演出家・谷賢一の訴え「芸術・文化は日本が立ち戻るために重要」

4月14日から池袋の「あうるすぽっと」で上演される『High Life』は、麻薬中毒の4人の男たちの退廃的で暴力的な生を描いた現代戯曲の名作だ。映画や舞台で活躍する3人の若手俳優に加え、ミュージシャンのROLLYも参加する本作は、映像や音楽面で実験的な試みをするという。

今回、その演出を行う谷賢一にインタビューする機会を得た。これまで俳優同士の対話を起点にした作品で高い評価を得てきた谷は、本作でまったく違うアプローチを選択しているようにも見える。しかしそれは、演劇の魅力を否定するものではないようだ。むしろそこには、新たなテクノロジーをふまえたうえでの、芸術や芸能の深い洞察、再考の狙いがあるのではないだろうか? 稽古に打ち込む谷に、話を聞いた。

舞台技術が発展するなかで、特に映像分野との接点を持たずに演劇が続いていくのは、ナンセンス。

—『High Life』は、これまでも日本で何度も上演されているカナダの人気戯曲です。基本的な構造はシンプルな会話劇ですが、今回は映像と音楽の効果に力を入れると聞きました。

:僕は上演台本・脚本での参加でしたが、手塚治虫のマンガを舞台化した『PLUTO』(2015年上演)や、楳図かずお原作の『わたしは真悟』(2016年上演)といった、映像をダイナミックに活用した演劇に関わる機会がここ数年で増えて、舞台表現も大きな変化の時期を迎えつつあるように思っています。音楽や映像が新しい世界を広げてくれるかもしれないという予感が、演出家としての好奇心を刺激するんです。

谷賢一
谷賢一

—そこがけっこう意外ですよね。谷さんの代表作である『最後の精神分析』(2013年に上演され、『第6回小田島雄志翻訳戯曲賞』、『文化庁芸術祭』優秀賞を受賞した)が、対話に重きを置いていたように、谷さんは演劇における言葉の扱いに大きな興味を持ってきたという印象があります。

:それはいまでもそうで、ひとつの舞台設定のなかで、俳優と俳優の取っ組み合いだけで2時間近い作品を成立させるというのが自分の得意分野だと思っています。『High Life』自体もそういう戯曲ですから、根っこの部分は共通しています。

ただ、この作品について見過ごされていると思うのは、4人の男たちがどういう精神世界を見て生きているのか、という視点です。彼らが生きてきた現実のなかで、ドラッグでトリップすることで現れる世界、酩酊するなかで味わう多幸感はとても重要で、それを映像と音楽を使って立体的に表現することには意味があるはず。

谷賢一

—今回は音楽スタッフも異色の顔ぶれですね。家電製品やクラシックな音楽機材を改造して演奏する「Open Reel Ensemble」メンバーの吉田匡さんと吉田悠さん、吉田匡さんは「相対性理論」のベーシストでもありますね。そして同じく「相対性理論」のドラマーでもある山口元輝さん。Open Reel Ensembleが出るということは、舞台上にも家電製品が並ぶ?

:そう思っていただいていいです。Open Reel Ensembleの2人は『わたしは真悟』にも参加されていて、音楽と舞台の絡まりとしてすごく面白かったんですが、その実験をさらに進めてみたいな、という思惑もあります。

—そういった異分野との融合の試みを、谷さんはどう捉えていますか?

:メディアミックスって、油断すると安易の極みみたいになってしまいますから、気をつけないといけないです。でも、一方で舞台技術が発展するなかで、特に映像分野との接点を持たずに演劇が続いていくのは、やはりナンセンスだと思っていて。

たとえば、100年ぐらい前までは舞台照明を演出効果に使うなんて慣習は存在していなかったけれど、現在は当然のように使われていますよね。映像にしてもこの先、まだ見ぬ新技術が舞台で活用されるのは自然な流れですから、これから先に登場する戯曲も、映像が舞台上にあることを前提に書かれるようになると思うんです。

シェイクスピアと裸踊りの融合を目指して、僕は演劇をやってきたつもりです。

—少し話をずらして、谷さんのルーツについて聞かせてください。明治大学で演劇サークル「騒動舎」に参加されてますが、かなり特殊な集団だったとか。

:全裸で舞台に出て裸踊りをしてました(笑)。本当にひどい集団で、活動の中心は舞台の外。普通の学生が大勢いるキャンパスに突然現れて、大声で「セックス、セックス、騒動舎! おまんこ、おまんこ、騒動舎!」って連呼する。集まってきたお客さんに花束や五円玉を投げつけたり、消化器をぶちまけたりするゲリラ活動が主でした。

谷賢一

—迷惑な人々ですね。

:なので大学から追放されたんですよ。「君たちのやっていることは犯罪だから」って。まあそのとおりなんですけども、その情熱はいまも自分のなかに根付いてますね……。あ、今回の『High Life』は違いますよ!

—(笑)。肉体性全開の活動をしていた谷さんが、スタティックな対話劇に傾倒していったというのが面白いです。

:むしろ高校生の頃の僕は、いつも分厚い本を読んで「スタニスラフスキー(近代演劇を代表する演出家・理論家)が言うには……」とか言ってる演劇オタクだったんです。他にも4つ部活を掛け持ちして、生徒会にも参加して授業にはほとんど出ないっていう、大学生活を先取りするような高校生だったんですけど。

そんな人間が大学に入って、もちろん演劇を続けようと思っていろんなサークルを見て回ったんですが、非常に残念なことに、文学気取りな演劇サークルよりも、騒動舎が圧倒的に面白かったんですよ。裸踊りとか、本当に心から嫌だったんですけど、面白さには抗えない(笑)。

—そのぐらい衝撃的だったんですね。

:そう、悔しいけど面白かったんですよ。それ以来、シェイクスピアと裸踊りの融合を目指して、僕は演劇をやってきたつもりです。

—そこがいまにつながる(笑)。

過去に書かれた戯曲をどうやって現代につなげるかというのは演出家の使命でもある。

:あらゆる表現って、ハイカルチャー寄りのファインアートに寄っていくのか、大衆的なポップカルチャーに向かっていくのかではっきり分かれますよね。

—たしかに、そうかもしれないです。

:でも、演劇ってそのどこにいるんだろう、っていうのが僕にとってはつねに疑問なんです。娯楽性とかいっさい拒絶したような演劇にもすさまじい名作があったりするけれど、一方でお客さんが木戸銭を払って観に来て楽しんで帰る、というのも演劇の大きな側面としてある。

僕にとってシェイクスピアやチェーホフはとても刺激的だけれど、「ちょっと演劇に興味あるんです」って人に『テンペスト』や『三人姉妹』の本を渡しても「なんだよこのご都合主義! 意味わからん!」って返されちゃうのは目に見えてるし、何度もそういう経験を繰り返してきました。

谷賢一

—いまの若い人は特に、そうかもしれないですね。

:そうなんです。いまの若い人たちの多くが本を読む力を持っていないのは残念ながら明らかで、だとすれば、過去に書かれた戯曲をどうやって現代につなげるかというのは演出家の使命でもある。

かといって、分かりやすいものばかり調理していても不毛。だから、冗談みたいな話ですけど、裸踊りとシェイクスピアの融合はじつは必要だし、それが演劇ではできるはずだと思って、毎公演ごとにいろんな模索をしているんです。

—その意識は、やはり騒動舎との出会いから生まれたものですか?

:最初の気づきは、The Beatlesがくれました。高校時代から音楽が好きだったんですけど、世代的にずっと「The Beatlesなんて古臭いもの聴けねえ!」と思い込んでいたんですね。でも高校3年のときに改めて聴き返してびっくり仰天したんです。いま聴いてもスリリングな新しい音の実験をしているのに、なんて美しい音を発しているんだろう、と。

しかも彼らが現役で活動していた1960~70年代には、アイドル的な熱狂を勝ち得ていた。The Beatlesの存在が、アートとポップがじつは融合しうるんだ、ってことに気がつかせてくれたんです。

谷賢一

—演劇ではどうですか?

:演劇も同様で、シェイクスピアは貴族だけでなく庶民にも愛されてたんです。17世紀前半のロンドンにあったグローブ座では、庶民たちが飲み食いしながらスタンディングで芝居を観ていた。日本の歌舞伎も同様で、町人や商人が観劇して、その後に同伴した芸者を抱いたりしていた。

大衆文化も現在は芸術と言われているものも、出発点は一緒だった。そして後世に残るものは、大衆にも愛されるものだった、というのは演劇史の研究をすれば明らかです。

—だからこそ演劇の多面性をつねに考えてきた。

:でも同時に、自分がどうしてもこだわりたい演劇の精髄もある。これは、高校時代からの演劇オタクとしてのアイデンティティがそうさせるのでしょう。その意識は、今回の『High Life』でももちろん大事にしています。

日本という国がこの先まともな国に立ち戻っていくために。

—いままでの話で言うと、『High Life』の舞台上にはさまざまな要素が並ぶわけですね。映像や音楽だけでなく、Open Reel Ensembleの家電もあるわけで。

『High Life』メインビジュアル
『High Life』メインビジュアル(サイトで見る

:そうなんです。今回のたくらみはまさにそこで、一見同居しづらいものを、どのように舞台で調和させるかを考えています。正直、戯曲をそのままストレートに上演するんだったら、僕が演出する必要はない。

まだ構想段階なのですが、ミュージシャンたちの存在が、宗教画のワンシーンのように見えればいいな、と考えています。悪魔、天使、怪物的な不気味な存在が4人をずっと眺めていて、彼らの運命を左右している。ミュージシャンをそんな存在としても位置づけるんです。映像についても、空間自体が歪んだり、まったく別の場所に飛躍したりすることで、ドラッグがもたらす幻視の世界を生み出すつもりです。

—前作はベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』(演出・上演台本を谷が担当、2018年1月23日~2月10日までKAAT 神奈川芸術劇場と札幌市教育文化会館で上演された)でしたが、谷さんは人間の愚かさや猥雑さのドラマに関心があるように思います。それはかつて演劇や絵画が担っていた、そこに描かれる人々の営みや出来事から、観客が何らかの教訓や批評的に考える機会を得るという「機能」への関心でもあるのでしょうか?

:意図的に古典的なモチーフを持ち込みはしないですが、古典芸術・芸能の研究を散々した後に裸踊りにいった人間なので、やはり根っこにあるのは前者なんでしょうね。

テーブルの上にある紙コップ、これは現代の人から見たらなんてことのないものだけど、18世紀のモダンデザインの登場がなければ生まれなかったもので、100年前にはなかったデザインです。さらに、配置の仕方・組み合わせ方にはポップカルチャーや現代美術の影響も感じられる。こういう風に、あらゆる芸術・文化・芸能は歴史的な文脈から切り離せないわけです。それが作品に反映しているということではないでしょうか。

谷賢一

—その意識を作品に込めているとしたら、谷さんは何をしようとしているんでしょうか? ある種の啓蒙?

:その言葉には高ぶったいやらしさがありますけど、啓蒙思想に対する傾倒は自分のなかに確実にあると思います。

本当にいまの時代って、何も考えずに楽しめるもの、何も考えずに咀嚼できるものがメディア、エンターテイメントにものすごく多い。もちろん、そういうものがあってもいいんですよ。疲れたときに飲む栄養ドリンクとか、お粥みたいなもので、僕も疲れて帰宅したら、しょうもないバラエティーを見ますから、やっぱりエンタメはあったほうがいい。

でも、そればっかりになったとき、文化の耐久度、文化を受容する人間の力は確実に減っていく。壮大な話をすれば、それは国力の低下に結びついていくではないですか。芸術・文化がきちんと言葉と表現力を持っていて、それを咀嚼する力を観客が持っている、ということが、日本という国がこの先まともな国に立ち戻っていくためには重要なことだと思うんです。正しく言葉を使い、正しく自分の意図を人に伝え、正しく意味を読み解く力を持たない人は、おそらく敗北していく。

谷賢一

ポップカルチャー的に演劇を観に来た人をうまく騙しながら、根暗な文学オタクの世界に誘導してきたいんです。

—映像や音楽は能動性よりも受容性が強いメディアですから、それを取り扱う方法には慎重さが求められますね。

:もちろんそうです。なぜ僕が言葉にこだわるかというと、言葉って、あらゆる表現のなかでももっとも削ぎ落とされた表現のひとつだからです。例えば「空」や「青春」って言ったときに想像するイメージが全員違ったりするように、ひとつの言葉を通じて広がっていく世界には無限の広がりがある。日本語であればたったの50音の組み合わせでそれができるのはすごいことですよ。

—なるほど。たしかにそうですね。

:こういった言葉の抽象性に比べて、映像や音楽は具体的で固有的な表現になってしまうことが多い。それは誰が見ても誤差なく理解できる強い伝達力を持つけれど、それが強まるほど、言葉の抽象性は失われてしまう。だから『High Life』では、観客の想像力が固定的になるような作り方を目指しません。映像や音楽を触媒にして、より先の世界へと想像力が広がるような作り方をしたい。

谷賢一

—新しいハイブリッドを目指す?

:そういうことかなあ。自分には「文学は敗北したんだ」って意識が昔からずっとあって。カミュやカフカやドストエフスキーの面白さを伝えようとしてむしろ変人扱いされる、っていう敗北の経験をずっとしてきました。それを覆したいけれど、ほこりをかぶった難解な本を渡しても、むしろさらに文学嫌いにさせてしまうような悪い布教はしたくない。

だったら、ポップカルチャー的に演劇を観に来た人が「あれ、じつは古典戯曲って面白いのかも? 海外文学って面白いのかも?」って思わせるかたちでうまく騙しながら根暗な文学オタクの世界に誘導してきたいんです。それが僕の演出家としての役割、って気がします。

—地道なテロ活動ですね。騒動舎でのゲリラ時代にも通じるような。

:ほんとそうですよ。頼まれてもいないのにね(苦笑)。

谷賢一

イベント情報
『High Life』

2018年4月14日(土)~4月28日(土)全16公演
会場:東京都 池袋 あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)

作:リー・マクドゥーガル
演出:谷賢一
翻訳:吉原豊司
音楽:吉田悠(Open Reel Ensemble)、吉田匡(Open Reel Ensemble)、山口元輝(moltbeats)
映像:清水貴栄(DRAWING AND MANUAL)
出演:
古河耕史
細田善彦
伊藤祐輝
ROLLY
料金:前売6,800円 当日7,500円
共催:あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)
主催・製作:ソニー・ミュージックアーティスツ

プロフィール
谷賢一 (たに けんいち)

作家・演出家・翻訳家。1982年、福島県生まれ、千葉県柏市育ち。DULL-COLORED POP主宰。Theatre des Annales代表。明治大学演劇学専攻、ならびにイギリス・University of Kent at Canterbury, Theatre and Drama Studyにて演劇学を学んだ後、劇団を旗揚げ。「斬新な手法と古典的な素養の幸せな合体」(永井愛)と評された、ポップでロックで文学的な創作スタイルで、脚本・演出ともに幅広く評価を受けている。



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