
破天荒な美術家、市川孝典。線香画の発明に至った驚きの半生
市川孝典個展『grace note』- インタビュー・テキスト
- 麦倉正樹
- 撮影:豊島望 編集:宮原朋之
約3年ぶりの個展『grace note』を終えたばかりのアーティスト、市川孝典。多様な線香を使い分け、紙を焦がしながら描くという独特な作風で、ファッション関係者やミュージシャン、俳優など、さまざまな領域の人々に愛されている市川だが、その表現者としての「核」は、「線香」という手法ではなく、それによって描き出される「イメージ」そのものにある。
ふとした瞬間、自らの頭の中に去来する、さまざまな風景。いつどこで見たのかわからないけれど、妙に記憶にこびりついて離れないその風景――いつか忘れてしまうかもしれない、その風景を「形」として記憶の中から取り出すことに市川は執着する。なぜ市川は、それほどまでに、自らの記憶の中のイメージにこだわるのか? その理由は、弱冠13歳のときから始まった破天荒な経歴にあった。
頭は白いドレッドヘアーだったけど、学生服はちゃんと着て……、ルールはちゃんと守っていました(笑)。
―市川さんの子供時代は衝撃的だとお伺いしています。どんな子供時代だったんでしょうか?
市川:小学3年生までは、結構厳しい家庭で、いわゆる「おぼっちゃま」みたいな感じで育ちました。お茶や舞踏など習い事ばかりしていて。
―厳しい家庭だと、その反動がありそうですね。
市川:いや、習い事はまったく苦ではなかったです。ルールが大好きというか、「型」みたいなものは、子どもの頃から大好きでしたね。
―いわゆる「様式美」のようなものが好きだった?
市川:そうですね。基本的にルールは好きなんですよ。絵を描くにしても、何でもありだったら、作品として成立しないと思っています。まったく自由なものは誰が描いたっていいと思うんです。でも、人に見せるプロの作品は、やっぱりルールに則ったものだと思うし、そういうルールの中でやることにむしろ自由を感じています。
だから、子供のときもルールはちゃんと守っていました。中学校の頃は学生服はちゃんと着て……、頭は白いドレッドヘアーだったんですけどね(笑)。それが当時、自分がしたい髪型だったから。
市川は「カッコつけているわけではなくて恥ずかしいから」と、サングラスをかけて取材に臨んだ
どこか外国に行きたいと思って、当時外国といったら、ニューヨークしか知らなかったんですよね。(笑)
―厳しい家庭で育ったとはいえ、その規律の中に自由も見つけていた。順風満帆な子供時代のようにも思えますが。
市川:でも小学3年生のときにいろいろあって、実家から追い出されて親戚の家を転々とするようになるんです。転校も数えきれないぐらいしました。多分、同じ場所に3か月もいなかったんじゃないかな。
最終的に横須賀のお爺ちゃんとお婆ちゃんの家で暮らすようになって、そのまま地元の中学に通い始めるんですけど、お爺ちゃんが亡くなって、お婆ちゃんが入院してしまうんです。
祖父母がそんな状況だったので漠然と、「このまま、この家に居続けることはできないんだな」って思っていました。それならいっそのこと、どこか外国に行きたいなと思っていて、友だちのお父さんがやっているとび職の現場で働かせてもらって、ちょっとずつお金を貯めていったんです。
―当時何歳ですか?
市川:13歳ですね。
―貯めたお金で実際にはどこに行ったんでしょう?
市川:ニューヨークに。当時外国といったら、ニューヨークしか知らなかったんですよね(笑)。そもそもニューヨークがアメリカだっていうことも知らなかった。リュックも持ってなかったから、とび職で使っていた土嚢袋に詰められるだけお菓子を詰めて行きました。
市川:向こうに着いたら、やっぱり楽しいわけですよ。いろんな人たちが歩いているし、そもそも知らない世界だし。ただ、どう考えても、おかしいですよね。とび服を着て、土嚢袋を背負った、白いドレッドヘアーのアジア人の子どもっていうのは。
イベント情報
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10月に都内で展覧会を開催予定
※詳細は決定次第、市川孝典ウェブサイトで発表
プロフィール
- 市川孝典(いちかわ こうすけ)
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日本生まれ。美術家。13歳の時に、とび職で貯めたお金をもって、単独でニューヨークへ渡る。アメリカやヨーロッパ各地を遍歴する間に、絵画に出会い、さまざまな表現方法を用いて、独学で作品制作に取り組む。帰国後、その類いまれなる体験をした少年期のうすれゆく記憶をもとに、温度や太さの異なる60種類以上の線香を使い分けながら、微かな火で紙に焦げ目をつけて絵を仕立てる新しいスタイルで作品を発表。後に、「現代絵画をまったく異なる方向に大きく旋回させた「線香画」と称され、国内外から注目を浴びている。