坂田ゆかりが『F/T』で見せる、お寺や信仰と現代人との距離

東京各所を舞台とする芸術の祭典『フェスティバル / トーキョー』。今年も日本やアジア各国から多くのアーティストが集まり、演劇に留まらない作品を発表する。そんな中で、西巣鴨のお寺で新作を発表するのが、演出家の坂田ゆかりだ。学生時代から交流のある俳優の稲継美保、パーカッショニストの田中教順とともに、お寺の本堂で上演する作品は、その名も『テラ』。

まるでダジャレのようなタイトルだが、そこには現代における信仰や宗教と、現代人の距離感を探ろうとする坂田なりの企みが込められているらしい。現在進行形で稽古に取り組む坂田に話を聞いた。

お寺って身近にあるものだけれど、けっして頻繁に行く場所でもなくて、個人的に謎感があるんです。

—まず、今回の新作『テラ』は、お寺で上演するから「テラ」という理解でよろしいでしょうか?

坂田:その通りです(笑)。『フェスティバル / トーキョー』では、ここ数年『まちなかパフォーマンスシリーズ』という劇場以外の場所で上演するシリーズを展開していて、その一環として今回は東京・西巣鴨の西方寺をお借りして上演します。お寺ってかなり身近にあるものだけれど、けっして頻繁に行く場所でもなくて、個人的に謎感のある場所です。その謎に、作品を通じて迫りたいなと思っています。

—たしかに初詣や夏祭り以外にお寺に行く機会は少ないですが、そんなに謎ですか? ライブを行ったり、カフェを運営したりするような、開けた印象も最近のお寺にはあります。

坂田:日本のお寺について自分が知っていることの少なさが、謎めいた印象を強くさせるんですよね。特に海外ではいろんなバックグラウンドの人と宗教の話をすることがあるんですが、「坂田さんの宗教ってなんですか?」と聞かれてもうまく答えることができない。

家族代々のお墓は父の実家の佐賀の浄土真宗のお寺にありますから、「私は浄土真宗です」と言ってもよいはずなのに、祖父母が亡くなってからはほとんど佐賀に行くこともないし、そもそもどんな教義なのかも知らない。知っているはずなのに、いちばん縁遠い場所っていう感覚が自分の中にはあります。

坂田ゆかり

—『テラ』の原案になっている三好十郎の『水仙と木魚』の主人公は、お寺の一人娘ですね。

坂田:私は基本的に自分で戯曲を書いたりしないので、既存の本から探してくるのがすごく大事なんです。

今回、学生時代に一緒に作品を作ってきた俳優の稲継美保さんと「久しぶりになにかやりたいね」って盛り上がったのが『テラ』の発端です。去年、紛争地域に関わる小さなリーディング公演で一緒だったんですけど、もっと深く発展させていける手触りもあって、そのタイミングで今年の『まちなかパフォーマンスシリーズ』のオファーをいただいたのも嬉しい偶然でした。

稲継さんには「一人芝居をやってみたい」という気持ちがあったので、彼女に合いそうなモノローグを探していて、三好の書いたお寺の一人娘の話『水仙と木魚』に出会えたわけです。

稲継美保

—今回は坂田さんと稲継さんの他に、パーカッショニストの田中教順さんもメインのメンバーとして名を連ねています。「きょうじゅん」さんというお名前なので、ひょっとすると仏教関係の人なのかな、と思ったのですが……?

坂田:まさにお寺の息子さんです(笑)。田中さんは大学時代以来の友だちで、一緒に作品を作ったりはしなかったんですけど、たまたま共通の友人の結婚式で彼の「ドラム漫談」を見て衝撃を受けたんです。自分でドラムを叩きながらなにかを喋るっていう一芸で、とにかく会場を大いにわかせていました。

彼はお寺の跡取りとして育てられたけれど、横道にそれてミュージシャンになった人で、そこにもなにかありそうな予感がして、それで「一緒にやりましょう!」と声をかけさせてもらいました。

—予想以上にお寺要素の強い座組みです(笑)。

坂田:とはいえ、原案をかなり脚色しています。原作は1950年代当時の冷戦状況を反映した例え話のように、お寺とその隣の農家の間のいさかいを描いています。それを今あらためて読んでみると、「お隣さん」という距離感は、お寺という場所のあり方を考えるうえでもけっこう大事だと思うんですよ。

会場である西巣鴨はいわゆる寺町で、同じエリアの中に各宗派のお寺がギュっと集まっています。お寺とお寺がお隣同士というのも面白いですし、寺の娘である主人公に対して、常に隣にいるもう1人の存在=田中さんを併置させる関係性も、なにかを象徴するように思うんです。

左から:坂田ゆかり、稲継美保、田中教順。会場となる西巣鴨 西方寺にて
稲継美保。会場となる西巣鴨 西方寺にて

演劇は「いつか死ぬ」ものによって構成されている。

—お寺のリサーチもかなりなさったんでしょうか?

坂田:ロサンゼルスの日本人街にあるお寺で話を聞くこともありました。そうやっていろんなお寺のケースを見ていって特に印象に残ったのは、東京におけるお寺のあり方の特殊性です。お寺と人って、生まれ育った地域と密接に関わるものですが、東京はいろんな人が集まって動いている街なので、その前提が必ずしも成立しないんです。

—上京して暮らす人が大半の街ですからね。その人の故郷は別にある。

坂田:人によっては、故郷を離れて東京に根を張って生きることを決めることもあるので、自分で宗教や宗派を選択して、死後、自分だけが納まるための納骨堂と契約する場合もあります。日本に長く根付いた檀家制度から離脱する選択をする人もいるんです。

私たちの世代で終活について考える人はそう多くないと思いますけど、上の世代にとってはかなりホットな話題ですよね。田中さんに聞いた話ですが、築地本願寺が新しい合同墓を作るというニュースが出た瞬間に、3000件の申し込みが殺到したそうです。

—お墓の申し込みが殺到しちゃうんですか。

坂田:1人30万円くらいで終の住処に入れて、しかも有名なお寺であればその後のケアも安心ですからね。多くの日本人の日常の中に宗教はないけれど、死を意識した瞬間からドンっとそのことが気になってくる。それが、今の私たちと宗教やお寺の関係なんだと思います。

—それも微妙に「隣り合っている」例のひとつですね。そういった発見は『テラ』にも影響していますか?

坂田:突き詰めて考えると、自分と演劇との関係っていう大きな問題にも関わってくる気がします。演劇を興行としてとらえれば、目の前にいるお客さんを楽しませるものとなるのですが、実感として自分は、見えない次元にあるものに触れることができる場所や時間を一時的に生み出すのが演劇だと思っているんです。

それはちょっと宗教のあり方にも似ています。例えば作品は映像や戯曲というかたちで未来にも残っていくけれど、今演じているパフォーマーはいずれ死んでしまう。建築や美術であれば物として残すことができるんですが、演劇は「いつか死ぬ」ものによって構成されている。そのあり方が、逆説的に死んだ先の未来についての思考を浮かび上がらせるというか……。

—例えば盆踊りには、笠をかぶって表情を見えなくさせる匿名的なスタイルがあったりしますが、それを見た人が亡くなった家族の踊り方を思い出したりすることがあります。つまり盆踊りは、死んだ人の記憶を再生するメディアとも言える。演劇に限らず舞踊などの身体表現には、そういった儀礼的な性質が宿っています。

坂田:儀礼という言葉で思い出すのは、SPAC(静岡県舞台芸術センター)芸術監督の宮城聰さんです。宮城さんは、開場前の舞台に向かって必ず祈りをあげるんです。それはあくまで宮城さんなりの祈りのスタイルなのですが、それが終わらないとお客さんは客席に入れない。それは宮城さんが舞台という空間、演劇という形式を神聖なものとしてとらえていることのあらわれだと思うんです。その姿を間近で見た経験は、私にとても大きな影響を与えています。

お経自体を劇中劇として引用することを考えています。

—お寺に話を戻すと、地域社会や都市におけるコミュニティーの拠点として寺社を捉えなおす動きが近年目立ってきました。でも、歴史を振り返ってみれば、お寺はイベントスペース、学校や市役所、あるいは結婚相談所や不動産屋のような役割をあわせ持つ場所だったことがわかります。つまりお寺はもともといろんな人や事が「隣り合う」場所だったわけです。

坂田:例えば音楽だと、お寺でのコンサートをライフワークのようにしている演奏家が大勢いらっしゃいますよね。そういう意味では、仏教性と関係ないあり方で、現代の人もお寺と接点を多く持っている。でも、一方で直接的に仏教を扱う表現というのはなかなかないのも事実で、『テラ』ではそのあたりにも踏み込んでいきたいと思っています。

—それは演出面で?

坂田:はい。今回「無量寿経(むりょうじゅきょう)」というお経をテキストとして使っていますが、これは浄土宗の中で頻繁に読まれるお経で、阿弥陀如来が世界を救うための誓いをたてたときの言葉です。このお経自体を劇中劇として引用することを考えています。

—お寺でお経をあげることと、劇のセリフがほぼイコールの関係で結ばれている。

坂田:そうですね。お坊さんがお経をあげるのも一種のパフォーマンスとして受け止めることができますが、多くの場合は漠然と「お経だな」と思って聴き流してしまうじゃないですか。そこに俳優が立ち会うことによって、お経がもともと伝えている物語を一緒に体現することができないか、稽古の中でいろいろと試しているところです。

—稲継さんは、岡田利規さんや松井周さんなど様々なタイプの演出家の作品に参加されていますが、新たな一面が見れそうで楽しみですね。

坂田:今回の作品で一人芝居、モノローグをやるのは稲継さんの希望だったのですが、演劇にとってモノローグってとても重要だと思っています。

客席に向かって、ある長いまとまったテキストを自分の言葉として話す、そしてお客さんはそれをただ聞くっていうのは、すごくシンプルなかたちだからこそ俳優と観客のコミュニケーションの難しさが明快にあらわれるんです。舞台上から見て真っ暗な闇の中にいる不特定多数の観客に向かってコミュニケーションを試みることは、はるか天高くにある見えない次元から人間を見ているお天道様に話しかけるようなものかもしれません。

演劇をやってる人たちって、けっこうナチュラルに舞台の神様みたいなものを感じている。

—坂田さんは、神様や仏様みたいな存在が気になるんでしょうか?

坂田:気になるかと言われれば、気になりますよね(笑)。演劇をやってる人たちって、けっこうナチュラルに舞台の神様みたいなものを感じていて、特に本番前、これからステージを始めようってときに、自分の身を神様に託すようなところがあります。

2014年の『F/T』でパレスチナのアーティストと一緒に『羅生門|藪の中』という作品を作ったんですけれど、今言ったような感覚をイスラム教を信じている人たちも持っていて「ああ、万国共通なんだなあ」と思いました。それはヨーロッパに住んでいるリベラルで無神論者の演劇人にも共通する感覚で、これだけ文明が発達して宗教から離れる人が増えている現代においても、素朴な信仰、見えないものを信じる感覚は、ふとした瞬間に自分のすぐ隣にあることに気づきます。そういった経験は、『テラ』を作ろうと思った動機のひとつかもしれません。

2014年の『F / T』で上演した『羅生門|藪の中』

—「演劇は信仰です」と言い切ってしまうような?

坂田:そこまででは(笑)。むしろ私は演劇を信じてない側の人間だと思います。だからこそ気になるのかもしれませんけど。でも、共通するのは見えないもの、とらえがたいものへの関心なんだと思います。

『羅生門|藪の中』の仕事が終わった後、戦後詩の勉強を始めたんですよ。それも、似たような関心からスタートしたもので。

—詩、ですか。

坂田:『羅生門|藪の中』は、パレスチナの国民的詩人ダルウィーシュの詩を引用して作品を閉じたのですが、そのときに「詩が演劇において上演可能なテキストになればいいのに」という風に思いました。私は、自分では劇作をしないのでテキストを外から持ってくるのですが、すごく短い文字の中に強い言葉が詰まっている詩がとても魅力的に感じられたんです。

特に1945年の敗戦後に書かれた詩は、戦地で書かれたものや、身近な人が戦死した経験を記したものが多くあります。そこには、敗戦から復興するために必要な社会のアップデートにおいて、言葉の模索を必要とする気持ちがこもっているように感じます。

—戦後詩というと、例えば田村隆一らが刊行した詩誌『荒地』などでしょうか?

坂田:そうですね。

—戦後詩のひとつの潮流として、戦前に戦意高揚のために利用された詩への反省がありますね。キャッチーなメロディーにのせた、思わず口ずさみたくなるような戦前の動向への反動として、あえて朗読しにくい、視覚的な要素の強い難解な詩が登場しました。

坂田:まさにそこに興味があって、役者に読んでもらったりしていました。戦後詩って、発声しても詩として成り立ちにくいんです。音としては聞こえるのに、すんなりと耳に入ってこない性質を強く持っている。視覚詩という表現がありますが、「目で読む」というのが戦後詩の特徴のひとつだと思います。

原案の『水仙と木魚』は「詩劇」ですし、他にもいくつかの詩を挿入しながら台本を構成しています。『テラ』は、戯曲のような上演専用の言語ではなく、ある時代を作るためのステートメントとして機能していた詩を上演する、新たな挑戦でもあります。仏教の懐の深さとお寺の空間の力を借りながら、この難題と向き合うことを諦めずに粘り強く作っていきたいと思います。

イベント情報
まちなかパフォーマンスシリーズ
『テラ』

2018年11月14日(水)19:00
2018年11月15日(木)19:00
2018年11月16日(金)12:00 / 19:00
2018年11月17日(土)12:00 / 18:00
会場:東京都 西巣鴨 西方寺
原案:三好十郎「詩劇『水仙と木魚』――一少女の歌える――」ほか
作・演出:坂田ゆかり
出演:稲継美保
音楽:田中教順
企画・主催:フェスティバル / トーキョー
特別協力:西巣鴨 西方寺

プロフィール
坂田ゆかり (さかた ゆかり)

1987年東京生まれ。東京藝術大学音楽環境創造科卒業後、全国の劇場で舞台技術スタッフとして研鑽を積む。2014年、アルカサバ・シアター(パレスチナ)との共同創作『羅生門|藪の中』を演出(F/T14)。近年は展覧会という形式に演劇の技術や考え方を応用させる実験を重ねている。建築家ホルヘ・マルティン・ガルシアとの長期プロジェクト『Dear Gullivers』は、第16回ヴェネチア建築ビエンナーレ(2018)のスペイン館に参加。既存の物語と協働を手段として、地域社会への芸術的介入を試みる。



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