網守将平と音楽問答。我々は「音楽そのもの」を聴いているのか?

「音楽を聴く」ということはどういった行為を指すのだろうか? 私たちは、日常的に音楽に接することが当たり前の社会を生きている。しかし、ときに私たちを踊らせ、ときに感動させているものは「音楽そのもの」ではないとしたら、あなたは何を考えるだろうか? 網守将平が11月21日にリリースした『パタミュージック』は、「『音楽を聴く』とはどういうことだろうか?」という問いを聴き手に投げかけている。

網守は、東京藝術大学音楽学部作曲科卒業、同大学院音楽研究科修士課程修了という経歴を持つ生粋のエリート。今、日本のポップフィールドでは、小田朋美、角銅真実、古川麦といったceroのサポートメンバーの面々や、King Gnuの常田大希といった東京藝術大学にゆかりのある音楽理論を修得したミュージシャンが頭角を現し、ポップとアカデミックの接近は、この国のポップミュージックの1つのトレンドとも言える状況が生まれつつある。

そういった状況がある一方で、社会学者・毛利嘉孝が本作を「宇宙人が作った音楽のようなもの」と評していることが象徴するように、網守の存在は極めて異質であるということを強調しておきたい。彼は一体どんな意図でこの『パタミュージック』を作り上げたのだろうか? 本稿では、エイリアンのような音楽家・網守将平との音楽問答をお届けする。

いろんな芸術文化に触れてきて、「音楽」ってものがちょっと変だなと思うんですよ。

—過去の網守さんのインタビューを見ると、経歴に質問が集中したものや、音楽的なバックグラウンドについて尋ねるものが多いですよね。もちろん、経歴にすごく説得力があるからだと思うんですけど。

網守:多いですね(笑)。

—でも、いただいた資料などを読むと、音楽以外の領域についてもかなり深く関心をお持ちなんだろうなと感じたんですよ。

網守:おっしゃるとおりで、僕自身、音楽だけをやってる意識はなくて、美術シーンとか演劇の人との交流のほうが、むしろミュージシャンとの交流よりも多いくらいです。

網守将平
網守将平

網守:ただそうはいっても、僕の活動は基本的に音楽に対する関心からスタートしているんです。それも、いわゆる「ジャンルを横断する」っていう感じではなくて、音楽が社会とどう関われるか、音楽にとって他の文化とは何なのかっていうことを考えていて、それが活動のベースにある。もっといえば、音楽家はもっと他の芸術領域に関わっていくべきだと思っていて。

—そう考えるのはなぜですか?

網守:単純にいろんな芸術文化に触れてきて、「音楽」ってものがちょっと変だなと思うんですよ。そもそも抽象的だし、これまで聴かれたり、作られたり、語られたりしているようで、音楽の謎ってまだまだ他の芸術より深いと思うんです。音楽を作るだけでは、その謎には迫れないという前提が僕の活動にはあります。

—歴史的にも、いろんな芸術家が、表現としての音楽の様態に憧れてきましたよね。たとえば、ワシリー・カンディンスキー(ロシア出身の画家、美術理論家)が音楽に刺激を受けて抽象絵画を描いたり。音楽が何かしら他の芸術からみて特異な存在であるっていう感覚は、多くの人が抱いてきた。

網守:そうですね。そういう歴史がある一方で、たとえばヤニス・クセナキス(ギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家、建築家)が、建築と音楽の創作を連関させ新たな具象性を目指しましたけど、実際に生まれてくる音楽は抽象度の高いワケのわからないものなんですよね。いろんな立場の人が音楽に憧れ、音楽が求められる場は歴史的にも社会的にも存在しているのに、うまくアプローチできないもどかしさをこういった例から感じているんです。

網守将平 

—そうしたなかで、網守さんは「人間に耳という奇妙な器官が備わっていること自体のヤバさを、音を通じて問題提起したい」という関心を持たれているそうですね。これはどういったことですか?

網守:まず僕の関心は、「いかに新しい音を聴くことができるか?」というところにあるんです。そして、それに対して自分の立場からアプローチしようとしたときに、人間には「耳がある」ってことに一度立ち返る必要性があるなと。ピュアに、音の情報を聴覚が認識する話をしたところで、その耳は何年か社会を生きてきた耳だし、社会的なコンテキストも背負っているわけじゃないですか。

—耳が社会的に何かしらの記憶を持ってしまっているっていうのは、よくわかります。完全にニュートラルな状態ではありえない。

網守:そう。そもそもの話、僕が音楽を作るにあたっては、「面白い音楽を作って届けたい」というところに関心はないんです。自分の音楽で感情を届けたいワケでもない。言い換えれば、何かを表現したり表象するために音楽をしているわけではなく、「実践」がベースにあると。「これをやったらどうなるかな?」っていう思考回路で、作品を作っています。

僕は、「そこに音楽がある」っていう状態をどうにかして提示したいと考えていて。

—耳を持ってることに立ち返る必要があるという立場は、今の社会における音楽や音のあり方に対して、何か疑問を感じることから来るのですか?

網守:今の社会では、聴取のためのインフラが整っているから、音楽は一般的なものとして捉えられていると思うんです。でも、逆にポップミュージックにおいては、民族音楽やアカデミックな音楽に比べて、我々が予想しているよりずっと早く絶滅する危機にあるんだろうなと実感する機会が多くて。

今回のアルバムでは、毛利(嘉孝)さんが解説を書いてくれたのですが、そのなかでヴェイパーウェイヴの話に触れているんですね。危機感の話はそこともつながっていて、問題意識で言えば、音楽の絶滅を食い止める、みたいな意図でやっているところもあります。

網守将平
毛利嘉孝による『パタミュージック』の解説を読む(サイトを開く

—毛利さんはヴェイパーウェイヴの特徴について、「音楽が終わったあとの音楽、人々が音楽に何の感情も動かさなくなった時代の音楽」だと書いていますよね。そうした音楽様式が登場した時代に、音楽の危機を感じると?

網守:感じますね。音楽が、ただの情報、1つの面みたいな状態になったんだなと。

—音楽が記号的に消費されているというか、身体が伴ってない感覚はありますよね。最近はストリーミングサービスの普及もあってか、音楽の聴かれ方がどこか気持ち悪いと感じることもあります。

網守:そういう状況がある一方で、僕は、「そこに音楽がある」っていう状態をどうにかして提示したいと考えていて。たとえば、音が出る「場」から考えたり、音が出る「もの」から考えたりするサウンドアートもそうですけど、それとはまた違った方法で「音楽がある、そしてそれを聴いている耳がある」っていう状態を知覚させたい、多くの人に音や音楽を知覚させたいというか。僕がやっているのは、それを「音楽」で目指す実践ですね。

網守将平によるインスタレーション『Broken Silencer』

—わかりやすい言い方をしてしまうと、ただのノリや身体的な心地よさに染まった聴取から、音や音楽そのものを解放したいということですか?

網守:平たい言い方をすると、そうなると思います。ただ、そういう実験をいわゆる「実験音楽」的にやってもしょうがないんですよね。今回、実際に作品を作るとなったときに、「前衛」とか、「実験」とはまったく別のことをしないとダメだなと思ったんです。本当にちゃぶ台返しみたいなことなんですけど、それを実践してみて、聴いた人がそれを音楽だと信じられるか? っていうことをやっています。

僕の場合は音楽そのものを目指す前に、問題提起を経由することをしているんです。

—網守さんは東京藝術大学の出身ですが、その環境から考えると突然変異的な存在だと思うんです。藝大は基本的に、音楽の存在を当然の前提としたうえで、古いものを受け継ぎ、新しいものが作られる場所だと思うので。

網守:まあ、音楽っていうのはそういう世界ですよね。近代以降から……でも近代以降しか我々は知らないから、そうなだけかもしれないし。在学中、授業とかはちゃんと受けていたほうなんですけど、純粋に作曲で食ってくことを目指す、みたいな道には興味がなくなっていったんですよね。藝大時代はむしろ、アーティストの大和田俊くんとか、詩人の松井茂さんとか、そのほか美術系の人たちと交流するようになって、そのうえで「音楽とは?」みたいなことをひたすら考えるようになるんです。

—むしろ、美術方面の人脈のなかで、現在の関心が大きく育まれたと。いっぽう、最近ceroのサポートメンバーやKing Gnuの常田大希さんなど、ポップミュージック方面で藝大出身のアカデミックな教養を持った方々が頭角を現してもいますね。この動きは少し興味深いなと感じているのですが。

網守:ああ。それは僕には直接関係ないと思うので、自分を棚に上げて言いますけど(笑)、ポップミュージック側が音楽理論を求めはじめたんだと思います。さっきの絶滅危惧みたいな話とつながってくると思うんですけど、西洋の音楽理論をより精緻に取り入れて、発展せざるをえなくなってきたっていう実情があるのかもしれないなと。

新しいテクノロジーの登場によって音響が生まれ、その結果として新しいシーンが生まれる、みたいな歴史の進行ができなくなってきてるから、別の技術をポップミュージックとしては取り入れたくなったんじゃないかと思うんです。そこで目をつけたのが音楽理論だった。でもその裏には、ハブとしてのジャズの存在が大きいと思っていて。そもそもジャズって、黒人音楽と西洋音楽の理論が結びついて生まれたものでもあるので、成り立ち上、どう考えてもポップミュージックとアカデミックな音楽のハブになりやすいんです。

網守将平

—それらが、近年のポップミュージックを進化させるエンジンになっているというのは、面白い指摘ですね。

網守:ただ、逆に僕からすると、そもそも音楽理論を修得してないポップミュージシャンはどうして音楽を作れるんだろうという興味と憧れがあるんです。たとえば、坂本龍一さんがかつて細野晴臣さんに対して得た感動ってそういうことだと思っていて。なので、ポップミュージシャンの人が、西洋理論を求めることに懐疑的というか、もったいないなとも思っちゃいます。もちろん聴き方は自由なので、そこで豊かになってると感じる人がいれば、それはそれでいいんですけど。

—棚に上げてと言われましたが、網守さんも教養を持ちつつ、ある種のポップさを志向してるわけで、要素だけ見たら近い部分もあると思うんです。そこに違いがあるとすれば、ご自身のなかでは何だと考えますか?

網守:音楽そのものを目的にやっていないってことですかね。僕の場合は音楽そのものを目指す前に、問題提起を経由することをしているんです。

アートシーンで音楽を作るときでも、広告の音楽を作るときでも、音楽が「音楽それ自体」として扱われることはほぼない。

—実際、『パタミュージック』では、楽曲単体で見ると1曲のなかでテンポが絶え間なく変わったり、作品単位で見ると、どうしてこの曲の次にこの曲があるんだろうと感じさせるところがずいぶんありますよね。

網守:そうですね。ある曲が流れて、でもその曲がなかったかのように振る舞われたりするんですよね。普通に聴いていると、「この人、何がやりたいんだろう?」って感じさせるところがある。今回はそこまでいかないとダメだなって思ったんですよね。

そういう性質を概念として名づけると、「パタ」(パタフィジック。形而上学の領域を超えたところにあるものを研究するために使われる哲学のこと。現代科学の理論・方法のパロディーで、ナンセンスな言い回しで表されることが多い)なのかなと。

—そのためか、今作はとてもポップな面を持ちつつも、同時にかなり咀嚼しづらい音楽にもなっていますね。うまく着地しがたい音楽というか。

網守:そうだと思いますね。この作品を作るにあたって、カンタン・メイヤスーという哲学者が提唱した思弁的実在論みたいなものに影響を受けていて。つまり、「いい音楽だと思っていたものが、全然いい音楽ではないんじゃないか?」ということや、「実験のようにも聞こえるけど普通のポップスなのでは?」みたいな可能性のことなんですけど。そういうことを聴き手が考えることができたら最高だなと思うんです。

—ただ気持ちよかったり、「感動」させることに特化した音楽も多いなかで、網守さんの制作の手つきには、音楽への独特の距離感を感じます。

網守:もちろん、「この曲が気持ちいい」というふうに感じてもらってもいいし、そこは自由なんですけど、聴いた人が変な感覚になるような仕掛けはいくつか盛り込んだつもりですね。ただ、それをやっていて怖かったのは、音楽をバカにしているんじゃないかと思われることで。そういう一面もあってか、僕は全然ミュージシャンの友達とかいないんです(笑)。

ミュージシャンの人は、音楽をストレートに愛して、音楽への愛を表現するみたいなことがありますよね。「それこそ音楽だ」みたいな部分がある。あるいは一緒に演奏して、ぴったり合ったときの快楽を求めたり。それは僕もわかるんです。でも、そういう「共有」だけが音楽なんだろうか? コミュニケーションとか社会性だけが音楽なのか? と。じゃあ、ここで鳴っている音楽というのは何なのか? そういうことに僕は関心があるんです。

網守将平

網守:アートシーンで音楽を作るときでも、広告の音楽を作るときでも、音楽が「音楽それ自体」として扱われることはほぼないと思うんです。そこではじつは、行われているコミュニケーションや社会への影響が音楽だとされているような、そう感じられることが多い。それはミュージシャンと話していてもそうです。じゃあ、「音楽自体」は果たして音楽じゃないのか? 音楽とは何なのか? ということを、僕の場合は考えてしまうんです。

一般社会における音楽というものは、社会を知覚するためのインターフェイスなんです。

—面白いのは、音楽を突き放している、ある意味では音楽家から怒られてしまうような音楽の使い方をしている網守さんが、じつはもっとも真摯に音楽を考えるための場を作ろうとしているのかもしれないことですね。

網守:社会での音楽の作られ方を見ると、音楽を作ることはどこか社会的ストラクチャー / コンテキストのなかにおける抽象的なコミュニケーションであって、「友達作り」とかと一緒に見えるんですよね。

言ってしまえば、一般社会における音楽というものは、社会を知覚するためのインターフェイスなんです。そういうあり方があってもいいと思うけど、僕の場合は、「であれば、一体何が音楽なのか?」ということを考えたくなる。だから『パタミュージック』では、それを過剰にデフォルメして「音楽は存在しない」という仮定をスタート地点にしてみたんですよ。やっぱり音楽をインターフェイスと見なすことには納得できないんです。

—ただ、ちょっと話がズレますが、インターフェイスとしての音楽でも、たとえば最近のビヨンセの音楽やパフォーマンスは、もうジャーナリズムの域にありますよね。あれはポップスの新しい使い方になっていて、網守さんが語るのとは別の意味での「実践」になっていると思うんですね(参考記事:ビヨンセがコーチェラで魅せた「Beychella」の歴史的意義。紋章を解読 / ビヨンセとJAY-Zによるルーヴル美術館ジャックと「黒人の身体」への眼差し)。

網守:そう思います。めちゃくちゃテクニカルなインターフェイスだと思いますね、音楽も、ビヨンセ自身も。あれができる土壌やバックグラウンドがあることがすごいですし。とはいえ、僕はアーティストとしてアルバム作品を発表してますけど、基本的にエンターテイナーじゃないんですよね。ミュージシャンというよりも作曲家で、根本的に裏方の人間という意識があります。

網守将平

—たしかに言葉ひとつとっても、網守さんが使われる言葉と、これまで取材してきたミュージシャンが使う言葉は、何かが決定的に違うと感じます。

網守:エンターテイナーの人はものすごく鋭敏なアンテナで状況を察知して、作品を通じてこの世界に別の状況を作り出すワケなんですけど、根本的な生理感覚として、僕は普段の仕事は頼まれてやっている部分があって。そういう場で興味が出てきたことを、アート界の仲間たちといろいろやってみるという。だから、ミュージシャンと言葉が違うのは、僕が生理的にはアーティストじゃないからなんでしょうね。やっぱり否応なく耳が社会に組み込まれている。

—音楽から見ても、美術から見ても、ちょっと異質な存在ですよね。

網守:そうかもしれないですね。だから大変ですよ、めっちゃ(笑)。どっちにも片足ずつ突っ込んでる感じですけど、考え方ではやっぱり美術の影響は大きくて。たとえば最近で言えば、インディペンデントキュレーターの長谷川新くんが昨年10月に企画した『不純物と免疫』という展示は、共感する部分が多かったですね。

—今回のアルバムに入っている“デカダンユートピア”は、あの展示のタイアップ曲でもあるそうですね。

網守:あの展示のコンセプトは、自分の純粋性を守ろうとしても否応なく社会はあるということを「免疫」、そういう状況下でも純粋に機能してしまうある種の作品のようなものを「不純物」と呼ぶ、というようなことだったと思うんですね。

だから「否応なく社会は存在する」という普遍的なことを述べていて、『パタミュージック』を作ったときの考え方も、影響を受けていますね。自分の作品に話を戻すと、やっぱり否応なく耳が社会に組み込まれていると。

網守将平

—「耳が社会に組み込まれている」、つまり、耳はつねに何かしらの文化的な文脈のなかにあってしまう。そのとき、多くの人が大衆音楽やポップスに身体的な心地よさを感じるのは、そういう音楽文化のなかで耳が育ち、今でもそのなかで生活しているから、「知っているっぽい音」に心地よさを感じるということですよね。

網守:そうですね。

—それに対して網守さんがやろうとしているのは、そういう社会に溶け込んでいる音楽のあり方を、耳の表面で相対化することとも言えるのかなと。

網守:ああ、そうですね。そんな感じかもしれない。表面というか、鼓膜というか。

—ある種のズレや違和感を通して、「ちゃんとその音楽を聴いている?」という状態に持っていくということなのかなと感じます。

網守:それはあると思いますね。だから変な曲のあとに、すごくメロディアスな曲を持ってきたり。急に音量を小さくしたり(笑)。

網守将平『パタミュージック』を聴く(Apple Musicはこちら

—それで言うと、毛利さんが今作を「宇宙人が作った音楽のようなもの」と表現していますね。回りくどい言い方ですが、この言葉がこれまでのやりとりからもしっくりくる。失礼な表現かもしれませんが、網守さんはエイリアン(異星人)的な存在なのかなと。でも、積極的にその位置を選んでいる。

網守:そこまでしないと音楽を変化させられないという危機感が自分のなかにあるんだと思います。でも、どこにも属さないことが別にかっこいいとは思っていないんです。めっちゃしんどいですから。どこに行ってもよくわからないヤツになってしまう。ただ、その問題提起を通して、人がもっと音楽に価値を見出すようになったらいいな、みたいなことは思いますね。

音楽にはコンテキストや機能しか本質的にはない。

—先ほどから言及されているように、網守さんは空間的なインスタレーションも手がけていますが、パッケージされたアルバムと空間的なインスタレーションは、ご自身のなかでそれぞれどんな位置づけにあるのですか?

網守:どっちも同じ音楽という感覚です。「こっちはアート」という感じではなくて、どちらも「音楽をやっている」という感じですね。それはやっぱり表象ではなく実践であって、たとえばこのアルバムのなかでも、歌ってみないとポップミュージックのことがわからないから、歌ってみようという実践をしている。あるいは、時間的な枠組みがないところで作品を作らないと、常に「時間」を帯同する音楽という芸術のことがよりわからないから、インスタレーションをやろう、みたいな。

—なるほど。「実践」という言葉の意味がよりクリアになりました。たぶん多くの人がイメージする「音楽家」というものの枠組みが、気づかないうちに狭いものになってしまっているんでしょうね。インスタレーションもやるし、音源も作るし、CM音楽も作るし、みたいな活動のあり方や関心の持ち方が、じつは音楽家として自然なのかもしれない。

網守:そうですね。そのなかでも僕はパフォーマティブというか、行為遂行型なので。やってみないとわからないというタイプの人間です。

2018年3月25日に再演された渡辺哲也『CLIMAX No.1』より。提供:日本美術サウンドアーカイヴ © 渡辺哲也 / 撮影:藤島亮

2018年3月25日に再演された渡辺哲也『CLIMAX No.1』より。提供:日本美術サウンドアーカイヴ © 渡辺哲也 / 撮影:藤島亮
2018年3月25日に再演された渡辺哲也『CLIMAX No.1』より。提供:日本美術サウンドアーカイヴ © 渡辺哲也 / 撮影:藤島亮

—そうした複合的な実践を通して、音楽の抽象性に近づきたいと。

網守:毛利さんもおっしゃってくれていますが、そもそも音楽は何も表現していないということですね。視覚だと素朴に表象が可能だけど、音楽ではやられていないし、できないよねということ。音楽にはコンテキストや機能しか本質的にはないということですね。だからこそ、社会を知覚する際のインターフェイスとして機能するわけですけど。

インターフェイスじゃなくて表現や表象に見えても、じつはそうしたものとして機能しているのは、イメージやテキストだと思うんですね。つまり、歌詞があったり、PVのような視覚的な情報が付随していたりする。逆に、その機能や情報がないと、人は音楽を聴かないんじゃないかとは容易に想像がつきますよね。僕はインスタレーションを作る際に、聴覚は視覚に勝てないという前提からハッタリ的にサウンドを仕込んだりするんですけど、この手法はそういうところに由来しています。

あえて言葉にするなら、「みんな、音楽を聴いてる?」ということを言いたい。

—たとえば、歌詞に共感している人がいたとして、果たしてその人は本当に音楽を聴いているのか、ただ言葉に感情移入しているだけじゃないのか。それに対して改めて、「音楽そのもの」を聴いている状態を現出させたい。ここまでの話をまとめると、そういうことかと思うのですが、その状態を現出させた先でどんな音楽の状況を作りたいか、思い描くことはありますか?

網守:僕にとって、音楽を作ることはただの問題提起なんですよね。どうなってほしいということは、特になくて。あえて言葉にするなら、「みんな、音楽を聴いてる?」ということを言いたい。もちろん、その音楽には抽象的な部分も含まれているということです。

ただの音だったり、メディアとしての音だったり、社会のインターフェイスとしての音だったり、そのあたりのことをみんなどう思っているの? ということが僕の意図と問題提起なのかなと。そしてその先に何かメッセージがあるとしたら、「音楽ってみんなが思っているよりワケがわからない。だから面白いんだよ」ということかもしれない。

網守将平

—同時に、そのほうが耳はより自由かもしれませんね。

網守:ああ、なるほど。そちらのほうが本質的に自由ですよね。僕、なんかすごくきっちり音楽を作るタイプの人間で、自由が足りないとか言われたりもするんですけど、僕にとってはきっちりやることのほうがよほど自由になれるというか。だから、そのためには自分が持ち合わせている音楽理論とかも使うし、演奏もちゃんとやらせるし、ズレも許さないし、展示では配線にもこだわる(笑)。僕の場合はレギュレーションがあるからこそ「自由」は生まれると思っていて。

—徹底的に考え抜くことで自由を獲得しているというか。

網守:そうですね。

—あらゆる文脈から自由であろうとすることは、常に自分を相対化していくことでもあるから、そこで生まれる音楽は、広く流通する音楽観から見ると奇妙で違和感に満ちたものになりますよね。でもそのことで、網守さんの作品は、多くの音楽が流れてしまう安易なノリに回収されない何かになっている。

網守:ありがとうございます。だからこの作品の出発地点である、「音楽はまだ存在しない」というコンセプトも、音楽からまだ自由とも言えますよね。そのうえで、もう一度見つけようみたいな。誰が作ったかなんてことも、聴く人は考えなくていいですし、そういう作品になっていればいいなと思います。

網守将平

網守将平『パタミュージック』ジャケット
網守将平『パタミュージック』ジャケット(Amazonで見る

リリース情報
網守将平
『パタミュージック』(CD)

2018年11月21日(水)発売
価格:2,376円(税込)
NBL-225

1. Climb Downhill 1
2. デカダン・ユートピア
3. いまといつまでも
4. ReCircle
5. ajabollamente
6. Climb Downhill 2
7. ビエンナーレ
8. 偶然の惑星
9. Washer
10. 蝙蝠フェンス
11. パタ

プロフィール
網守将平
網守将平 (あみもり しょうへい)

音楽家/作曲家。東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。同大学院音楽研究科修士課程修了。学生時代より、クラシックや現代音楽の作曲家/アレンジャーとして活動を開始し、室内楽からオーケストラまで多くの作品を発表。また東京芸術大学大学院修了オーケストラ作品は大学買上となり、同大学美術館にスコアが永久保存されている。近年はポップミュージックからサウンドアートまで総合的な活動を展開し、様々な表現形態での作品発表やパフォーマンスを行う傍ら、CMやテレビ番組の音楽制作も手掛ける。コラボレーションワークも積極的に行っており、原摩利彦、大和田俊、梅沢英樹などジャンルを問わず多くのアーティストとの作品制作を断続的に行っている。



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