年の連続で身体が変わってくるので、歌い手の女の子はみんな苦しんでると思うんです。私もそれを一通り全部苦しんで、七転八倒しながらもなんとかやってきて。と思ったら病気というさらなる試練があって。子宮の全摘出までいきましたからね。

でも、今は悪いものがなくなったので逆に楽です。ここから先、生まれて初めてベストコンディションで歌えるというワクワクのほうが大きい。他のアーティストが絶好調で歌っているのを見ると涙が出るくらい悔しかったけれど、そういう自分ともお別れできた。今はとても身軽です。

―CINRA.NETでは、30代、40代の女性アーティストの方にもたくさんご登場いただいているんですね。みなさん、ご自身の人生と表現に、それぞれ悩みがあって、それを乗り越えてきた。それを参考にしたい読者も多いと思います。大黒摩季さんは下の世代の女性にどんなアドバイス、どんな声をかけたいと考えてらっしゃいますか?

大黒:『情熱大陸』に出たときも言ったんですけれど、私は諦めの悪い女なんですよね。なんで諦めないかって言ったら、その先の音が聴きたいから。そうじゃなかったらとっくに諦めたり、いじけたりしてると思います。だから、人にメッセージをできるほど立派な人生を送っていませんけど、幸せな人は幸せだって言ったほうがいい。それに、女性はもっと「女」を生きたほうがいいと思います。

私、昔はナチュラルな女になりたくてアレサ・フランクリンの“ナチュラル・ウーマン”ばっかり歌ってたんです。それが、若いときに歌っても全然よくなかったけれど、傷付いたりいろんな思いをして、女力が出たら、急によくなってきた。歌は生き様が表現になるんです。たとえ演じているつもりでも、それが出てくる。だったら、人生を謳歌したほうがいいものができる。

―25年間、いろんな女性像を表現してきましたね。

大黒:私はずっと全力だったし、情けなく立ち止まったことも、なにもかも歌にしてきました。だからコントラストがあって、バリエーションの多い作品になっていると思います。シングルだけ聴くと統一感があるように見えますけど、カップリングやアルバムにはいろんな女がいて。“別れましょう”みたいにスパッと頑張る女もいれば、ずっと待ってる女もいる。

女性に関して言えば、無理に男っぽくなんかならなくっていいよと思いますね。自分を生きたほうがいい。他人みたいになろうとすればするほど敵が増えて居場所がなくなるけど、自分をブラッシュアップして磨けば、それが唯一のものになる。生徒にもそう言ってるんです。無駄だから、他人と自分を比べるなって。

人が劇的に変わる瞬間はふたつしかない。ひとつはショック、もうひとつは感動や憧れなんです。

―教師と生徒という関係で今の若い世代の方々と触れ合っていて、感じることや吸収することはありますか?

大黒:それはたくさんありますね。今の世代の不憫なところと素晴らしいところ、その両方が見えてきました。やっぱり昭和世代って、戦中戦後に生きた親に育てられているから、「人に迷惑をかけるな」とか「なんでも自分でやれ」とか、よくも悪くもひとりで背負いがちで、だからうつ病になる人もいる。でも今の子は、お互い手を取り合って、ひとつの目標に向かってチームになるんですよ。そこは私が教わることですね。

―教える側としてはどうでしょう?

大黒:私、人が劇的に変わる瞬間はふたつしかないと思っていて。ひとつはショック、もうひとつは感動や憧れなんです。私たちの世代は先生にバンバン殴られてましたし、競争してたし、取り残されてました。荒っぽい時代に育ってるから、ショックに強いんです。でも、今の子は競争も少ないし、慣れていないから、いきなりショックを受けると心が死んでしまう。だったら憧れと感動しかない。その力があればショックにも耐えられる。

荒療治はダメだってわかったので、じゃあどうすればいいのだろうと思ってたときに、説明するのも面倒臭いからみんなの前で歌ったんです。そうしたら生徒全員にスイッチが入った。「先生、その声ってどうやって出るんですか? すごく気持ちよさそうでかっこいいんですけど」って。「これは一夜にしてならないよ、お腹にインナーマッスルがないと引っ張り上げられないから」って説明して。

そうしたら次の日から、あれほどフィジカルトレーニングをやれと言ってもやらなかった連中が朝練をやっていて。その瞬間にスイッチを入れることが先生の仕事なんだって気付きました。だからこそ、復活したときに躊躇なく、みんな自分のステージに出してあげることにしたんです。背中と生き様を全部見せることにした。

―今の若い子たちは、憧れからスイッチが入るんですね。

大黒:考えてみたら、自分もそうだったんですよね。小さい頃は油っぽいほうが好きだからピンクレディーよりもキャンディーズが好きで、根が暗いからユーミンさんや竹内まりやさんより中島みゆきさんが好きだった。キョンキョンと聖子ちゃんと明菜ちゃんなら、ブルージーなほうが好きだから明菜ちゃんだった。選んできたものがその人の個性になると考えると、やっぱり否定からはなにも生まれないという結論に至りました。それで生まれたのが“My Will ~ 世界は変えられなくても ~”という曲なんです。

―大黒さんが歩んできた道、その都度感じたことが、ベスト盤に収録された新曲にも表れているわけですね。

大黒:そうなんですよ。そういう意味で、生きていて感じていることの全てがクリエーションになる。だったら、クリエーションのために生きることを放棄するんじゃなくて、いっぱい生きたほうがいっぱい曲ができるよってことですね。そうそう、よく女の子に相談されるんです。「恋を選びますか? 仕事を選びますか?」って。

―そう言われたらどんな風に答えます?

大黒:私は「どっちも選びません」って言います。だってどっちも必要だから。それは生活の中の時間割なだけ。今日は仕事を選びます、明日は申し訳ないけど早く帰ってデートします、それでなにか? みたいな(笑)。人に言われて選ぶものじゃないでしょ。今は情報が多すぎるけど、人の言うことに惑わされたってしょうがない。要するに勉強よりも体感が先。だから私も最近はラフなんですよ。なんでもいらっしゃい、カモン! って感じです(笑)。

大黒摩季

リリース情報
大黒摩季
『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles + ~』STANDARD盤(3CD)

2016年11月23日(水)発売
価格:3,672円(税込)
JBCZ-9035~37

[DISC1]
1. STAY
2. STOP MOTION
3. DA・KA・RA
4. チョット
5. 君に愛されるそのために
6. 別れましょう私から消えましょうあなたから
7. Harlem Night
8. あなただけ見つめてる
9. 白いGradation
10. 夏が来る
11. 永遠の夢に向かって
12. ROCKs
13. Stay with me baby
14. ら・ら・ら
15. いちばん近くにいてね
16. 恋はメリーゴーランド~Original Version~
17. 子供の国へ
[DISC2]
1. FIRE
2. あなたがいればそれだけでよかった
3. 愛してます
4. あぁ
5. ガンバルシカナイジャナイ?!
6. 熱くなれ
7. アンバランス
8. ゲンキダシテ
9. You're not mine
10. 空
11. Power Of Dream
12. 風になれ
13. ネッ! ~女、情熱~
14. 太陽の国へ行こうよ すぐに ~空飛ぶ夢に乗って~
15. 夢なら醒めてよ
16. 虹ヲコエテ
[DISC3]
1. 雪が降るまえに
2. アイデンティティ
3. 勝手に決めないでよ
4. 夏が来る、そして...
5. いとしい人へ ~Merry Christmas~
6. ASAHI ~SHINE&GROOVE~
7. OVER TOP
8. 胡蝶の夢
9. コレデイイノ?!
10. Our Home
11. IT'S ALL RIGHT
12. Anything Goes!
13. TAKE OFF ~SKY MARK Cheer up↗↗ver.~
14. Higher↗↗Higher↗↗︎ ~Single ver.~
15. My Will ~世界は変えられなくても~

大黒摩季
『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles + ~』BIG盤 初回限定生産盤(4CD+DVD)

2016年11月23日(水)発売
価格:10,000円(税込)
JBCZ-9038~41

[DISC1~3]
『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles + ~』STANDARD盤と同様
[DISC4]
1. 復讐GAME
2. Good-Luck Woman
3. GLORIA
4. Everybody,Groove!!
5. 未来が私を呼んでいる…
6. ふたりが好きだから
7. そして
8. After Blue
9. SLOW DOWN
10. Just Start Again
11. 永遠の光り
12. LIFE ~episodeⅠ~誕生~
13. Forever Rose
14. Make A Wish
[DVD]
『Maki Ohguro 90's Music Video Collection』
1. STOP MOTION
2. DA・KA・RA
3. チョット ※
4. 別れましょう私から消えましょうあなたから ※
5. DA・DA・DA ※
6. Harlem Night ※
7. あなただけ見つめてる ※
8. U.Be Love ※
9. 白いGradation ※
10. 夏が来る
11. 永遠の夢に向かって ※
12. ROCKs
13. ら・ら・ら ※
14. いちばん近くにいてね ※
15. FIRE ※
16. 恋はメリーゴーランド~Original Version~ ※
17. 愛してます ※
18. あぁ ※
19. 熱くなれ ※
20. アンバランス
21. ゲンキダシテ ※
22. 空
23. Power of Dream ※
24. 風になれ ※
25. ネッ! ~女、情熱~ ※
26. 太陽の国へ行こうよ すぐに~空飛ぶ夢に乗って~ ※
27. 夢なら醒めてよ
※ショートバージョン

イベント情報
『Maki Ohguro 2017 Live-STEP!! ~ Higher↗↗Higher↗↗中年よ熱くなれ!! Greatest Hits+ ~』

2017年2月25日(土)
会場:埼玉県 羽生市産業文化ホール 大ホール

2017年3月4日(土)
会場:茨城県 常陸太田市民交流センター パルティホール 大ホール

2017年3月5日(日)
会場:栃木県 栃木文化会館 大ホール

2017年3月11日(土)
会場:愛知県 安城市民会館 サルビアホール

2017年3月12日(日)
会場:兵庫県 加古川市民会館 大ホール

2017年3月20日(月・祝)
会場:千葉県 多古町コミュニティプラザ文化ホール

2017年4月15日(土)
会場:山形県 やまぎんホール(山形県県民会館)

2017年4月22日(土)
会場:静岡県 磐田市民文化会館

2017年4月23日(日)
会場:岐阜県 バロー文化ホール(多治見市文化会館)

2017年4月29日(土)
会場:山梨県 甲府 コラニー文化ホール 大ホール

2017年5月7日(日)
会場:千葉県 千葉県文化会館 大ホール

2017年5月14日(日)
会場:神奈川県 ハーモニーホール座間ホール

2017年6月2日(金)
会場:東京都 かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール

2017年6月3日(土)
会場:埼玉県 狭山市市民会館 大ホール

2017年6月17日(土)
会場:広島県 三原市芸術文化センター ポポロ

2017年6月18日(日)
会場:兵庫県 篠山 たんば田園交響ホール

2017年6月24日(土)
会場:群馬県 伊勢崎市文化会館 大ホール

プロフィール
大黒摩季
大黒摩季 (おおぐろ まき)

札幌市・藤女子高等学校を卒業後、アーティストを目指して上京。スタジオ・コーラスや作家活動を経て、1992年『STOP MOTION』でデビュー。ミリオンヒットを立て続けに放ち、1995年にリリースしたベストアルバム『BACK BEATs #1』は300万枚を超えるセールスを記録する。テレビ出演やライブも行わなかったことから、大黒摩季は存在しないなどの都市伝説があった中、1997年の初ライブでは有明のレインボースクエアに47,000人を動員し、その存在を確固たるものにする。その後も毎年全国ツアーを継続し、精力的に活動するも2010年病気治療のためアーティスト活動を休業する。その間、地元・北海道の長沼中学校に校歌を寄贈、東日本大震災により被災した須賀川小学校への応援歌・歌詞寄贈、東日本大震災・熊本地震への復興支援など社会貢献活動のみ行っていたが、昨年よりDISH//、TUBE、郷ひろみなどの作詞提供をはじめクリエイティブ活動を再開。2016年8月、『RISING SUN ROCK FESTIVAL』での出演を皮切りに、故郷である北海道からアーティスト活動を再開。



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