「フジワラノリ化」論 第12回 市原隼人 今、「熱血」という商売を問う 其の四 高橋克典に学ぶ、市原隼人の行方

其の四 高橋克典に学ぶ、市原隼人の行方

映画「ボックス!」の宣伝活動のために様々な番組に出てはプロモーションに勤しむ市原に向けられる視線が、ことごとく画一だと気付く。市原の「熱血」需要は今、ピークに達している。彼が出てきた瞬間、彼の熱血を即座に欲しがる。「このボクシングのシーンなんすけど、実際に本気で殴り合ってて、吐いてまで撮影続けたんす」と彼が言えば、番組は興奮の坩堝だ。それを待ってたっす、それこそ市原隼人っすよね、と、チワーッスなムードが流れていく。市原自身が市原隼人像を売り出すのを急かしているなと感じるのは、ここへ至らせる早さだ。自分に対して求められている何なのかが分かっていれば、それを番組の最初に出してしまっては勿体ない。真面目で熱いコメントを待望されているのであれば、ひとまず熱くも何ともないコメントでお茶を濁して、肝心な時にスイッチを入れて熱さを撒布していく。そのほうが効果的だ。自分で自分自身の特徴を稀少化していく。江頭2:50は自分の芸が飽きられないように、出る番組の質と量を慎重に選んでいると聞いたことがある。半裸・黒タイツで喚き散らすアレは確かに、胸焼けのしない程度の頻度で僕らの前に登場する。もういいよにならないのは、江頭自身が、江頭の連鎖や江頭の無理強いは江頭の寿命を削ると警戒しているからだろう。市原はまだその辺りまで思慮が至っていない。こういう市原隼人が欲しいという要望に瞬時に乗っかっていく。熱血ちょうだいとなれば熱血を差し出し、彼女への一途な愛をちょうだいとなれば、一途な愛を語り出す。今回のプロモーション出演の嵐で明らかになったのは、もはやその市原の瞬時の対応に対して、真面目なのね誠実なのねという親戚のオバさん目線から発動する称えは少数派になってしまっていて、むしろ、市原の揺るがない直球がすぐさま投げ出される様を見て失笑し、あ、ほんとに、市原隼人って、すぐにこうなるんだという、現物確認をした上での微笑する、この失笑と微笑に市原の役割が集約されてきているということ。誰も彼を馬鹿にしたりはしない。ただ、でも、あぁこの人は本当にこうなんだ、という確認を急かしたら所、即座に急かした返答を寄越してくる彼の誠実さをクスクス笑うのだ。抜群の感度を持つ有田哲平辺りは早速市原の物真似をして笑いをとる。物真似とは、ある類型を皆が共有し、その類型を模倣するからこそ、おかしさが生じるものだ。今や、市原が自分で作った類型はとても読まれやすい形で暴走しつつある。

親しい友人女子に、とにかく高橋克典が嫌いでしょうがないという女子がいる。今まで何度かその理由を問うてみたのだけれども、あまり明確な答えはもらえなかった。市原隼人はこのまま行けば高橋克典になってしまう、と読んでいる。その話を進めていく前に、高橋克典のどこが嫌なのか、改めて彼女にメールで問うてみた。箇条書きで、その理由を教えてくれた。一晩寝かしてくれたのか、翌朝メールが来た。そこには「かたちが悪い。面白くない。特徴がない。好きになる要素、見直してみたいと思えるような要素が全くない。」と書かれていた。これは高橋克典の解体であるとともに、ここから市原隼人との共通項を引っ張り出すことも出来そうだ。

高橋克典というのは、見た目のカロリーが高い。ステーキ屋に入った時のような、エネルギーの充満が、積極的に飛び出してくる。筋骨隆々、はだけたYシャツ、シャープな笑顔、控えめだが女子をうっとりさせる時だけ饒舌になる話法。しかし、そのそれぞれが正統的に機能することは無く、ある一定の距離を置かれた上で受け入れられた。それが「サラリーマン金太郎」であり、「特命係長 只野仁」である。当人の懸命が、受け手のコミカルになったのである。高橋克典はそれに気付いた時、開き直った。これが自分の受け入れられる道なのだと悟った彼は、その見た目のカロリーをそのままにして、食べやすいサイズにすべく気を配った。つまりサイコロステーキのように、受け手にあまり重くならないように、自らのカロリーを小出しにすることを覚えたのである。東幹久はサーロインステーキであろうとする志を失わない。高知東生はロードサイドのファミレスのステーキだろうか。つまり、油が悪い感じか。そんな中で高橋克典は、巧妙な切り取りによって、暑苦しさを受け入れてくれる需要を作り上げた。品質改善を図らないので飽きがきてしまったが、俳優として、勇敢な崩し方であったことは確かだ。

「フジワラノリ化」論 第12回 市原隼人

市原が作った類型がとても読みやすくなっていると書いた。状態だけを引っ張り出せば、高橋克典が茶の間に浸透していくあの頃の風景にとても似ている。真面目とマッチョが、少しばかりのクスクス笑いに運ばれて人気に転化していく様。うん、確かに似ている。ここで、高橋克典嫌いの彼女のメールを復習してみよう。復習すると共に、それを市原隼人にも投げかけてしまおう。「かたちが悪い。面白くない。特徴がない。好きになる要素、見直してみたいと思えるような要素が全くない。」つまり、彼女は、高橋の真面目とマッチョに向き合っても揺さぶりが全く生じない。石仏のように固まった白い歯笑顔のマッチョに、これ以上立ち入る可能性を残せない生理的嫌悪感を覚えている。市原隼人の現在は彼女が挙げた箇条書きに該当しないように見える。確かにそうだ。むしろ、皆、好きになる要素がてんこもりで、だからこそ彼から放たれる薄い人生論にも共鳴を許している。「ミュージックステーション」にRIZEと共に出演した市原はカメラに向かって「肩書きなんて忘れて人生楽しもうぜ」とライムした。薄い、どこまでも薄い。しかし、彼はまだその薄さを突つく言質の存在を知らない。いや、知っていたとしても「何言ってんだ、楽しもうぜ」で覆ってしまえると思っている。あらゆる否定を熱血で充足出来ると思っている。穴があけば熱血で塞ぎ、眠くなれば熱血で起こす。彼女は、要素が無い、と言った。そうなのだ、高橋克典には要素が無いのだ。それを高橋克典は早い段階で自覚したのだと思う。だから自らをサイコロステーキ化した。では市原隼人はどうか。そう、この人にも要素が無い。あるのは、再三再四の繰り返しになってしまうが、熱血だけだ。今の高橋克典は、間違っても人生論の類いを口にしたりしない。テレビに出れば、ある人にはキャーと言われ、ある人には鼻で笑われる、それを自覚している。金太郎や特命係長が終わろうとも、高橋克典というブランドが細々とキープされているのは、この高橋克典の自覚に在るのだ。市原隼人は高橋克典の道程を見つめるべきだ。諦めることで維持されるものがあるということを、市原隼人は学ぶ必要があるのではないか。でないと、市原隼人の熱血はある途端に受け取り先を失い、供給先を失った自家発電の高熱によってショートを起こし動かなくなる。高橋克典の崩し方には、そうならないためのヒントが含まれているのではなかろうか。すこし、感覚的で難しい論旨になってしまった。これをふまえて次回、市原隼人論をまとめていく。



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