「フジワラノリ化」論 −必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考− 第4回 関根麻里 其の四 「性格良さそう」という風説について

其の四 「性格良さそう」という風説について

「an・an」の特集タイトルからは、今、世の女性がこうなろうとしている、目指す所へ意志表明を感じ取ることが出来る。「選ばれる女の条件」「『おひとりさま』で生きてくつもり?」「印象美人度3割アップ!」「愛され心理テクニック184」「“プレミア感”を身につけたい」「男が愛しやすい女vs愛しづらい女」、ざっとこの半年を振り返ってみたが、これらのタイトルに共通するのは、男カモンッ!という速効性を望む欲を振りまいて待ってみるのではなく、アタシが捕まえにいくわよっ、とエンジンを吹かすわけでもない。とりあえず待つのだ。何ていうか、動かずにそれでも積極的に待つのだ。着飾るよりも着飾られるのを待つのだ。例えがっついても、がっついている所は隠すのだ。だから着飾られろ選ばれろ、「an・an」はそう促すのである。菅野美穂になりたい、深津絵里になりたい、「なれるもんなら誰になりたい」との問いに女子はやたらとそう答える。安室ちゃんには「カッコいい」と言うし、倖田來未に対する「エロかっこいい」という造語の字間に「なりたい」という懇願はあんまり感じられなかった。

目指すとか羨ましいとか憧れとか、そういった一直線なラインではなくて、「なれるもんならなりたい菅野美穂」という意欲が不思議なのは、具体的に追いつく為にはエロかっこいいの誰それより圧倒的に距離があるはずなんだけれども、何となくそこら辺に漂っているものを掴みにかかっているような気がしている所だ。それは何故か。「性格良さそう」という印象論に裏付けられているからなのである。印象論なのに、裏付けなのだ。その蔓延が彼女達を(幸か不幸かは別にして)目標に据え置かせるのではないか。菅野美穂と深津絵里というのは、自然体である。で、僕は今、自然体と書いてみたけども、ところで自然体とは何かと問われた時に、貴方は答えられるだろうか。気取らない、ということか。しかし、深津絵里の気取らない瞬間というのを連発で味わった経験が無い。気取らない、にしても、それはやはり「気取らなそう」に過ぎないのだ。

だってあの人性格悪そうじゃん、という言い方でタレントなりを切り捨てる会話に何度も出くわす。あの人性格悪いから、というのであれば納得する。しかし、あくまでも悪そう、という推測なのである。しかし、その推測は伝播する。性格悪そうという推測がいつのまにか強固になる。性格悪そうよねっ、と吐き捨てる。推測なのに吐き捨てる。実際にそういうジャッジで芸能人のランクが定まっていくのだから、その遡上に乗らないように心がけるのが当人たちに求められる嗜みなのだろうか。

第4回 関根麻里

メディアに露出しすぎないというのは一つの戦略である。それは同時に(「an・an」が特集を組むように)“プレミア感”を作り上げる、見事に。たまにバラエティに降りてくる時は、ドラマの宣伝に限る。降りてきています、という称号無しには降りないのだ。深津絵里や菅野美穂の出方が正にそれだ。女子寄りでウロチョロしておくことも大事だ。冒頭の特集タイトルが示す通りに、思いのほかあんまり自分からは動くべきではないのである。愛するのではなく、愛されなければならない。となると、男子方面へ歩み寄っていくアイドル然とした上戸彩や堀北真希あたりが、「性格悪そう」の格好の標的となる。多分、男子には、深津絵里よりも上戸彩のほうが愛されるのだ。しかし、「そう」とか「っぽい」の世界の会話に、実際どうこうは関係がない。むしろ実際の所が反転させられる。小池栄子や井川遥のような、グラビア・バラエティから女優タレント業への逆流が安定感を放っているが、これは逆説的に、女優からバラエティに下っていくことへの監視が強烈に働いていることも意味している。国境が一方通行状態にある。ロンドンブーツの番組で、格付け番付という企画があるが、あの企画が最終的に見せるものは「この人、実は性格良さそう」なのである。だからタレントが出たがるのだ。あんた実は腹黒いでしょう、あんたこそ男遊びが激しそう、「そう」の応戦を視聴者が吟味する。善玉か悪玉か、その論争をこちらではなく画面の中でやりあってくれると、視聴者は次にその中から肯定できそうな人を選んでいく。青木さやかや青田典子が、実は……から始まるポジティブさに支えられているように。

ここでようやく関根麻里の登場だ。彼女は同世代女子からの「性格良さそう」に支えられてはいない。しかし、「性格悪そう」に潰されているわけでもない。「そう」判断世代が関根麻里をほっぽらかしにしているかとなればそんなこともない。前々回述べたように関根麻里には司会業という特待が用意されているが、ドラマにも出れば、もちろんバラエティにも出る。あの「プレイボーイ」誌で水着グラビアまでやっている。ジャッジされる場面に幾度と晒されているのだ。それでも「性格悪そう」を回避し続けてきた。回避し続ければ本来は「性格良さそう」の印を押されるはずなのだが、その気配もない。議論が前回に戻ってしまうが、「息子の嫁」であることが大きいのだろう。今回の題目で言い換えるならば、「性格良さそう、と思われている人」なのである。関根麻里を観た自分がどうこう思うではなく、誰かがそう思っているだろうという、間接性の中での肯定なのだ。だからこそ関根麻里は自由に泳ぐ。性格良さそう、性格悪そうという不毛な二項対立が実際に人をいたぶっていく中で、この泳ぎ渡り方は貴重である。真似できるものではない。誰かが、性格良さそうと思っている、これが関根麻里なのだ。

次回は、「まとめ:関根麻里はどうすれば消えないのか」と題し、いよいよ関根麻里論をまとめにかかりたい。



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