寺尾紗穂が東京の東エリアを探訪。見えなくなった過去を調査する

縁があるわけではなかった東京の東エリア。寺尾紗穂が関心を強めていった理由

隅田川周辺地域から東側に広がる下町エリアを舞台として、公共空間における音・音楽の可能性を探るプロジェクト「BLOOMING EAST」。2015年からスタートし、2016年にはコトリンゴや日本大学理工学部建築学科の学生たちによるリサーチが行われ、街と音の関係性構築の可能性が探られた。

そんな「BLOOMING EAST」の新たな展開がはじまっている。今回参加したのが、シンガーソングライターである寺尾紗穂。近年は各地のわらべ歌の調査にも取り組むほか、ジャーナリスト / 文筆家として社会の片隅にこぼれ落ちる小さな声を拾い集めてきた彼女は、東東京の地に何を見つけるのだろうか。小雨の降る2月某日、「BLOOMING EAST」主催のNPO法人トッピングイーストの清宮陵一とともに、墨田区をまわる寺尾のリサーチに同行した。

寺尾紗穂
寺尾紗穂

東京の杉並区で育った寺尾にとって、墨田区を含む東東京はこれまでそれほど縁のあるエリアではなかったという。そんな彼女が東東京への関心を強めるきっかけとなったのは、2015年の「BLOOMING EAST」に参加し、もともとブリキのオモチャ工場だった空き工場でライブを行ったこと。寺尾は「それ以来、少しずつ東の世界に引っ張り込まれたんです(笑)」と笑う。

2015年、春先の墨田区八広と東墨田を舞台に1日をかけてトーク、もの作りワークショップとライブをパラレルに展開。廃工場での寺尾紗穂のライブには飛び入りでソケリッサがダンスするシーンも。
2015年、春先の墨田区八広と東墨田を舞台に1日をかけてトーク、もの作りワークショップとライブをパラレルに展開。廃工場での寺尾紗穂のライブには飛び入りでソケリッサがダンスするシーンも。

寺尾:2015年のイベントのとき、前もって土地の記憶も一緒にたどってほしいということで、何か所かの場所を巡るなかで、荒川沿いで皮革産業に携わってきた人たちの存在を知りました。その上で先日、「BLOOMING EAST」主催の清宮さんから、「数年準備しながらこの地域に何かを残していきたい」という連絡がきて、「かなり本気だな」と思いました(笑)。現在の「共生」について考えていきたいという清宮さんの姿勢は簡単ではないけれど、とても大切だと思ったんです。

「歴史を知ってそこから学ぶという意識を、少しでも下の世代に繋げていければいいなと思っています」(寺尾)

本年度の「BLOOMING EAST」の特徴のひとつが、最終的なアウトプットの形を最初から決めるのではなく、リサーチのなかでアウトプットの形そのものも模索していくという点にある。寺尾には「わらべ歌」がひとつのテーマとして事前に伝えられてはいるものの、それはゴールを意味するものではない。

清宮:必ずしもライヴやCDなど何らかの形に落とし込む必要はないと思ってるんです。寺尾さんが普段考えてることと何か結びつくようなことができないかなと考えていました。その前段階として、まずはいろんな方にお話を伺ってみようというのがはじまりです。

清宮陵一
清宮陵一

ゴールよりもリサーチのプロセスを大切にすること。それは、街の歴史や住民の歩みに対する眼差しそのものを重要視しているということでもある。

寺尾はこれまでにも戦時中に日本統治下の南洋へと渡っていった日本人や、全国の原発労働者たちを訪ね歩き、これまで記述されてこなかった土地や歴史を書き留めるという作業を続けてきた。そうした作業の背景にある思いを彼女はこう説明する。

寺尾:「今聞いておかないと聞けなくなってしまう」という動機でぱっと動くことが多いです。戦争の話や古い話って主に上の世代の人たちが伝えてきたことですけど、書き手が若いことで、より若い人にも伝えられると感じていますね。「歴史を知り、そこから学ぶ」という意識の持ち方を、少しでも同世代や下の世代に繋げていくお手伝いができたらいいなとは思っています。

そう話した寺尾は、こう言葉を続ける――

寺尾:一人ひとりの経験やそこから抱く思いってやはりどこまでも異なるので、さまざまな証言者と出会いたい。見えなくなった過去をより立体的に、複雑に感じたいんです。

寺尾紗穂

東京都慰霊堂にいまも残る、語られることのない多種多様な人々の歴史と生々しい死の記憶

まず寺尾が訪れたのは、関東大震災と東京大空襲で亡くなった16万3千体もの遺骨が眠る東京都慰霊堂。死者の霊を慰霊するこの施設が建つ横網町公園には、かつて陸軍の軍服を作る工場、陸軍被服廠があった。関東大震災の際は空き地となっていたため、被災者の多くがこの地に逃げ込んだが、火災と混乱により実に3万8千人がここ一箇所で亡くなったとされている。

東京都慰霊堂の講内
東京都慰霊堂の講内

この慰霊堂の管理者であると同時に、震災および戦災という2度の悲劇に見舞われたこの地の歴史を現代に伝える語り部でもある、中村厚彦さんが話してくれた。

中村:震災の際に大惨事があったということで慰霊堂が作られることになりまして、ここは震災の7年後、昭和5年にできました。東京大空襲の際も仮埋葬地に遺骨を納める場所がないということで、ここに仮安置されることになったんですね。

中村厚彦(公益財団法人東京都慰霊協会)
中村厚彦(公益財団法人東京都慰霊協会)

納骨堂には震災と戦災で亡くなった方の遺骨が別々の部屋に安置されているが、無縁仏ばかりだけでなく、空襲のあと病院で亡くなったものの、引き取り手がなかった遺骨も眠っているという。1年前にもそうした遺骨を広島から引き取りにきた方がいたそうで、この場所ではいまだ戦災がリアリティーを持っている。

寺尾紗穂

慰霊堂の扉上部には照明器具を咥えた妖怪の姿があった
慰霊堂の扉上部には照明器具を咥えた妖怪の姿があった

現在の墨田区にあたる一帯は、震災のあと工場地帯として発展した歴史を持つ。戦時下にはその多くが軍需工場となっていたことから、東京大空襲の際には集中的に爆撃を受け、現在の墨田区にあたるエリアの約70パーセント以上が消失。6万人もの死傷者を出すなど壊滅的な被害を受けた。

中村:大空襲の当日は隅田川から錦糸町方面に向かって風が吹いていたそうなんです。避難所に指定されていた二葉小学校は風下だったため、風上に逃げて助かった人もいた。雪がちらつく寒い日だったそうで、隅田川に飛び込んで亡くなった方も多かったようです。

左から:中村厚彦、清宮陵一、寺尾紗穂

左から:清宮陵一、寺尾紗穂

巨大な祭壇には、震災と戦災の被害者を合祀した位牌が2つ並んでいる。寺尾はその位牌に向かって静かに焼香を行い、こう話す。

寺尾:慰霊堂はそもそも関東大震災の犠牲者の弔いの場だったところに、東京大空襲の犠牲者の慰霊もされているわけですが、それが仮安置だという点は考えさせられますね。靖国神社に戦死者が祀られ、英霊の物語が作られ喧伝されているのと対照的。大空襲による犠牲者の沈黙と、それを放置した国の沈黙が同時に現前化するような感じを受けました。

毎年3月10日と9月1日は、この慰霊堂で慰霊大法要が行われる。ただし、死者の信仰に配慮し、仏式の法要のみならず、キリスト教のミサも行われるという。寺尾がポツリと「さまざまな人の集う場所であり、誰も拒まない場所なんですね」と呟く。ここは東京の多様性が凝縮された場所でもあるのだ。

慰霊堂と同じ敷地内には、震災・戦災被害資料が陳列された復興記念館が建つ。語られることのない多種多様な人々の歴史と、生々しい死の記憶。復興記念館を出ても冷たい雨はまだ降り続いていた。

東京都復興記念館
東京都復興記念館

東京都復興記念館での様子
東京都復興記念館での様子

徳永柳洲『自警団』 / 関東大震災後、市民は各自に自警団を組織し焼跡を警戒した
徳永柳洲『自警団』 / 関東大震災後、市民は各自に自警団を組織し焼跡を警戒した

薄れつつある木下川という土地の記憶。未開地の開拓に携わった人たちの思い入れに着目する

慰霊堂から車を走らせること15分、今度は荒川にほど近い東墨田の墨田区社会福祉会館に到着した。

墨田区社会福祉会館
墨田区社会福祉会館

昭和49年9月に建てられたこの施設にはこのような説明文が記されている――「人権・同和問題の相談事業をはじめ、福祉増進を図るため、教養、娯楽、体育の向上、児童の健全育成、地域の交流を目的にして、乳幼児から高齢者まで幅広い区民を対象に各種事業を実施しています」。いわば同和対策事業の一環として、住民の福祉の観点から建てられた施設である。

館内には人権・同和問題や地場産業である皮革産業に関する展示物が並んでいるが、その横のビリヤード台では、小学生の女の子2人が黙々とビリヤードに興じている。近隣の子供たちにとってここは普段の遊び場のひとつでもあるようだ。

寺尾紗穂

福祉会館が一年で一番盛り上がるのは、子供たちや会館のスタッフたちが裏方として大活躍する「お化け屋敷」だという。その怖さの評判は近隣でも有名とのこと。

かつては墨田区の児童館で26年もの長きに渡って勤務し、その後墨田区の障害者福祉課を経て、4年前よりこの社会福祉会館で館長を務めている新田哲男さんが話してくれた。

新田:このあたりの子供たちは人懐っこくてフレンドリーなんですよ。指導員の先生にもすぐニックネームをつけちゃう。私も「にっちゃん」と呼ばれてます(笑)。

新田哲男(墨田区社会福祉会館・館長)
新田哲男(墨田区社会福祉会館・館長)

新田さんによると、東墨田という地名を持つこの一帯は、かつて木下川という町だったという。ここは現在も皮なめしの工場が立ち並ぶ皮革・油脂産業の町だが、その歴史がはじまったのは明治時代中期。浅草亀岡町(現在の今戸周辺)などにあった皮なめしの工場が東京府によって強制的に移転を命じられ、移転先として指定されたのが木下川の地だった。

新田:このあたりはほとんど湿地帯だったんですよ。皮なめしの職人たちは工場を作るために土を持ってきて、自分たちで整備したんですね。大正に入ってからは荒川の治水工事のためふたたび移転を迫られ墨田区側(木下川)と葛飾区側(木根川)に分断されました。さらに東京府は再び木下川からの移転を命じられたのですが、自分たちで作った土地だから思い入れがあり反対運動をし、移転を撤回されました。

左から:新田哲男、寺尾紗穂

開拓民としてのプライドと、土地との特別な結びつき。子から孫へと世代が変わると同時に、そうした土地の記憶も少しずつ薄れつつある。だが、いくら木下川の地にマンションや商業施設が立ち並ぼうとも、かつてその地に浅草亀岡町から移り住んできた人々が存在したという歴史的事実が消え去ることはない。新田さんはその事実と住民たちのプライドを後世へ伝えようとしている。

新田:木下川の皮なめしの品質は日本一なんですよ。職人たちもイタリアでいえばマエストロですからね。

寺尾はそんな新田さんの話に静かに耳を傾けながら、黙々とメモを取っていく。彼女のなかでは木下川の人々とこれまでに取材を重ねてきた人々の姿がオーバーラップしたようだ。

寺尾:川辺の土を自分たちで盛って土地を整備したというのは、着の身着のまま外地から戦後日本に戻って未開地の開拓に携わった人たちの姿や思いとも重なりますよね。戦後の日本にはパラオや南洋だけでなく、満州、朝鮮など様々な場所から引揚者が戻ってきたんですが、日本に戻っても住む土地がない人が少なくなかったんです。

だから、未開地の開拓というのは、様々な場所からの引揚者によって全国的に行われてきたこと。土地を拓いたこと、それからずっと耕してきた土地への思い入れは、私たちが想像する以上に重要なもののように思いました。皮革業の方たちの思いも聞いてみたいですね。

左から:新田哲男、寺尾紗穂

墨田聖書教会の歴史を紐解きながら、震災孤児の当時の状況に関心をよせていく

寺尾はこの日最後の取材先に向かった。1954年に創立された日本オープンバイブル教団墨田聖書教会である。

日本オープンバイブル教団墨田聖書教会
日本オープンバイブル教団墨田聖書教会

「クォンセット・ハット」と呼ばれるかまぼこ形兵舎を改築した可愛らしい教会に到着すると、なかからハーレーダビッドソンのベストを着用した石川良男牧師が現れ、寺尾を暖かく迎え入れてくれた。

石川:僕はね、大学時代ニューヨークで絵の勉強もしていたんですよ。そのころ、シュガー・ベイブ(山下達郎を中心に結成されたバンド。寺尾の父である寺尾次郎が参加)を延々聴いていてね。

石川良男(墨田聖書教会・牧師)
石川良男(墨田聖書教会・牧師)

ふと説教台のほうに目をやると、そこにはギターやキーボード、電子ドラムなどさまざまな楽器が並んでいる。石川さんはギターやウクレレの教室も持っているそうで、倉庫にはバンジョーやリュートなど無数の楽器も保管されている。

ちょっとユニークな下町の名物牧師――そんな印象の石川さんの実家は、教会の近所の鉄工所だ。10歳からこの教会に通いはじめたそうで、「ウチに一番近くて、子供にもわかる言葉で神様のことを説明してくれるのはここだけだったんですよ。それから毎週通うようになって、いつのまにか牧師になっちゃったんです(笑)」と話す。

「この教会にも48年通っているので、どこに穴が空いてるのかも全部知ってますよ(笑)。この空間って子供のころから不思議と落ち着くんですよね」という石川さんの言葉に、寺尾も「確かにお腹のなかにいるような感じがしますよね」と同意する。

左から:石川良男、寺尾紗穂

墨田聖書教会の歴史を紐解いていくと、そこには1922年にドイツのシュトゥットガルトから渡ってきたひとりの宣教師の存在が浮かび上がる。彼女の名前はゲルトルード・キュックリヒ。教会からも目と鼻の先の鐘ヶ淵で彼女が伝道をはじめた際、教会の裏に住んでいた町田国五郎さんが洗礼を受け、クリスチャンになったという。町田さんは地元での教会の必要性を感じ、戦後来日したコリンズ宣教師と協力してこの地に教会を開いた。それが墨田聖書教会だったという。石川さんはこう話す。

石川:キュックリヒさんはすごく苦労されたみたいで、教会に火を点けられたり、いろんなことがあったみたいですね。ただ、戦後間もなく教会の人たちが助けてくれたことを覚えている人もいて、キュックリヒさんのことを知ってるというお年寄りもいます。

クリスチャンじゃないんですけど、賛美歌を歌えるんですよ。貧しい時代だっただけに、豊かなものをもらったいい思い出があるようですね。

石川良男

キュックリヒは戦後、埼玉県加須市の太田飛行場跡に戦災孤児収容施設「愛泉寮」を創立。現在でも乳児院や老人ホームも経営する社会福祉法人「愛の泉」として存続している。

「キュックリヒさんのことは気になりましたね」――寺尾は取材後にそう話す。

寺尾:彼女は加須に移って子供たちの施設を開いていますが、東東京で大量に生まれたはずの戦災孤児たちがどういう形で育っていったのか、教会やお寺も支援に大いに関係していると思うので、調べていきたいと思います。

左から:寺尾紗穂、清宮陵一

寺尾の曽祖父の兄はプロテスタントの牧師だったそうで、アメリカから帰国後、北海道の旭川の教会で牧師をした後、東京・吉祥寺で幼稚園を開いたそうだ。そんなこともあってか、寺尾は以前から地域社会における教会の役割について関心があったという。墨田の歴史と寺尾家の歴史が不思議な形で重なり合いはじめた。

そうやって墨田の各所にこぼれ落ちた一つひとつの声を拾い集めはじめた寺尾。まだまだリサーチははじまったばかりだが、今回の対話を通じて彼女の好奇心はにわかに刺激されたようだ。

寺尾:皮革産業の人々の声、東東京におけるキリスト教、戦災孤児たちのこと。そして直接絡むかはわかりませんが、在日の人々のことも気になります。ただ、「テーマとしてこれを深めたい」と最初から絞って聞きこんでいくよりは、出会いのなかでいろんな話を聞いて、気になるものを調べ込んでいくほうがスリリングだと思いますね。

今回のプロジェクトのスタート地点には、「BLOOMING EAST」を通じて現代の共生のあり方を考えていきたい、という清宮の視点に対する寺尾の共感があった。自身が呼びかけ人となったイベント『りんりんふぇす』をはじめ、寺尾もさまざまな実践を通じてそのあり方を探ってきたが、音楽やアートはそのなかでどのような役割を果たすことができるのだろうか。寺尾は自身の考えをこう話してくれた。

寺尾:普段は忘れているようなことを人に思い起こさせる力が音楽にはあると思います。たとえばライブやイベントでそういう思いが共有される時間というのは一瞬だったりするわけですが、そのとき一人ひとりのなかに宿った思いは残っていく。そういうことの継続が、社会における共生というテーマであったり、「ともに生きる」「補い合って生きる」「互いを気にかけて認める」というような感覚とともに少しずつ広まっていってほしいと思っているんです。

種を蒔くように水をやるように、さまざまな場へ「花」を咲かせていくプロジェクト――それが「BLOOMING EAST」の根源的なテーマである。今まさに蒔かれたばかりの種は少しずつ発芽し、いずれ美しい花を咲かせるはずだ。そのときをのんびりと待ち続けたい。

寺尾紗穂

プロジェクト情報
「BLOOMING EAST x 寺尾紗穂 リサーチ」

本リサーチは、これからも続きます。今後も東東京を軸にして、多様な価値観や文化と出会いながらプロジェクトを進めていくにあたって、お話を伺わせていただける方や訪問場所についての情報を募集しています。主に東京の東側で、戦災孤児に関する情報、戦前からあるキリスト教教会に関する情報をお持ちの方は、メールにてお寄せください。

プロフィール
寺尾紗穂 (てらお さほ)

1981年11月7日生まれ。東京出身。大学時代に結成したバンドThousands Birdies' Legsでボーカル、作詞作曲を務める傍ら、弾き語りの活動を始める。2007年ピアノ弾き語りによるメジャーデビューアルバム「御身」が各方面で話題になり,坂本龍一や大貫妙子らから賛辞が寄せられる。大林宣彦監督作品「転校生 さよならあなた」の主題歌を担当した他、CM、エッセイの分野でも活躍中。2014年11月公開の安藤桃子監督作品「0.5ミリ」(安藤サクラ主演)に主題歌を提供している。2009年よりビッグイシューサポートライブ「りんりんふぇす」を主催。10年続けることを目標に取り組んでいる。著書に「評伝 川島芳子」(文春新書)「愛し、日々」(天然文庫)「原発労働者」(講談社現代文庫)「南洋と私」(リトルモア)がある。



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