「フジワラノリ化」論 第11回 小林聡美 「何気ない日常」の創造主 其の二 もたい、片桐、三谷……小林の周辺を固める「強力自然体」

其の二 もたい、片桐、三谷……小林の周辺を固める「強力自然体」

女性三人組というのは、「グータンヌーボ」がそうであるように、話の拡散っぷりが女性ならではの形で生まれる最たる状態ではないだろうか。彼氏の話が、近所に出来た100円ショップの品揃えの話になって、最近産まれた姪っ子の話に繋がって、彼氏の話に戻っていく。その強引な構成を、カラッと成り立たせてしまう阿吽の呼吸。しかし、それらはどうやら「阿吽」というほど絶妙なものでもないようで、幼き頃から大人びる女性同士の付き合いという歴戦を経ると、その場を何とない「阿吽」でやり過ごすことは、大した技法を必要とするものでもないらしい。傍から見ればかなり親しい友達に間違いないような状況でも、一歩離れた所で問えば、「いや別に話していただけ」とヒンヤリしている。男性にはなかなか無い芸当だ。男同士の、何の情も介在しない、ただ話していただけ、は存在しにくい。何かしらの共有に基づいている同士でないと、その3名や4名が同じテーブルに座る事はない。少なくとも、適度に盛り上がるなんて風景を作り出せやしない。

フィンランドで偶発的に出会い、食堂を共に営む事になった小林聡美ともたいまさこと片桐はいり、この演技のそれぞれは、他愛も無い話っぷりの構築が異常なまでに完璧に成されている。女性同士3人が集まれば、それなりに話は出来る。話がどこに散らかろうとも、どこかへ集結させていく事が出来る。自分は女性ではないので分からないが、その強かさ、淡々さが、ある瞬間に異化して、コミュニケーションの上でストレスとなる。「阿吽」や「他愛も無い」にも、深度があるのだ。この3人の会話をじっくりと見返してみた。台本がどうのこうの、という問題ではない。何故なら、問われるのは会話の内容ではなく、視線、間(ま)、全身の動き、声の大きさであり、それらをトータルで感じるということが、演技における会話だと思うからだ。感傷的な場面で号泣し、喜ばしい場面でニッコリガッツボーズをするのは、なんの技も付随しちゃいない。すなわち演技にあらず、となる。小林、もたい、片桐、この3人の会話を観直していて、思わずメモ帳に「強力自然体」と書きなぐった。自然体とは、本来、力を抜いた所に現れる状態を想起するが、彼女らの自然体は、体を引き締める筋肉質から導かれているような気がしたのだ。算法で自然体を成らせるのではなく、間(ま)と、そこで編み込まれる空気とで、場を絶対的なものに仕立てていく。小林聡美がキッチンにいる、片桐はいりがお客さんに水を出す、そこにもたいが戻ってくる。カランとドアを鳴らす音に反応して片桐が入り口を見る。その後で、1秒か2秒の間をおいて、小林がゆっくり顔をあげる。「あら、おかえりなさい」。いやはや言葉で適確に出来ないからこそ「阿吽」と言うのだろうが、阿吽がパーフェクトに整理されて場面が動いていく。

例えば、高校時代の友人と久しぶりに会ったとする。驚くほど自然に会話が成り立つだろう。それは自然な会話というよりも、呼吸法を思い出すという言い方が正しい。会話を乗っけていく、或いは誰かに会話を走らせる、途端に孤立させる、そこへ一斉攻撃する、会話の舵取りを全員が担えるのだ。お笑いのツッコミとボケこそ話術が最も洗練されたとする考え方もあるだろうが、小林・片桐・もたいのように、全員が投手・捕手・野手の役をこなすオールラウンドプレイヤーを、会話の賢者と見なすことも出来る。しかもこの映画の場合、その自然な会話を、会って間もないよそよそしさをどこかで滲ませながら続けなければならないのだから、この3人の会話の連なりには興奮を覚える。小林聡美が出演する映画・ドラマには、この2人が頻出する印象がある。もたいとは事務所が一緒という事情があるにせよ、キャスティングする側にも、完璧な3人から恒常的に生産される自然体に映画・ドラマそのものを委ねてしまいたい気持ちがあるのだろう。そこには、怠惰を感じなくはないが、明石家さんまに喋らせとけば場が持つだろう、というようなテンションと同様に、あの3人にやらせておけば「いい感じ」になるだろうという期待が注がれるのである。

「フジワラノリ化」論 第11回 小林聡美

小林聡美の旦那である三谷幸喜という存在もまた、強力自然体である。この人が、テレビに降りてくるのは映画のプロモーション時くらいだが、誰と接するにも敢えてコミュニケーション不全を装う。Aですか、Bですか、と問われて、3と答えるようなはぐらかし方を続けていく。しかし、その巧妙なズラし方をお茶目に回収していく術を心得ている。いつの間にか愛すべきキャラクターになっているのだから、全く手強い。小林との結婚会見で、腕を組んでくださいと言われた2人が、それを拒み、2人それぞれが腕を組んでフォトセッションに応じた、というのは、実に「らしい」エピソードである。夫婦生活の実態が伝わってこないのに、親近感だけは立ち上がって来る夫婦である。人が誰それ達を「理想の夫婦」と呼ぶ時、それはものすんごい前面に押し出されている円満を鵜呑みにしているわけだが、小林・三谷夫婦には、そういった表層の飾り付けによる攻めは無い。ここでもまた小林聡美は、「いい感じ」に収まっていくのである。各駅停車の駅の商店街をママチャリで疾走するような生臭さを回避しながら、小林聡美は良き奥さんであると誰しも疑わないのである。ああ、不思議である。



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