宮内悠介がエミール・クストリッツァを直撃 監督の発想の源は?

カンヌ、ベルリン、ヴェネチア……世界三大国際映画祭を制覇した世界的な映画監督・エミール・クストリッツァが、9年ぶりの新作『オン・ザ・ミルキー・ロード』を引っ提げ、久方ぶりの来日を果たした。戦争が終わらない国で、監督自身が演じるミルク運びの男・コスタと、「イタリアの宝石」モニカ・ベルッチ演じる美しい花嫁が恋に落ち、やがて決死の逃避行を繰り広げる物語。次々と登場する動物たちや、バルカンミュージックが鳴り響く祝祭など、クストリッツァらしいスラップスティックな魅力に溢れた本作で、監督が描き出そうとしたものとは何なのか。

その聞き手役を買って出たのは、大の「クストリッツァ好き」を公言する、気鋭のSF作家・宮内悠介。最新作『あとは野となれ大和撫子』が、自身3度目となる直木賞候補に選出されるなど、SFと純文学を横断しながら活躍する宮内は、敬愛する鬼才から、果たしてどんな言葉を引き出すのだろうか。

映画『オン・ザ・ミルキー・ロード』についてはもちろん、「文学と映画」「自由」「資本主義」「人間性」など、様々なワードが飛び出す、クストリッツァならではの刺激的なインタビュー。

文学は、物語や登場人物たちの心理を含めて思いのままに書き込めるが、映画にはストーリー作りのルールというものが存在する。(クストリッツァ)

宮内:今回の映画『オン・ザ・ミルキー・ロード』は、監督にとって『マラドーナ』(2008年)以来、9年ぶりの映画となります。その間、監督が何をしていたかについて知りたい日本のファンも多いと思うのですが、具体的にはどのような活動をされていたのでしょう?

クストリッツァ:もちろんさまざまなことをしていたけど、中でも大きいのは2つの町を作ったことかな。作ったというより、もともとあった町を再建築したと言ったほうがいい。1つは、通称「木の町」と呼ばれている町。

左から:宮内悠介、エミール・クストリッツァ
左から:宮内悠介、エミール・クストリッツァ

宮内:映画『ライフ・イズ・ミラクル』(2004年)のロケ地となった場所を気に入り、その町を買い上げ、「クステンドルフ」と名づけて映画村のような場所にしたと聞いています。その場所のことでしょうか?

クストリッツァ:そう、町を丸ごと買い取って、そこを中世の頃のような町並みにしたんだ。自分の想像と、古来からあるセルビアの風景を組み合わせて、町を作り上げていった。そして、その後に作ったのが、「石の町」と呼ばれている町だ。そこは、ノーベル文学賞を獲った旧ユーゴスラビアの小説家イヴォ・アンドリッチのために作った町で、「アンドリッチグラード」と名づけた。そこは、アンドリッチの代表作である『ドリナの橋』(1945年)の舞台となった場所でもあるんだ。

宮内:イヴォ・アンドリッチはかつてのユーゴスラビアを代表するような作家ですよね。確か、監督自身、『ドリナの橋』を映画化しようとされていた時期もあったとか。クステンドルフはセルビアの西部にあると聞きましたが、するとアンドリッチグラードはボスニアにあるのですか?

クストリッツァ:厳密に言うと、ボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国にある、ヴィシェグラードという町の一角だ。そこには、ドリナ川が流れていて、その向こう岸にクステンドルフのあるドルヴェングラードがある。だから、前作から今作までの間というのは、主にその2つの町を作ることに尽力していたのと、……あとは、本を2冊書いて出版したよ。

エミール・クストリッツァ

宮内:監督の自伝と、今回の映画のモチーフとなった短編「蛇に抱かれて」を収録した短編集『夫婦の中のよそもの』(2017年)のことですね。残念ながら自伝はまだ日本語訳が出ていないのですが、短編集は今年邦訳が出版されました。

『夫婦の中のよそもの』エミール・クストリッツァ著 / 田中未来訳 / 集英社 / 2017年
『夫婦の中のよそもの』エミール・クストリッツァ著 / 田中未来訳 / 集英社 / 2017年(Amazonで見る

宮内:『夫婦の中のよそもの』を拝読しまして、興味深いことに、小説の中には監督の映画の特徴でもある「音楽」があまり出てこないことに気がつきました。そういった点も含めて、「映画と小説の違い」について、監督の考えをお伺いできますか。

クストリッツァ:私は小説を書いているとき、ものすごく自由なんだ。時間を行ったり来たりすることもできるし、物事や背景のディテールをとことんまで書き込むこともできる。つまり、物語や登場人物たちの心理を含めて、そのすべてを想像のままに書き切ることができる。

けれども、映画では何よりも視覚性を重視しなくてはならない。さらにそこには、ドラマ作りのルールともいえるものが存在する。とりわけ、今日の映像制作の現場においては。なぜなら、今の観客はテレビの影響なのか、ストーリーやプロットがかなり明確なものでないと、受け入れてくれないから。けれども、文学には、そういった制約がない。だから、私は小説を書く際、何にも縛られることなく自由なんだ。

『オン・ザ・ミルキー・ロード』メインビジュアル ©2016 LOVE AND WAR LLC
『オン・ザ・ミルキー・ロード』メインビジュアル ©2016 LOVE AND WAR LLC

クストリッツァ:私は今、『Just One More Time』という新作映画の準備をしているが、そこで1つ、大きな実験に挑もうと思っているんだ。物語を一度、私が小説として書き切って、それを第三者の手で脚本化してもらい、それを私が監督する。つまり、誰か選択眼を持った人物に、私の小説から映画として成立するような物語を選び取ってほしいんだ。それを全部自分一人でやるには、私はちょっとナルシスト過ぎるんだ(笑)。君は小説家だからわかると思うけど、文学と映画というのは、それぐらい違うものなんだ。

私は常に、現実とフィクションのあいだにある境界線を飛び越え、そのあいだを行ったり来たりするような物語を作りたいと思っている。(クストリッツァ)

宮内:今作『オン・ザ・ミルキー・ロード』も、ご自身の短編小説「蛇に抱かれて」をもとにしていますね。私はこの短編をあらかじめ読んでいたにもかかわらず、映画のラストシーンで涙が止まりませんでした。それと同時に、本作の主人公であるコスタという人物、つまり純粋に愛を追いかける男として監督が設定した人物を、監督自身が演じていることに、少しくすぐられもしましたが(笑)。

クストリッツァ:(笑)。

宮内:このコスタという人物が人間の持つ純粋さを象徴するようなキャラクターとして描かれる一方、モニカ・ベルッチが演じるヒロインは、聖なる存在であるような印象を受けます。今回の二人の登場人物、コスタとヒロインに監督が託された思いをお伺いしたいです。

モニカ・ベルッチ演じるヒロインの「花嫁」 / ©2016 LOVE AND WAR LLC
モニカ・ベルッチ演じるヒロインの「花嫁」 / ©2016 LOVE AND WAR LLC

クストリッツァ:彼らは、旧約聖書に出てくるアダムとイブのようなカップルなんだ。そして、アダムとイブについて考えるとき、私はいつも思いを馳せることがある。彼らは、蛇にそそのかされて木の実を食べてしまったために楽園を追われることになったが、それ以前の彼らは、どう過ごしていたのだろうか? それを今回の映画で、描こうと思ったんだ。だから、この話はある種の神話だ。そういう意味で、私は実際の自分というものを、自分が演じる役柄に持ちこむ必要がなかったんだ。まあ、だから自分で演じてもいいと思ったのだけれど……。実際は、かなり難しかったね。

宮内:どういう点が特に難しいとお思いになりましたか?

クストリッツァ:私は常に、現実とフィクションのあいだにある境界線を飛び越え、そのあいだを行ったり来たりするような物語を作りたいと思っている。だけど、それを自分で監督しながら、役者として現実とフィクションを行き来することは、想像以上に難しかった。そのことが、自分で主演して、ようやくわかったよ。それなりによくやったとは思っているけど、自分の映画に自分が役者として出演することは、多分もうないだろうね(笑)。

宮内:とてもそのようには見えませんでした。またやっていただきたいくらいです(笑)。それと先ほど監督がアダムとイブの話をされましたので、今作に登場する「蛇」の存在についてもお聞かせください。エデンの園の話と同じように、作品では、蛇が重要な役割を果たしています。たとえば登場人物は、蛇を受け入れる人間と、受け入れない人間の二通りに分かれていますね。熊に口移しでリンゴを与えるコスタも、神話の蛇を連想させます。こういったことも含めて、監督がこの映画の中で、蛇に託した意味とは何でしょうか?

宮内悠介

クストリッツァ:この映画は、「エデンの園」の物語に対する、私なりの回答なんだ。「エデンの園」では、アダムとイブをそそのかした悪者のように描かれている蛇だけど、古代メソポタミア文明をはじめ、かつて蛇というのは、神の一種であったという記録もある。新約聖書において、蛇は必ずしも悪者として描かれていないんだ。

そして、さらにエデンの園の物語をよく読んでみると、アダムとイブをそそのかしたのは確かに蛇だが、そのあと蛇は彼らと一緒に楽園を追放されているんだよ。つまり、蛇は人類と運命を共にしたんだ。そういう意味で、蛇に感謝を示したかったというのがひとつあった。あと、もうひとつは、アフガニスタン紛争中にあったという、「牛乳好きな蛇に、ある男が生命を助けられた」というエピソード。それらを取っ掛かりとして、私は今回の物語を考えていったんだ。

私が最高の仕事をしていると感じられるのは、「自分がサーカスを作っている」と思える瞬間なんだ。(クストリッツァ)

宮内:今回の映画は、「エミール・クストリッツァ監督らしさ」を数多く含んだ集大成的な作品であると同時に、監督の新たな挑戦が感じられる作品でもありました。監督の作品に必ずと言っていいほど登場する「動物」について、お伺いしてもよろしいでしょうか?

クストリッツァ:私が映画を撮っていて、「最高の仕事をしている」と感じられるのは、「自分がサーカスを作り上げている」と思えるときなんだ。ただし、動物たちを耐えられない状況に追い込むようなサーカスではない。

人間の歴史を眺めてみると、様々なカルチャーの中に、そして多くの国々で、サーカスは存在した。それは、「人類の共通項のようなもの」と考えていいかもしれない。なぜ、人類はサーカスを求めるのか? 私が思うに、サーカスのパフォーマンスには、「人間性」が投影されているからだ。だから、私が撮ったすべての映画は、サーカスのように動物たちがいっぱい登場するんだよ。

エミール・クストリッツァが撮影中、仲良くなったという熊 / ©2016 LOVE AND WAR LLC
エミール・クストリッツァが撮影中、仲良くなったという熊 / ©2016 LOVE AND WAR LLC

宮内:サーカスのパフォーマンスの中に「人間性が投影される」とは、どういうことでしょう?

クストリッツァ:たとえば私たちは、テレビの中で誰かが殺されたりする映像を、とても簡単に見ることができる。というか、そういうものを見ることに慣れきってしまい、人間的な思いやりを失ってしまっているように私には思えるんだ。けれども、私の『アンダーグラウンド』(1995年)という映画の中で、1匹の猿が殺された場合、その生き物の死が衝撃的な体験として私たちに人間的な感覚を呼び覚ますんだ。そんなふうに、私は考えている。

失われてしまった人間性……、例えば「思いやり」をイメージさせるものとしての動物たち。もしかしたら、今の時代というのは、昔以上に、動物に対する憧憬や愛情が大きくなっているのかもしれない。少なくとも、私の場合は、そうなんだよ。

エミール・クストリッツァ

宮内:なるほど、よくわかります。

クストリッツァ:さらに言えば、『オン・ザ・ミルキー・ロード』に登場するハヤブサは、他の生き物を食べたりはするけれど、人間のどう猛さに比べたら、驚くほどイノセンスな存在だと思う。なぜならハヤブサは、自分たちが生き延びるためにしか、他の生物を捕食しないからだ。その一方で、人間は膨大な数の人間の生命を平気で奪っていく。そして、いまだに人類は、その理由について、明確な答えを持っていない。なぜ人は、こんなにもたくさんの人間を殺さなくてはならないのか?

長い内戦の影響で、誰も寄り付かない地域になっていた「ノーマンズランド」を、私は「文化的な要塞」とも呼ぶべきものに作り変えたんだ。(クストリッツァ)

宮内:監督が仰られている「人間性」の問題と、現在クステンドルフを拠点に活動されていることには、もしかしたら関係があるような気がしてきました。

クストリッツァ:今、こうして高層ホテルの一室の窓から、東京の景色を眺めても、私は特に何も感じない。だけど、クステンドルフでは、そうじゃないんだ。私は、あの場所でいつも自然に立ち戻ることができる。そこで暮らしていると、無数のインスピレーションを得ることができる。自然の景色から、さまざまなものを感じるんだ。そこで私は、本を読み、文章を書いて過ごしている。それは自由で人間的な生活だと言えるかもしれない。

コスタを見つめる花嫁/©2016 LOVE AND WAR LLC
コスタを見つめる花嫁/©2016 LOVE AND WAR LLC

宮内:ええ、憧れます。

クストリッツァ:私がここで「自由」という言葉を持ち出すのは、今の世の中、「自由」について、人々がほとんど語らなくなってしまったという思いも関係しているんだ。誰もが「自由」についてではなく、「混沌とした未来」について、あるいは「安全性」についてばかり語っているように思える。

エミール・クストリッツァ

クストリッツァ:かつて町には、その町ごとに「気配」のようなものがあった。そして私たちは、それを日々感じることができたように思うんだ。しかし、現在の大都市は、ただただ延長して広がっていくだけだ。その場合、町の終わりはどこにあるのだろう? そういう場所で、「生きる感覚を得る」というのは、非常に難しいことだと思う。

宮内:私自身、自分の感覚としてよくわかります。

クストリッツァ:空間を支配することなんて、本来人間にはできないことであるはずだ。しかし、この物質主義の世界では、とりわけこの世界を牛耳っている資本家や多国籍企業にとって、空間を支配することは、非常に重要なことのようだ。なぜならそれは、彼らの「経済」にとって、欠かせないものだから。

そう、……今の話で思い出したよ。1990年代、多くの人々が「歴史の終わり」を声高に叫んでいた。「民主主義と自由経済が勝利し、国際社会では歴史的な大事件は、もはや生じなくなる」とね。

宮内:フランシス・フクヤマ(アメリカの政治学者、1952年~)の著書『歴史の終わり』(1992年)などでしょうか。

クストリッツァ:しかし人々は、2000年代になってから、再び「歴史」を作り始めた。つまり、彼らの言う「歴史」は、資本主義が必要としている空間を、小さな国々から掠め取るためのトリックだったんだ。けれども空間は、先ほど言ったように、本来人間の手で支配できるものではない。

だから私は、都会から離れた場所、自然に囲まれた場所に、小さな自分の町を作った。それは本当に特別なことだと思っているし、そこで生活することは、私の喜びでもある。たった50軒の家しかないその町で、私は自分の人間性というものを保つことができているんだ。

エミール・クストリッツァは、2人の美女から想いを寄せられるコスタ役を自ら熱演 / ©2016 LOVE AND WAR LLC
エミール・クストリッツァは、2人の美女から想いを寄せられるコスタ役を自ら熱演 / ©2016 LOVE AND WAR LLC

宮内:少々立ち入った話になってしまうのですが、監督は一時期、祖国(旧ユーゴスラビア)を失い……、いわゆる「ディアスポラ」(所属していた国家や民族の居住地を離れて暮らす、集団ないしコミュニティーを指す)の状態にあったと思うのです。今のお話を聞いていると、現在は自分の居場所というものがあり、そこで穏やかに過ごせているような印象を受けました。もしそうであれば、私自身も嬉しいのですが……。

クストリッツァ:ドイツの詩人リルケは、「家を持たないものは、死ぬまでそれを見つけることができない」と書いた。だけど、私は自分の家を見つけることができたんだ(笑)。

私が作った2つの町は、いずれもボスニアとセルビアの国境の近くの「ノーマンズランド」と呼ばれている地域にある。そこは長い内戦の影響で、誰も寄り付かない地域になっていた。その場所に、「文化的な要塞」とも呼ぶべきものを作ることができて、とても満足している。「ノーマンズランド」を、平和な土地に作り変えたかったからね。そして、それは今のところ、うまくいっているよ。

宮内:映画と町作り、どちらにも監督の「人間性」に対する姿勢が共通しているように感じます。では、最後の質問になります。監督の映画は、ここ日本でも多くのファンがいますが、今回初めてリアルタイムで見ることができるという若いかたも、きっと多いことと思います。彼らに向けて、何かメッセージをいただけますか?

宮内悠介

クストリッツァ:私はテクノロジーに関しては、多くの点で賛同しかねるところがある。けれども、テクノロジーの進化にいくつか良い点があるとするならば、それは私の作品に世界中からアクセスがしやすくなったということだ。

若い人々は、新しい作品を発見することが大好きだ。彼らはいろんなやり方で、私の作品を発見してくれるだろう。それはまさにテクノロジーの進化によって、かつてよりも格段にアクセスしやすくなったことが関係している。このインタビューを読む人も、ひょっとしたらちょっとしたこときっかけに、私のことを知って、興味を持ってくれたのかもしれない。それは、とても素晴らしいことだと思っているし、感謝もしているよ。だから、誰かの意見や感想など気にせず、まずは自分の目で、この『オン・ザ・ミルキー・ロード』という映画を確かめてみてもらいたいね。

コスタと村娘ミレーナ(スロボダ・ミチャロヴィッチ)。祝祭シーンにバルカンミュージックが華を添える / ©2016 LOVE AND WAR LLC
コスタと村娘ミレーナ(スロボダ・ミチャロヴィッチ)。祝祭シーンにバルカンミュージックが華を添える / ©2016 LOVE AND WAR LLC

作品情報
『オン・ザ・ミルキー・ロード』

2017年9月15日(金)からTOHOシネマズ シャンテほか全国公開
監督・脚本:エミール・クストリッツァ
音楽:ストリボール・クストリッツァ
出演:
モニカ・ベルッチ
エミール・クストリッツァ
プレドラグ・“ミキ”・マノイロヴィッチ
スロボダ・ミチャロヴィッチ
ほか
上映時間:125分
配給:ファントム・フィルム

プロフィール
エミール・クストリッツァ

1954年生まれ、ユーゴスラビア・サラエヴォ出身。1978年にプラハ芸術アカデミー(FAMU)の監督学科を卒業。在学中に『Guernica』(1978年)を含む短編映画を数本制作し、カルロヴィヴァリの学生映画祭で最優秀賞を受賞。卒業後、故郷(当時はユーゴスラビア)でテレビ映画を何作か監督し、1981年に『Do You Remember Dolly Bell?(Sjecas li se Dolly Bell?)』で長編映画デビュー。成功を収め、ヴェネチア国際映画祭で新人監督賞を受賞した。その後、『アンダーグラウンド』(1993年)『黒猫・白猫』(1998年)『ライフ・イズ・ミラクル』(2004年)などの作品で、人気監督として不動の地位を築いている。

宮内悠介 (みやうち ゆうすけ)

1979年、東京都生まれ。92年までニューヨーク在住、早稲田大学第一文学部卒。2010年、「盤上の夜」で第1回創元SF短編賞山田正紀賞を受賞しデビュー。第1作品集『盤上の夜』で第147回直木賞候補、第33回日本SF大賞受賞。第2作『ヨハネスブルグの天使たち』で第149回直木賞候補、第34回日本SF大賞特別賞受賞。他の著書に『エクソダス症候群』『彼女がエスパーだったころ』『アメリカ最後の実験』『スペース金融道』『月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿』。最新作の『あとは野となれ大和撫子』(2017年)は、第157回直木賞候補に選出された。



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