「フジワラノリ化」論 第13回 スガシカオ サングラスの向こう側 其の五 まとめ:何故、スガシカオを批判出来ないのか?

其の五 まとめ:何故、スガシカオを批判出来ないのか?

吉川晃司、藤井フミヤ、哀川翔、これらの皆さんが画面に映る時、基本的な認識として「カッコ良い」という共有が前提事項として強いられている。芸人は、「相変わらずカッコ良いっすよね〜」ともてはやし、そこにうら若き女子タレントがいれば、私感はひとまず置いて「キャー」という方向性でこなす。ここら辺の身のこなしは、女性タレントの短くなりがちな生存日数を決める主因となることもあってか、皆、真剣に盛り立てていく。カッコ良い人なのか、カッコ良かった人なのか、彼等の場合、このボーダーはどこにも設定されない。カッコ良い人は、いつまでもカッコ良い、ということで片付けられるのだ。田原俊彦のように、自爆テロのごとく恥じらいを捨ててアイドル時代そのままの振る舞いをキープすると、周囲も、さすがにこのまま持ち上げていられる範囲でないと諦めて、潔く失笑を向ける。しかし冒頭の3人がそうであるように「いつまでもカッコ良い」とされる人は、加齢と共に、自分から目立とうはせずに、他人が「カッコ良い」と盛り立ててくれるのを待つようになる。カッコ良いでしょと本人がこちらに問うてくれば、「相変わらずっすね」とか、「そうでもないっすね」と判断出来る機会が訪れると思うのだが、その判断をさせてくれない。彼等は一歩引いている。引いて、待つ。引いて待って「相変わらずカッコ良い」と言われる時、彼等は、とても満足げな顔をする。

それって実は、番組上の都合から言えば、ひとまずカッコ良いということにしておいて、そんな事より場を進行してしまおうと急いでいるだけなのだ。カッコ良いという前提を適当に用意してきた以上、どこまで崩していいのかを定めるのは難しい。どこまでふざけさせていいのかが分からない。雰囲気が怪しくなると、お茶目な一面もあるんですよねと、不可思議な帰結へ至るのだが、それだって、誰しもが薄々勘付いている「実はもうカッコ良くないかも」という可能性を浮上させない為の、強引且つ必死な帰結なのである。東大出身のタレントがクイズに答えられなかったという意外性は場を盛り上げるが、実はこの人そんなにカッコ良くないかもしれないという気づきは、場をちっとも盛り上げない。だから、そのままにしておくのだ。

「フジワラノリ化」論 第13回 スガシカオ

スガシカオという存在は、どうしてだか、カッコ良いかどうかという本格的な査定の機会から逃れてきた印象がある。「キャー! カッコ良い!」と黄色い歓声に迎えられている印象も無いし、「そのツラ構えでよぉ」と非難を浴びることも無い。考えて欲しい、あんなに気取った格好をしているのに、である。ジャケットにネクタイだとか、TシャツにGパンだとかいった単純な格好ではない。薄いサングラスをかけ、何やら重々しいジャケットをまとい、シャツのボタンを3つも4つも空け、ネックレスを垂らしているのに、それなのに、彼は即物的な賛同も非難も受けて来なかった。それが本人にとって本望かそうでないかは知らないが、あれだけカッコつけた格好をしているのに、それがどうかについて問われなかったのだ。音楽は中身(ハート)だからそれで良いのでは、という声が聞こえてくる。確かにそうだ。しかし、スガシカオの音楽は、どう考えても、格好や、そこから香る雰囲気を、音楽に落とし込んでいる。単純な話だが、TシャツGパンの山崎まさよしにスガシカオの音楽は出来ないし、胸空けネックレスのスガシカオに山崎まさよしの音楽は出来ないのである。だからこそ本来であれば問われるべきなのだ。

各種資料に目を通していて痛感したことは、スガシカオの需要というのはとてもピンポイントに存在していて、その需要の周辺に本来いるはずの「需要予備軍」が存在しなかったこと、これが驚きだった。つまり、「好き」か「そうではない」か、という2択の答えが明確に定まっているのである。この連載をやっていると、あんまり知らなかったけど読んだら何となく分かった、という意見を貰うことが多い。しかし今回、反応してくれる読者に聞いてみると、スガシカオに関しては、のっけから自分の中のスガシカオ像と答えを合わせているようだった。ファンが対象を愛でるのは当然のこと、しかしそれ以外の人が、いやスガシカオは好きではない、と受け入れない意思を、「嫌い」ではなく「好きではない」とするのがとても印象的であった。

本稿の為にスガシカオの音楽をたっぷり聴いた。電車の中、帰路、就寝前、でも、どうしても、彼の曲は体に入って来なかった。完成度は凄く高い、という事だけは分かる。こちらの聴き方が恣意的だったんだろうという反省はある。どうせスガシカオの音楽は、アーバンライフで、オシャレで、トレンディーなのだろうと、邪推を繰り返していた。スガシカオの音楽は、その邪推を修正する必要性にかられない、そのままのものだった。それは、こちらの期待に答えるものだった。彼は、至る所でカッコつけていた。歌詞であり、見た目であり、カメラを向けた時のポージングであり……。そのカッコつけるということが、いつも少しだけ浮ついていた。その浮つきが、こちらの邪推に乗っかった。

しかし、こちらは糾弾する気にはなれないのだった。感覚的な結論になってしまうが、この「糾弾する気になれない」というのは、スガシカオの現在までの道程に刺さる視線として、キーポイントとなる大きな意識である。絶賛と酷評が入り交じると、そのバランスでその人の評価と行く末が決まっていく。ミュージシャンや作家やタレントといった人前に立つ面々というのは、そのバランスと付き合わされるのだ。しかし、スガシカオは違った。絶賛と酷評ではなく、絶賛と放任だった。違和感を持っても、その人はスガシカオを放任した。セリフにすると、「いいじゃん、最高!」と「いいじゃん、別にどうでも」という2項だけが用意されていた。

書き始める前に気付けよ、という話かもしれないが、スガシカオって、「スガシカオのファン以外が彼のことを少しも考えようとしない人」なのだった。雑多な論議に参加してくることの無い名前なのだ。これって強い。文句を言うのは簡単だ。スガシカオへの評価を反転させればそれが文句になる。でも、スガシカオはその反転を聞いてこなかった。僕らはこれまでスガシカオを放任してきた。感覚的に、雰囲気的に、そのぼやけた輪郭の具合を、薄いサングラスの奥から見定めてきた彼に向かう批判がもはや生じなくなった。こちらは諦めて放任し続けている。このままのスガシカオがしばらく続くだろう。長いこと書き連ねてきてた結論が「このままのスガシカオがしばらく続く」なのである。理解いただけたか分からないが、この有り様に、スガシカオの強度が染み渡っているのである。



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