折坂悠太がたむけた3つの歌。コロナ禍に惑う社会、人々の心へ

折坂悠太の新曲“トーチ”は、新型コロナウイルスによって揺れる世界の様相を驚くべき精度でキャプチャーしている。この歌は今、どんな意味を持っているのだろうか? 折坂悠太という歌い人は、この歌に何を託しているのだろうか? CINRA.NETでは、折坂悠太関連の取材を手がけてきたライター大石始の力を借りて、合評形式でその核心部分に迫る。

「折坂悠太が“トーチ”でぶち破ったもの。自身の歌と社会との距離を慎重に測っていた彼の選択」テキスト:大石始

2020年4月1日、折坂悠太の新曲“トーチ”が配信限定でリリースされた。この曲は昨年行われた折坂の弾き語りツーマンツアー『折坂悠太のツーと言えばカー2019』にbutajiが参加した際に作られた楽曲で、作詞を折坂が、作曲をbutajiが担当。ツーマンツアー以降も両者のライブでたびたび披露され、音源化が待ち望まれていた楽曲だ。だが、新型コロナウイルスが猛威を振るう現在、この曲は作られた当初と別の意味を持つようになった。<街はもう変わり果てて / 光も暮らしもない夜に / お前だけだ その夜に / あんなに笑っていた奴は>という冒頭のフレーズは、まるでコロナ危機以降に書かれたかのような生々しさがある。

また、今年に入ってからの折坂は新たなバンド編成でのライブ活動を本格化しており、昨年までとは異なるフェーズに入りつつあった。今回はその新バンドとの録音に加え、butajiとの弾き語りバージョンも合わせてリリースされた。“トーチ”にはそのように社会の現状と折坂自身の変化が重ね合わされている。我々の生活が危機に晒されている今、折坂は何を見つめ、何を歌おうとしているのだろうか?

折坂悠太(おりさか ゆうた)
平成元年、鳥取県生まれのシンガーソングライター。独特の歌唱法にして、ブルーズ、民族音楽、ジャズなどにも通じたセンスを持ち合わせながら、それをポップスとして消化した稀有なシンガー。

まず、近年の折坂の歩みを整理しておこう。2018年10月、折坂は彼にとって2枚目のフルアルバムとなる『平成』をリリース。各メディアで高い評価を得た。私小説的ともいえるこの作品について、折坂はCINRA.NETのインタビューでこのように答えている。

これまでのアルバムではこの世にいない人や、まだ生まれていない人、もしくは自然に対して歌っているような感覚があったんですけど、今回のアルバムに関してはいま生きている自分であるとか、顔が見える人たちのことを歌おうと思った。
「折坂悠太という異能の歌い人、終わりゆく平成へのたむけを歌う」より

折坂悠太『平成』を聴く(Apple Musicはこちら

ここで折坂が語る「顔が見える人たち」とは、各地をツアーすることで出会った人々のことを指している。それまでの折坂は(宇多田ヒカルが絶賛した“あさま”に象徴されるように)スケッチのように特定の情景を描き出し、過去 / 現代あるいは常世 / 現世という境界線上の歌を紡いでいたともいえる。だが、『平成』においての折坂は実在の他者に向けて歌い、彼らが生きる場所について歌っている。

『平成』というアルバムを初めて聴いたとき、どこか浮世離れたところもあった折坂悠太というシンガーソングライターが、突然生身で目の前に現れたような感覚を覚えたのは筆者だけではないだろう。

折坂悠太『平成』収録曲

2019年3月には“抱擁”“櫂”という2曲を配信でリリース。足元の世界とそこに渦巻くものに言葉を与えた『平成』に対し、軽やかなガットギターのストロークに導かれた“抱擁”と“櫂”は、新たな世界へと飛び立つ希望に満ち溢れている。

同年7月にはドラマ『監察医 朝顔』の主題歌ともなった“朝顔”を発表して一躍その名を広く知られるようになると、松井文、夜久一との「のろしレコード」としてアルバム『OOPTH』をリリース(関連記事:のろしレコードと生活の歌 折坂悠太ら3人が考える、歌とは何ぞ?)。1年を通して振り幅の広い活動を展開した。

のろしレコード『OOPTH』収録曲

今回配信リリースされた“トーチ”は、暗闇に1本の松明を灯すという「希望」についての歌であり、基本的には“抱擁”“櫂”以降の作風に連なるものといえるだろう。だが、これまでと決定的に異なるのは、折坂がここで「社会」を歌おうとしているということだ。

『平成』の段階で折坂は自身の歌や発言が社会性を帯びることに対し、極めて慎重になっていた。実際、先のインタビューでは「僕、Twitterでも政権批判の投稿をする寸前までいくんですけど、最終的にはいつも投稿できないんです。『俺の表現はそこじゃないだろ』という意識がどこかにあるんでしょうね」とも発言している。

だが、この“トーチ”は、ある種の政治性も秘めている。冒頭にも書いたようにこの歌はコロナ危機の前に書かれたものだが、「私」と「お前」「あの子」を巡る物語からは、孤立と分断に対する折坂の意識を伺い知ることもできるだろう。“トーチ”は私たちの半径1メートルの暮らしがそのまま社会と地続きになった世界についての歌であり、ここでの折坂は社会と政治について歌おうとしている。僕にはそう思えてならないのだ。

「感情を押し鎮め、コロナ危機以降も捉える“トーチ”。現状への怒りを強烈に表明した“Wadachi2020”」

YouTubeに公開された“トーチ”のミュージックビデオの概要欄には、日本語・英語・中国語・韓国語という4か国語による歌詞が掲載されている。

<絞り出した一言は / 遠くの国の言葉だった / いませんか この中に / あの子の言うこと わかる者は>という一節は、ここからさらに分断が加速していくであろうコロナ危機以降の世界にも向けられている。

“トーチ”を共に作り上げたbutajiは、韓国のイ・ランとのライブ配信企画『2020年友達のビデオ通信』を3月25日に実施。折坂もゲスト出演している。国境を越えて形成された繋がりを今後も維持していこうという彼らの強い意志をそこから見てとることができる。“トーチ”に刻み込まれた言葉とメロディーは、彼らのそうした活動とも根底で響き合っている(関連記事:butajiが語る、自らが何者かを知って。愛のあり方は多様でいい)。

折坂悠太&butaji“トーチ (二人きり)”を聴く(Apple Musicはこちら

“トーチ”以上に、現在の折坂のスタンスがはっきりと示されているのが、SoundCloudに突如アップされた“Wadachi2020”なる楽曲である。これは2016年の1stアルバム『たむけ』収録曲“轍”の新録バージョン。歌詞も大幅に改変されているが、折坂がここまではっきりと怒りを言葉に表したのは初めてではないだろうか。

繰り返される<もう我慢できない>というフレーズには、折坂がリユニオンコンサートに参加したJAGATARAの名曲“もうがまんできない”(1987年)からの影響も伺えるが、ともかく、折坂はもう我慢しないのである。自身の殻を破り、生き物としての本能的な叫び声を上げる折坂の姿がここには映し出されている。

最後に“トーチ”における音楽面の変化についても触れておきたい。なによりも重要なのは、この曲が京都在住メンバーによる重奏編成と共に演奏されているということだ。メンバーは山内弘太(Gt)、宮田あずみ(Cb)、yatchi(Pf)、senoo ricky(Dr,Cho)。

昨年末、東京の新木場STUDIO COASTで行った重奏編成でのライブを観たが、そこでの折坂は昨年までのバンド編成で築き上げてきたしなやかなグルーヴを一度捨て、異質感を含む歪な音を作り出そうとしているようにも思えた。そうした新たなバンドのかたちは、3月27日に配信された重奏編成でのライブ動画『(((どうぞ)))』でも伺い知ることができたが、“トーチ”のバンド録音にもはっきりと現れている。

折坂悠太“トーチ”を聴く(Apple Musicはこちら

ここでの重奏の演奏は決して一気に燃え盛ることなく、チリチリと揺れる青い炎のような静けさを秘めている。折坂の歌もまた、自身の感情を押し鎮めるかのように抑制の効いた歌唱を聴かせる。ここにあるのは、ドラマティックな展開をバンド全体で回避していくような慎重さだ。コロナ危機で社会全体が混乱に陥るなか、共感を元にした安っぽい感動を生み出すのは容易いことだろう。だが、折坂と重奏はこの楽曲をそのように消費されることに対して、必死に抗っているようにも思える。その態度は実に誠実なもので、それゆえに心の奥底に深い余韻を残すのだ。

4月7日、折坂はSoundCloudに新たな楽曲をアップした。わらべうた“おちゃをのみに”のカバーである。<おちゃをのみにきてください はい こんにちは / いろいろおせわになりました はい さようなら>という、たったそれだけの小曲。だが、友人宅にお茶を飲みに行くことすらままならない現在、この歌をSoundCloudにアップするという行為そのものが政治的ともいえる。あたりまえの暮らしが危機に晒されている今、折坂は日々の暮らしを歌う。今まで以上に生々しく、剥き出しのままに。

「今、心の置きどころがわからなくなっている人のために。“トーチ”という歌に込められた可能性」テキスト:山元翔一(CINRA.NET編集部)

2020年4月1日、私はこの日発表された“トーチ”と“トーチ (二人きり)”しか聴くことができなかった。救われる思いがして、どこまでも異常な混乱した日々のなかで、言葉にはならないものを代わりに昇華してもらった心地だった。この文章を書いている今も、その理由をずっと考えている。あの日以降、“トーチ”という歌は私にとって特別なものであり続けている。

この記事の公開された2020年4月現在、ウイルスという目に見えないものを相手に、自分が知らず知らずに加害者になって、最悪の場合、誰かを死に追いやってしまう可能性のある状況で、気を張り巡らせ、家族や友人、恋人など、自分の身の回りのことを思うだけでも精一杯なのに、現実として世界中で大勢の人々が亡くなっていて、医療従事者や専門家の方々が昼夜問わず力を尽くしてくれているが、政治や経済、社会保障などあらゆるところに問題が山積みで……と、まったく見通しも立たない気の沈むばかりの日々に、心の置きどころがわからなくなってしまっている人も少なくないのではないだろうか。自分の素朴な気持ちを口にすることすらも、どこかはばかられるような気がする。何より、私自身がそうだ。

このコロナ禍は、人の心にどのような影響を与えているのだろうかと考えてみる。怒りたい気持ち、ただただ悲嘆に暮れたい気持ち、急速に変化していく周囲の環境に不安を感じて仕方ない気持ち、何かできることはないだろうかと焦る気持ち、1日でも早い収束を祈ってばかりの虚しい気持ち、無力感に苛まれる気持ち、こんな日々でも心だけはいつもどおりに落ち着いて過ごしたい気持ち……そういった無数の感情が混ざり合って混乱し、消耗していたことに気づくのさえ、私はしばらく時間がかかった。“トーチ”という歌は、そんなふうに新型コロナウイルスに翻弄されている人たちに不思議なルートを辿って浸透して、無自覚に溜め込んでいたものを浄化させるような、あるいは置きどころを失ってしまった心を受け止めてくれるような、そんな力を持っているように思う。

こんなときだからこそ、音楽というものが持つ素朴な力を多くの人が身近に実感するのではないか。私はそう考えている。音楽の力で世界を変えることはできないかもしれないけど、きっと聴き手一人ひとりの心や生活に作用するはずだと信じている。それは、ほんの一瞬気持ちが楽になったというような小さなことかもしれない。でも、それが積み重なったらどうだろう? そんなふうに考えてしまうのは、理想主義がすぎると自分でも思う。

だが同時に、私は“トーチ”に超感覚的な可能性を感じている。この社会が、あるいは人間という生きもの自体が抱えている困難を乗り越えることができると、思慮深く、音楽ならではの鮮やかな跳躍力で聴き手に訴えているのではないかと、私には思えてならない。この歌に込められたものを受け止め、考え、伝えること。それが編集者として今の自分にできることなのではないかと思い、この企画を立ち上げた次第だ。

「『私』『お前』『あの子』によって紡がれる物語の真意を考える。折坂悠太とbutajiが“トーチに”託したもの」

私は初めて“トーチ”を聴いたとき、「私」と「お前」、そして「あの子」によって紡がれるこの歌に、この世界の、もっと具体的に言うと、この不条理な日本社会への、怒りを代弁してもらったような心地がした。“トーチ”に続く形で公開された“Wadachi2020”で<命あるものの / その命一つ / 守る気ないなら / お上など辞めろ>と歌ったうえに、アートワークに布マスク2枚を配することで現政権への怒りを表明したことからも、折坂のなかに私が受け止めたような意図もあったと考えるのは、それなりに妥当性のあることであろう。

でも私は、“トーチ”という歌はもっと大きな可能性を秘めていると考えている。「台風などの自然災害を題材に制作した」と折坂悠太のオフィシャルサイトに記載されているように、この曲は昨年10月に日本を襲った台風19号の惨禍を受けて書かれたものだ。「この街」を舞台に、「その夜」「あの夜」「その朝」という3つの場面が設けられ、「私」「お前」「あの子」という3人の登場人物をめぐった歌詞の構成から、私はあることを直感的に思い出した。台風19号が猛威を振るう最中、避難所に訪れた路上生活者たちが受け入れ拒否の目に遭ったことだ。

人道的に、また基本的人権の考えに則って、受け入れ拒否をすることなどあってはならないのは自明で、でもだからこそ思うのは、「自分があの日、避難所の窓口担当だったら、彼らのことを寸分の迷いなく受け入れる判断をしただろうか?」ということ。立つ場所が変われば、視点も変わり、それに伴って考え方も抱く感情も当然変わる。それはこの歌の世界にも当てはまると言って差し支えないはずだし、だからこそ私は、“トーチ”という歌に登場する「私」「お前」「あの子」のどれもが、聴き手自身のことを指しているのではないかと考えている。

私がそう考える根拠は、この楽曲のポリフォニックな構成そのものにある。“トーチ”の歌詞を読み解くと、文学批評でいうところの「ポリフォニー」を形成していることがわかる(ポリフォニーとは「多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態」のこと。廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』[中公新書] P.76より)。どういうことかというと、1番、2番、3番の歌の主体である「私」は必ずしも一貫して同じ人物というわけではない、と考えているのだ。それは、作曲者であるbutajiもメインボーカルを執る“トーチ (二人きり)“のボーカル(=「声」)の移り変わりに着目するとわかりやすい。

折坂悠太&butaji“トーチ (二人きり)”を聴く(Apple Musicはこちら

butajiがメインボーカルを務める2番の歌い出しは、<絞り出した一言は / 遠くの国の言葉だった / いませんか この中に / あの子の言うこと わかる者は>というもの。butajiがメインで歌うパートには、この歌で一貫して使われている「この街」という言葉が登場しないし、さらに「その朝」という場面が登場するのはここだけだ。もしかするとこのパートだけ、まったく違う時間軸の、まったく違う場面のことを歌っているのかもしれない。そんな可能性が浮上する。

そう考えると、異国の地で声を絞り出した「あの子」は、この歌に登場する「私」や「お前」かもしれないし、もっというと聴き手自身のことかもしれない、と解釈することもできる。そういった可能性を踏まえると、言葉の通じない場所で誰とも通じ合えない「あの子」や言い得ない思いで涙をこらえる「私」の存在は、聴き手にとって全く他人事ではないものとして迫ってくる。

折坂がメインを務めるパートについて、<お前だけだ あの夜に / あんなに笑っていた奴は>という一節の「お前」が仮に筆者自身であったとしたらどうだろうかと考えてみる。この歌で描かれる「お前」は、一見すると「私」から非難され、「私」に「こんな思い」をさせている人物のように思えるが、「お前」がなぜ笑っていたのかは説明されない。あくまでも可能性に過ぎないが、「お前」という人物は、怒りに震えるあまり笑っているのかもしれないし、あるいはアーサー・フレックのように気が狂って笑っているのかもしれない(映画『ジョーカー』が公開されたのは2019年10月4日で、台風19号が日本列島を襲った約1週間前のことだ)。

その可能性のうえでは、聴き手には「私」だけでなく「お前」にすら思いを重ねる余地が生まれるし、「私」が抱いた「こんな思い」も解釈の幅がぐんと広がる。気が触れて笑うことしかできない「お前」に、「私」はどんな思いを抱くであろうか? そうやって多様な読解ができる余白を生み出し、歌が内包する可能性を押し広げているのは、折坂やbutajiが感情を押し鎮めるかのように歌っていることも非常に大きいように思う。“トーチ (二人きり)“をカップリングした2曲入りシングルとして発表したのは、こういったポリフォニックな構成を引き立たせる意図もあったのかもしれない。私はそう考えている。

折坂とbutajiの歌声は、それぞれ独自性を保ったまま複雑にからまりあい、不思議な響きを持つハーモニーを形成している。また2人の声が重なる箇所では、「この夜」なのか「あの夜」なのかはっきり聴きとれないようになっている。それらの声のあり方は、多様な意見を持つ個人が、ときに協調しあい、ときに衝突しあいながら生きるこの世界そのもののようではないか。立場が変われば「声」も変わるし、それぞれの事情やバックグラウンドがあるということに思いを馳せれば、この世界でたったひとつの絶対的な正義の存在を声高に主張するのは難しい。そんなことを、ひとつの物語と歌と楽器で表現しているのが、この“トーチ”という歌なのだと私は捉えている。

かといってこの歌は、「人それぞれ、他人は他人」と分断と無理解・無関心を促すものでも決してない。それは“トーチ (二人きり)”の最後のパートで、折坂とbutajiの声がユニゾンで重なっていることからも明らかだろう。異なる意見を、異なる声を持つもの同士でも、立場が違ったとしても私たちは手を取りあうことができるし、そうすることでこの世界を変えることができるかもしれない。そんな私たち人類の可能性を、聴き手に超感覚的に提示しているのが“トーチ”という歌なのではないか。この歌には、折坂悠太とbutajiの強い意志が託されているように思えてならない。コロナウイルスによって人々が物理的にも精神的にも引き裂かれている今、“トーチ”という歌の内包する可能性こそが、私たちをよりよい未来に導く灯火なのだと信じている。

リリース情報
折坂悠太
『トーチ』

2020年4月1日(水)配信

1. トーチ
2. トーチ (二人きり) / 折坂悠太&butaji

折坂悠太
『めめ live recording H31.04.03-04』(CD)

2020年3月27日(金)発売
価格:1,500円(税込)
ORSK-009

1. take 13
2. 道
3. 揺れる
4. 荼毘
5. 茜
6. 夜学
7. よるべ

プロフィール
折坂悠太
折坂悠太 (おりさか ゆうた)

平成元年、鳥取県生まれのシンガーソングライター。幼少期をロシアやイランで過ごし、帰国後は千葉県に移る。2013年よりギター弾き語りでライヴ活動を開始。2018年10月には2ndアルバム『平成』をリリース、CDショップ大賞を受賞するなど各所で高い評価を得る。2019年7月クールのフジテレビ系月曜9時枠ドラマ「監察医 朝顔」主題歌としてシングル『朝顔』を発表。独特の歌唱法にして、ブルーズ、民族音楽、ジャズなどにも通じたセンスを持ち合わせながら、それをポップスとして消化した稀有なシンガー。



フィードバック 0

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Music
  • 折坂悠太がたむけた3つの歌。コロナ禍に惑う社会、人々の心へ

Special Feature

Habitable World──これからの「文化的な生活」

気候変動や環境破壊の進行によって、人間の暮らしや生態系が脅威に晒されているなか、これからの「文化的な生活」のあり方とはどういうものなのだろうか?
すでに行動している人々に学びながら、これからの暮らしを考える。

記事一覧へ

JOB

これからの企業を彩る9つのバッヂ認証システム

グリーンカンパニー

グリーンカンパニーについて
グリーンカンパニーについて