アートにとって苦難の時代を『岡山芸術交流』から考えてみる

パメラ・ローゼンクランツ(撮影:Ola Rindal)

アートとカルチャーにとって苦難の時代だ。

すでに大きく報じられているが、『あいちトリエンナーレ2019』へ文化庁からの補助金約7800万円が電撃的に打ち切られた。『表現の不自由展・その後』にかかわる諸問題などトリエンナーレ側の不手際もあるとはいえ(しかし、それらへの指摘は甚だ理不尽で無慈悲なものだ)、これが将来的な検閲や自己規制を助長する可能性はきわめて高く、その予兆もすでに現れはじめている。

例えば日本とオーストリアの国交150年を記念して、ウィーンで開催されている展覧会『JAPAN UNLIMITED』にて、在オーストリア日本大使館が開催後に公認を取り消すという出来事が起きた。アーティストが総理大臣をまねて演説する映像作品など、現在の日本の政治状況にかかわる出品作が含まれていたことが取り消しの理由とされているが、政治や社会や民族の問題をアートが扱うことを「重大な問題」と即断され、権力からなんらかのペナルティや罰則を課せられるような状況がもし訪れたとすれば、私たちがこれまで親しんできた表現やカルチャーの多くが、そう遠くない時期に「危険なもの」として日本から排除されてしまうだろう。

そんなダウナーな予感を抱えながら新幹線に飛び乗って向かったのは、桃太郎で有名な岡山県岡山市。9月27日に始まった『岡山芸術交流2019』は、3年にいちど行われる国際現代美術展で、2016年の第1回は、コミュニケーションを促す場そのものを作品とするイギリスの作家リアム・ギリックによるかなり難解で歯ごたえのあるキュレーションが話題になった。それこそ「現代アートって難しいですよね……」と眉間にシワが寄りそうな内容であったにもかかわらずこれが実現したのは、現代アートコレクターとして知られる石川康晴(ストライプインターナショナル社長)の熱意による。アートを支えるのは国ばかりではないのだ。

二度目の開催となる今回の岡山芸術交流は、フランスの人気作家ピエール・ユイグをアーティスティックディレクターに迎えた。「IF THE SNAKE もし蛇が」という謎めいたタイトルを掲げた同芸術祭を訪ねた。

展覧会全体をひとつの生命体として捉えた「IF THE SNAKE もし蛇が」

展覧会「IF THE SNAKE もし蛇が」は独立したひとつの生命体である。それは異なる種類の知的生命形態や化学的、生物学的、アルゴリズム的過程の異種混交に添うように航行する。この特定の設定の存在がもつひとつひとつの特徴は、それぞれの共存状況の条件ゆえに先天的にダイナミックな性質を備えており、偶発的な連続性のモードとして果てしなく成長していく。

ユイグ自筆の、このかなり難解なステートメントに頭を悩ませるかもしれないが、とにかくまずは展示会場に跳び込んでみよう。旧内山下小学校→林原美術館→岡山城→旭川沿い→旧福岡醤油建物→岡山県天神山文化プラザなどなど……と、逆時計回りに円を描くような移動が私の選んだ鑑賞ルートだが、最初の旧内山下小学校に足を踏み入れた瞬間、彼の意図がするりと理解できたような気がした。

旧城跡の上に建つ同小学校の校庭には小さな丘が造成され、その中央には奇妙なかたちのオブジェがひとつ。エティエンヌ・シャンボーの『微積分/石』は、あの有名なロダンの『考える人』の彫刻から「人」の部分を取り除いたものだ。

エティエンヌ・シャンボーの『微積分/石』(撮影:Masayuki Saito)

あたかも台座を残して神隠しにあってしまったような考える人の行く末に思いを馳せていると、小さな丘のむこうから4~5人の歌う男女がゆっくりとこちらに歩いてくる。「ミュウミュウミュ~」「ポンポンポン……」といった鳥のさえずりのような聴き覚えのない歌を奏でる謎めいた旅団は、そのまま筆者の横を通り過ぎ、今度はプールの方向へと向かっていった。これはティノ・セーガルの新作(タイトル不明)。写真・動画の撮影を一切認めず、作品が記録として残ることを断固拒否するこのアーティストは、美術館やギャラリーなどの空間にさまざまなパフォーマンスをインストールすることで知られる作家だ。今回は、この展覧会に出品する他のアーティストたちの作品に歌やダンスで介入し、そのたびに作品と作品のあいだに「状況」を発生させることをミッションとしているそうで、会期中このようなパフォーマンスをずっと続けるそうだ。ある作品から、また別の作品へと。渡り鳥のように移動し続ける彼らが、まるで作品同士を結びつける触媒のように感じられる。そして思い出すのは、先ほどのユイグの言葉。

展覧会「もし蛇が」は独立した一つの生命体である。(略)ダイナミックな性質を備えており、偶発的な連続性のモードとして果てしなく成長していく。

そう。ユイグはこの展覧会全体をひとつの生命体、あるいは巨大な作品としてとらえている。ポンプである心臓が血液を循環させ、体内の諸器官を結ぶことで、人間の生命が蠢き続けるように、岡山市の一角で行われるこの展覧会は、ひとつの生命として期間中息づくのだ。つまり「もし蛇が」とは、「もし(岡山市がひとつの)蛇」だったとしたら? という問いかけを含んでいるのだろう。

ユイグによる、異なる作品が集まり大きな「生態系」を作り出す試み

このひとつの見立てを得た瞬間、筆者にとっての展覧会の様相は一変した。例えば、同じく旧内山下小学校の校舎全体を使ったファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニの「反転資本」シリーズでは、校内に残された黒板の落書きや、「元気 やる気 思いやり」と書かれた微笑ましい学校の標語、かつて生徒たちが作ったとおぼしき人型のオブジェなどとともに、アーティストが設置した作品が設置されている。それらは何本ものホースや壁に穿たれた穴で緩やかに結ばれ、架空の未来世界をかたち作っているかのようだ。

ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニの「反転資本」シリーズ(Photo:Ola Rindal)

あるいは2階の教室に置かれた実験器具のような『タイトル未定』では、ユイグが提供した水槽に、マシュー・バーニー(ビョークの元夫!)がエッチングを施した銅板を沈めるという、アーティストコラボというかたちでの協働・共生を示しているが、よく見るとカブトガニやノコギリイッカクガニが遊歩する水槽の底が最初に見た校庭の丘にそっくりであることに気づく。SF小説では「自分たちの生きる宇宙がじつは無数にあるちっぽけな箱庭のひとつでしかなかったのだ……!」といった衝撃の展開がしばしば起こるが、まるでその再現のようではないか。

マシュー・バーニー&ピエール・ユイグ『タイトル未定』(Photo:Ola Rindal)

このような異なる複数の作品がひとつの空間と時間を共有し、大きな「生態系」を作り出す試みをユイグは自身の展覧会でも試してきたが、今回のように自分以外の作家の作品でそれを作り出すことはなかった。できあがった展覧会を見て、彼は何を思っているのだろう?

ユイグのミッションは「アーティストが持ち寄ったアイデアが損なわれず、影響しあえる可塑的なプラットフォームを作ること」

―小学校や美術館など、岡山市の風景と共鳴するような作品が選ばれていることが印象的でした。

ユイグ:いろんな言い方ができるので迷いますが……。できるだけ作品自体がオントロジー(存在することへの問い)、自然との関係性、余白を生む多孔性、時間の継続性の意識を持つものを選びました。旭川の伏流水を引いて作品の冷却に使うメリッサ・ダビン&アーロン・ダビッドソンの『遅延線』などは、まさにそうですね。それから校舎の丘は作品ではないのですが、私自身が毎日、用務員のおじさんのように整地して作ったもので、その地形的な凹凸によって鑑賞体験のダイナミズムを生み出そうとしています。もともとあった風景を取り込むものもあれば、こちらから積極的に介入し、足していったものもある。そうやって観客の体験をナビゲートすることを考えていました。

ピエール・ユイグ(Photo:Taiichi Yamada)

―特にヨーロッパで議論されている地球の気候変動、あるいは人間以外・人間以降の存在について思考するポストヒューマンの問題を感じさせる作品も多くありますね。

ユイグ:そうですね。林原美術館の、ティノ・セーガル『アン・リー』と、イアン・チェンの『BOB(信念の容れ物)』などはわかりやすいでしょうか。前者は私とフィリップ・パレーノが始めたプロジェクトにセーガルに参加してもらったもので、もともと私たちが日本の企業から著作権を買い取った少女のキャラクターをモチーフに、さまざまなアーティストに二次創作としての新作を作ってもらって少女に新しい命を与えるというシリーズです。セーガルは、日本人俳優を使ってアン・リーを演じさせていますが、今回、その隣のスペースにはチェンが作った人工知能のデジタル生命「BOB」を置いています。

―孤独なアン・リーに、デジタル世界の友人を与えるようでチャーミングな空間でした(笑)。

ユイグ:結果を意識して配置することはあまりなかったです。ふとした瞬間に起こる偶然性が、いちばん大事にしたいものですから。それを起こすのが多孔性や余白であり、変化に対してオープンであろうとする作家個々のマインドです。

今回、私はアーティスティック・ディレクターという役を担いましたが、何かを強いるようなピラミッド構造のヒエラルキーを作りたくありませんでした。なるべくフラットな関係のなかでフィードバックを起こそうとした結果が、この空間なのだと思います。アーティストそれぞれが持ち寄ったアイデアや世界観が損なわれず、しかし、影響しあったり変化しあえるような可塑的なプラットフォームを作ることが、今回の私のミッションだということです。

2018年に開発された、まったく新しい分子の香りが漂う

『もし蛇が』は、他の国際芸術祭と比べると規模の大きなものではない。旧内山下小学校を中心にしてぐるりと一周すれば、3時間ほどでひととおり見ることができる。例えば、正午あたりに到着して軽くご飯を食べたあと、ちょっとの眠気と気だるさを抱えながら夕方までの散歩のような気持ちで歩くのもよいだろう。そんな、まどろみの感覚、夢のような感覚に、この芸術祭は心地よく満たされている。

そういえば、いくつかの会場で感じた実験室のような臭気も作品なのだという。シーン・ラスペットとツェン・シェンピンの『越香©(2-ベンジル-1、3-ジオキサン-5-オン)』は、2018年に開発されたまったく新しい分子の香りなのだそうだ。その未知の香りを感じるたびに想起したのは筒井康隆のSF小説『時をかける少女』のことで、同作に登場する未来人は、未来で採取できなくなったラベンダーを得るために現代へとやって来たのだった。そんなSF的なイマジネーションは『もし蛇が』にとてもよく似合っている。

現実社会の緊張をほぐすのも「アートだからできること」のひとつ

冒頭で述べた一件以来、アートを取り巻くさまざまな状況が、一気に政治色を帯びてきたのがこの数か月だった。もちろん、これまでの日本の文化環境があまりに政治や歴史に対してナイーブだったことは否めないし、例えば「Jアート」という不名誉な呼び名でアーティストや美術関係者が揶揄されるのも仕方ないところはあるよな、と、この世界で長年働いている自分ですら思う。しかし、いっぽうで現実からの創造的な跳躍や、シニカルな世界の見方を通して、現実社会の緊張をほぐすのも「アートだからできること」のひとつだ。ユイグがキュレーションした今年の『岡山芸術交流』は、そのことを思い出させてくれたように思う。インタビューのなかで「まるでマッサージのような展覧会でした」とユイグに伝えると、少し真剣な表情で彼はこう付け加えた。

ユイグ:それはとても嬉しい感想です。たしかに私や、今回参加してくれたアーティストたちのポリシーは直接的な主題に政治を扱うわけではありません。けれども、作品の作り方やアプローチの仕方が政治的なのだと思っています。いま日本では、文化庁の補助金不交付など、重大な事件が起きていると聞いています。そういった状況に対しては2つのやり方があると思います。

直接的に、いちばん最前線に立ってデモをする方法もある。同時に、作品自体が持つ政治性によって訴えていく方法もあります。私自身が過去の作品で使った犬や微生物といった小さな生物、あるいはとても大きなランドスケープも、そのすべてが政治的だと思っています。ですから、この2つの方法は共存できるはずなんです。

夢のような『岡山芸術交流2019』の時間を過ごし、新幹線で帰途につく私は、同時に現実への帰還を促されているようにも感じていた。

ユイグへのインタビューの直前に観た最後の作品、リリー・レイノー=ドゥヴァールのパフォーマンスは、市内の写真館を映画の撮影スタジオに見立て、イタリアの名匠ピエル・パオロ・パゾリーニの生前最後のインタビュー現場を再現するものだった。

リリー・レイノー=ドゥヴァール(撮影:Taiichi Yamada)

人間が滅んだあとの架空世界を見せるような芸術祭において、はじめて会話可能な人間と接したのがこのパフォーマンスであっただけに「現実」の重みを私は感じたのだが、同時に意味深だったのは、1975年11月1日に収録されたこのインタビューの翌日に、パゾリーニは何者か(一説ではネオファシスト勢力が犯人だとされている)の暴行を受け、殺害されたことだ。

エログロ・スカトロ描写に満ちた『ソドムの市』を発表して物議をかもすなど、スキャンダラスな人生を歩んだパゾリーニだったが、そういった表現活動が、当時のイタリアで吹き荒れていたファシズム的な時勢に対する彼なりの抵抗だったことはよく知られている。哲学的で憂鬱さを漂わせたインタビューのなかで、彼は翌日に訪れる死の運命を半ば予見していたかのような発言をしているが、当時のイタリアの状況や、パゾリーニの心境に想いを馳せると、否応なく2019年現在の「いま」の現実が頭をよぎる。そんな私の感想に対するユイグの返答を紹介して、このレポートを終えよう。

ユイグ:誰でもパゾリーニでありえるし、彼を殺害した犯人にもなりえることが、リリーの作品のポイントなのだと思います。あなたがおっしゃるように、彼女の作品が展覧会のなかで観客にハッとさせる、現実の政治的なものに引き戻すような力を持っているならば、それは私にとっても嬉しいことです。

イベント情報
『岡山芸術交流2019 IF THE SNAKE もし蛇が』

2019年9月27日(金)~11月24日(日)
会場:旧内山下小学校、旧福岡醤油建物、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、岡山城、シネマ・クレール丸の内、林原美術館ほか市内各所
休館日:月曜日
開催時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)



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