谷口ジロー『神々の山嶺』の長編アニメ化に挑んだ仏監督が語る。影響源や日仏の自然観の違い

1923年、2度目のエベレスト登頂に失敗したイギリス人登山家ジョージ・マロリーにニューヨーク・タイムズの記者が、「なぜエベレストに登るのか?」と尋ねると、彼が「そこにあるからだ」と答えたのは有名な逸話である。続けてマロリーは、「エベレストは世界で最も高い山であり、(当時)誰もその頂上に到達したことがない。存在そのものが挑戦なのである。その答えは本能的なものだが、宇宙を征服したいという人間の欲望の一部なのだろう」と答えたとされる。その翌年、3度目のエベレスト登頂に挑んだ彼らが帰還することはなかった。

なぜ命の危険を冒してまで登るのか。不可解な衝動に対する約100年前のこの問いに、1994年から小説『神々の山嶺』を執筆した夢枕獏、そして2000年からそれを漫画化した谷口ジローも魅了された。マロリーとパートナーのアンドリュー・アーヴィンは、人類で初めてエベレスト登頂を成し遂げたのかもしれない──登山界で語り継がれるこの伝説から着想を得て、独自の解釈で登攀(とうはん)にまつわる物語を創作したのである。

2001年に『第5回文化庁メディア芸術祭』マンガ部門優秀賞を授与された谷口の漫画『神々の山嶺』は、フランスでも高く評価され、2005年には「漫画界のカンヌ」と呼ばれる『アングレーム国際漫画祭』で最優秀デッサン賞を受賞、現在までにフランス語版は累計38万部以上を売り上げている。

このたび、その漫画をもとにフランスでアニメーション映画化。舞台となる東京の街並みから山々の風景まで精巧に再現し、無駄を省いたストーリーテリングで男二人の関係に焦点を当て、エベレスト山頂に挑む探求を描いた。広大な山のワイドショットのなかで人間の微小さが際立てられ、嵐や吹雪が容赦なく襲いかかる冬山の畏怖を表現した本作は、フランスで300以上の劇場で公開され13万人を超える動員を記録、『第47回セザール賞』ではアニメーション映画賞受賞を果たした。

誰も達成していない単独での冬季無酸素登頂に挑む羽生と、それに同行する深町。いつしか深町はスクープよりも孤独に生きる寡黙な羽生の山への執念に惹かれていく。危険な山登りに挑戦する登攀は、未踏の領域を制覇したい願望、あるいは人間の飽くなき充足感や好奇心の表れなのかもしれない。初単独監督作として、アニメーションで本格的な山岳映画に挑戦したパトリック・インバートにZoomインタビューを敢行。話は日本とフランスの自然観の違いや、原作と異なる人物像の背景から、フランスのアニメ制作環境までおよんだ。

フランス語版のタイトルに少し不満も? 監督が感じた、フランスと日本の自然観や「神」の概念の違い

─もともと谷口ジローさんの作品や『神々の山嶺』の漫画について、どんな印象を持っていましたか? 以前、2018年の長編アニメ『ザ・タワー』(※)のフランス人プロデューサーが、近年史実をもとにした大人向けのグラフィックノベルやアニメーションが増えており、フランスでは谷口ジローさんの作品も人気だと発言されていたのを覚えています。

※難民問題を描いたノルウェー、フランス、スウェーデン合作のアニメーション映画

インバート:フランスでは、谷口ジローさんはグラフィックの漫画家というよりも作家として知名度が高く、芸術家として高い評価を得ています。『神々の山嶺』の原作漫画も深みのある精緻な人物描写にとりわけ驚かされました。

今回は彼の作品が原作であることで、もともと漫画を読んでいた方々や彼のファンに観に来ていただけるため、予算的につくりやすい部分は多少なりともありました。

─谷口ジローさんはこのプロジェクトに対して好意的だったと伺いました。脚本と下絵を見られたそうですが、実際に彼からどのような反応がありましたか。

インバート:残念ながら私自身は谷口ジローさんにお会いすることは叶いませんでしたが、このプロジェクトが持ち上がった当初、プロデューサーが彼とお会いできました。絵コンテと脚本をお見せしたところ、彼は喜んでくださったと聞いています。

谷口さん自身もさまざまな原作を漫画にするという作業を多くされてきた方なので、脚色することや映画化することの苦労をよく理解されていると思います。私たちを信頼してくださって、すべて私たちの自由にさせてくれました。そのことに感謝しています。

『神々の山嶺』予告編

─映画化するうえで、舞台を日本からフランスに移植しようとは考えなかったでしょうか。フランスから見た日本の特異性、例えばアニミズム的な自然と人間の関係など、日本の作品を翻案する際に注目した点や、配慮した部分があれば教えてください。

インバート:原作で描かれている神道的な自然観、そして人々が自然とどう関わっているかという日本的なアニミズムの側面に魅力を感じました。そのような日本的な要素をフランスに置き換えることはできない。なので、映画でもそのまま日本を舞台にして描くことを決めました。ただ、アニミズムという概念自体がヨーロッパやフランスにはあまり馴染みがないので、精神的な部分よりは自然と人間の関係といった普遍的なテーマの方に焦点を当てています。

インバート:日仏の考え方の違いは、例えば映画のタイトルにも表れています。フランス版のタイトル『Le Sommet des Dieux』は、『神々の山嶺』という原題を直訳したものですが、じつは、私はこの訳にちょっと不満を持っているんです。

「神」といえば、日本では精神的な意味での神様が存在するかと思いますが、フランスでは「神様(Dieu)」とは具体的に髭を生やしたあの人物を意味します。アニミズム、あるいは神に対して、ヨーロッパと日本とではとらえ方がまったく違うのです。フランス語のタイトルでももう少し精神性までイメージしてもらいたかったので、私はこの原題そのままの訳にあまり満足はしていないのですが、日本とヨーロッパ、あるいはフランスとの文化の違いが大きいので、そこまでは難しかったのかもしれないですね。

山で家族を失った遺族の視点。山登りをしている者の家族を描かずして、登山の世界を描くことはできないと考えた

─本作はジョージ・マロリーのエベレスト登頂の謎が軸になっていますが、映画はミステリーの解答を与えることには関心を寄せていませんね。この物語、あるいは羽生と深町の関係のどのような側面に魅力を感じましたか。

インバート:原作の漫画を読んで、登場人物それぞれに感情移入ができ、共感を覚えることができました。最後は羽生にあまりにも共感してしまい、本当に感銘を受けました。

漫画ではミステリーの答えがはっきり示されるようなかたちになっていますが、たしかに映画ではその答えを見せる必要はないと私は考えました。誰が最初に登頂に成功したかは重要ではない。それよりも高みを征服したいという人生の普遍的な概念、ただ登る過程そのものが大事であることを描きたかったのです。なので、あえて最後の答えの部分を具体的に描かないようにしました。

─羽生の後輩で彼との登攀中に事故に遭った岸文太郎の姉である涼子は、「つねに高い山を目指し続けるのはなんのためか」と疑問を呈します。登山家ではないあなたにとって、遺族である彼女のそのような視点を取り入れることも意味のあることでしたか。

インバート:この部分について触れていただけるのがとても嬉しいです。ありがとうございます。というのも、涼子という人物は、私そのものだと思っているのです。

原作の漫画では涼子の人物像はまったく違ったかたちで描かれているのですが、私は、山登りをしている者の家族を描かずして登山の世界を描くことはできないと考えていました。登山家はつねに死と隣り合わせで、いつ死が襲ってくるかわからない状況のなかで生きている。彼女を通じて、残された者の痛みにも目を向けたかった。命を賭けた登山というものを描くためには、遺族の側を描く必要もあると判断したのです。なので、涼子を原作とは異なる人物に仕上げました。彼女には私自身が思っていることを代弁してもらいました。

─先日、『FLEE フリー』(2021年)の監督ヨナス・ポヘール・ラスムセンにインタビューした際(※)、子ども向けに誇張することに慣れたアニメーターたちに感情表現を抑えてもらうようにするのに苦労したと話していました。本作もリアリズムが重視されていますが、難しさはありましたか。どのような表現を望んでいたでしょうか。

※「親友が初めて明かした壮絶な難民の経験。『FLEE』監督はアニメと実写でいかに映画化したのか」(記事を読む

インバート:まさに彼と私はまったく同じ問題に直面したといえます。アニメーターは、アニメーションをつくるときに、例えばディズニー映画のように、たくさん絵を使ってキャラクターを大きく動かしたい衝動に駆られる傾向にあると思います。しかし今回は、写実的なタッチを志向していたため、表情や動作で感情すべてを伝えようとすると逆におかしなことになってしまう。やりすぎると全体が台無しになってしまうので、実際の人間と同じような微妙なニュアンスを求めて、動きについてはアニメーターたちとよく話し合いを重ねました。

ただ、最近は、若いアニメーターたちのあいだでは日本のアニメーションを参考に、何か含みのあるような表現で描く写実的な手法がちょっとしたトレンドになりつつあるとも感じています。

ベッヒャー夫妻や小津安二郎などにインスピレーションを受けて生まれた映像美

─近年はクライミングのドキュメンタリーもよくつくられていますが、平面的な2Dアニメーションを採用するうえで、その強みはどういったところに見出せると考えましたか。

インバート:今回は2Dアニメーションを採用しましたが、最近は山の風景を撮るときにヘリコプターやドローンを使って旋回する3Dの映像が多く使われていますよね。3Dで行なわれるドローン撮影のような映像は2Dではできない。ならば、2Dの弱みではなく、2Dでしか描けないバランスや奥行きを求めて考え方や見方をまったく変える必要があると判断しました。そのために、特に風景と人物の構図について、より深く考えなければなりませんでした。

─深町の部屋にはスタジオジブリや松本大洋などの本がありますね。あなたにとって日本のアニメーションはどのような存在ですか。本作と日本のアニメーションで、何か違いを持たせようとした部分もありましたか。

インバート:私の世代は、フランスにおいて、日本のアニメーションから影響を受けて育った最初の世代だといえると思います。その後も日本のアニメーションはもちろん大好きで、その時代ごとにさまざまな影響を受けてきました。個人的には、特に高畑勲さんから非常に感銘と影響を受けました。アニメーションの世界で仕事をする者として、アニメ大国日本から学ぶことはたくさんあります。

しかし今回、映画監督としてこの作品に携わるにあたっては、日本のアニメーション、あるいは谷口さんの漫画をそのままコピーのように似せてつくるのではなく、自分自身の考えなども反映されるように独自のやり方でつくりたいと思いました。光と色については、むしろ日本のアニメーションより、写真やグラフィックからの影響のほうが強かったように思います。

─具体的にはどういった写真や作品からインスピレーションを得たのでしょうか。

インバート:デュッセルドルフ美術アカデミーの写真学科で教鞭を執り、若いフォトグラファーにも多くの影響を与えているドイツの写真家ベッヒャー夫妻の光の使い方がとても参考になりました。それから映画では、『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)での撮影監督エマニュエル・ルベツキによる自然の扱い方も参考にしました。

また、1960年代の日本を描くうえで、小津安二郎のカラー映画、特に『お早よう』(1959年)の色の美しさや強いシーンの描き方からも影響を受けました。私のオリジナリティーにさまざまな作品からの影響を少しずつ入れ混ぜたものになっていると思います。

フランスのアニメ制作の労働環境は? 国からの補助金制度も

─本作はNetflixが世界配信権を獲得しましたが、それはこの映画にどのような効果をもたらしたと考えていますか。フランスでは映画館の興行を守るために配信への規制が強いイメージがありますが、コロナ以降、その状況に変化は見られますか。

インバート:『神々の山嶺』は昨年の11月より、主にフランスと日本を除いた国々でNetflixで配信されるようになりましたが、本作に関しては、タイミング的にそれほど影響は受けてはいないと思います。おっしゃる通り、フランスでは規則が厳しく、ひとつの映画がまずは劇場で公開され、それからネット上に配信されるというふうに順番が決まっており、劇場で公開しなければならない期間も定まっています。ただ、いまの世界的な状況を鑑みてなるべくバランスを取ろうともしていて、劇場での公開が優先的ではあるけれど、その期間を少し短くしようという動きになってきています。

フランスではパンデミックの影響で、コロナ以前の劇場入場者数にはまだ戻っていないのが現状です。劇場は、アメリカのエンターテイメント性の高いブロックバスター映画やアメコミ映画のおかげでなんとか維持できているともいえますが、今後の動向に対しては、まだまだ恐れや心配を持っていると思います。

─最後に、フランスのアニメーション制作環境についても聞かせてください。日本ではアニメ業界の長時間労働や低賃金などが問題視されていますが、フランスでは社会保障制度が整備されているようですね。実際にどのような労働環境で制作が行なわれているか、またなぜそれが可能となっているか教えてください。

インバート:フランスでは、例えばスタジオでの労働時間など、さまざまな労働基準が細かく規定されています。日本のアニメ界の労働問題について少し聞いたことがありますが、特殊な業界なのではないかと想像します。

フランスではアニメ界においても、給与の規則や労働の条件がいろいろと決まっています。社会保障というより、失業手当が充実しているのですが、芸術家、特に文化的な活動において、一定期間仕事がないときは国から補助金が支給される制度も整備されています。それによってフランス国内のアニメーションのみならず、芸術文化の振興が妨げられないような措置が取られているのです。そのあたりは日本とフランスでは違うのかもしれませんね。

また、アメリカとも異なり、フランスの場合は市場や商業的な背景ではなく、芸術を振興しようという意図で国からの補助金が出ています。そのため、芸術的な多様性や豊かさがより尊重され、それがいまのフランスの芸術文化の振興につながっていると思っています。

作品情報
『神々の山嶺』

2022年7月8日(金)から新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開

監督:パトリック・インバート
原作:作・夢枕獏 画・谷口ジロー『神々の山嶺』(集英社)
声の出演:
堀内賢雄
大塚明夫
逢坂良太
今井麻美
配給:ロングライド、東京テアトル
プロフィール
パトリック・インバート
パトリック・インバート

映画監督、アニメーター。数多くのテレビシリーズに携わり、映画『アヴリルと奇妙な世界』、『くまのアーネストおじさんととセレスティーヌ』ではアニメーション監修を担当した。2018年には、『とてもいじわるなキツネと仲間たち』をバンジャマン・レネールと共同監督し、『セザール賞』にて長編アニメーション賞を受賞した。



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