「フジワラノリ化」論 第14回 押切もえ 知的路線へのモデルウォーキング 其の五 まとめ:「知的」は仕込めるものなのか

其の五 まとめ:「知的」は仕込めるものなのか

数ヶ月前、高校時代の同窓会があった。卒業以来10年振りに会う面々とは思えないほどスムーズに雑談が交わせる面白さったらない。当時、その人ごとに、ここまで突っ込んでも構わないという言動の度合があった。その度合いをそのまま再使用出来るのだ。ある人には、「お互い様だけど相変わらずドブ川から湧き出たような風貌だね」と言ってしまって構わないし、ある人に「おまえはいつも俺のパンを横取りしてたんだから今日こそ返すべきだね」と切り込んでみれば、「俺もそのつもりでやってきたんだ」と間髪入れずに返ってくる。同窓会の類いを、「変わらないよね」と結論付けるか、「変わったよね」と結論付けるのか、これにはどうにも性差が生じるように思えた。男子は間違いなく「変わらないよね」を愛でた。早々と後頭部が怪しくなったりお腹の贅肉が豊かになったりした仲間をせせら笑いながらも、でも、変わらないよねと安堵した。女子は順番が逆だった。まず、変わらないよね、を全体の会話に染み込ませる。その後で、今は何をしているのかという周辺情報を提出させ、そこを懸命に肯定していく、後はきれいになったよね、で話を着飾っていく。変わらないけど変わったよね、妙な言い様ではあるものの、これが女子の確認作業だったように思えた。男子が原点を確認し、女子が現時点を確認する、同窓会で体感したのは、そういう交歓の差だった。

You Tubeで「押切もえ」と検索すると、彼女がコギャル時代にテレビ出演した際の動画が真っ先に出てくる。いわゆるガングロギャルの押切もえが映る。駆け出しのアイドルとギャル集団が激論を交わすありがちな番組のようだ。ガングロ押切が、周りの会話を遮るように声を張り上げる。アップされたのが番組の断片なのでやり取りの全貌は見えないが、押切はこう言う。「うちらの友だちもね、さっきから、超ね、言われてるじゃないですかぁ。そんななんかいきなりごめんなさいわたしもなんて言われても、そんなのは知りません。そんなの、ダメ、ダメ、ダメ、あたしはイイ、じゃない!」。あるアイドルが「私たちは夢を売ってるの!」と立ち上がると、すかさず押切は「(あんたのことなんか)気にしてないのに、なんか立ち上がってー」と突っ込み、周辺の爆笑を誘っている。終始髪の毛をいじくりまわし、最低限の礼儀を更に低く掘り下げようとする立ち振る舞いである。この頃の話を押切は自著の中で「「見た目どおりの『ギャル』なキャラでテレビに出て」と頼まれ、大げさなコメントをしたこともありました。(中略)大人のバカ! とか、なんだか孤独だなあって思うことはよくありました。」と振り返っている。確信を持って言うが、この回想は嘘だ。嘘、というよりズルい。地に足がついていない浮ついた時期を発掘されてしまう職業柄を気の毒に思うものの、それを、例のごとく、尾崎豊的(彼女としては太宰治的)に回収していくのを見過ごすことは出来ない。映像の中の押切には、下品なギャルの血が間違いなく色濃く通っていた。アイドルの過去を発掘する積極性はあまり好ましいものではない。修学旅行の写真を引っ張り出してきてこの頃は一重だったから彼女は整形に決まってると囃し立てるのは生産的な議論では無い。少なくとも受け手が積極的に掘るべきでは無い。しかし、押切は自ら掘り返して、その反動で生じる力を共感に結びつけようとした。ならば、この場合は確認しなければならない。そしたらどうだ、これは好都合の度が過ぎる気がしたのだった。

押切もえという人は、とても直球な人だ。頸椎骨折で入院し寝たきりの生活をしている時、本の中に見つけたリンカーンの名言「あなたが転んでしまったことに関心はない。そこからどう立ち上がるかに関心があるのか」を読み、「寝たきりの自分にすごくぴったりだ、と思った」と書いている。僕はこのくだりを読んで、しばし放心状態に陥った。同じようなことが最近あったはずだと思いめぐらす。ようやく思い出す。そうだ、西野カナの曲だ。女性の恋心を代弁するとされている彼女は「会いたくて会いたくて震える」と歌った。音楽とは、会いたくてたまらない気持ちを「震える」では済まさない為に言葉を尽くしてきた文化ではなかったかと思うのだが、その突っ込み自体が震える体には蛇足なのだった。パズルは常に2ピースで、1つのピースにぴったりはまるもう1つを用意しなければならない。感動や努力という言葉はそこからしか導かれないのだ。感動や努力とは、いくつもの欠片が複雑に入り組んで構築されていくものだと確信しているこちらは、押切の「寝たきりの自分にはすごくピッタリ」を前にして、立ち上がれなくなる衝撃を受けるのであった。

男子が原点を確認し、女子が現時点を確認する、これは同窓会だけの現象ではなく、仕事でも恋愛でも、ある対象に絞り込んだ所で必ず生じる性差なのかもしれない。「今が良きゃいいじゃーん」という、テレビ向けギャルの放言に顔を顰めるのはいつも中尾彬の類い、つまりオッサンだった。このオッサンの世代は、上下関係を営みの基軸とし、ゆえに出所を重んじる人種だった。しかし、その構図はもはや不要になりつつある。政府文書のような言い方だが、男女の価値観は多様化し、勤務形態から居住環境まで生活設定に特定の形態は無くなったのだ。その時に、実は、「今が良きゃいいじゃーん」というのは、真っ当なのだ。なぜって、昨日と今日が違って、今日と明日が違う現在において、原点確認よりも現時点確認に長けていたほうが、世に沿う身のこなしが出来るから。しかし、昨日と今日と明日が違うとなれば、心はグラつく。その時に、ストレートなメッセージが速攻性を持つ。日々あらゆる体感が揺れ動くのならば、そのメッセージは繰り返し使えるのだ。その時に、触り心地からして難しいものは門前払いをくらうのだ。

この時代、押切の平淡なメッセージは、体感する側の環境変化によって効果を肥大させている。新刊「心の言葉」に寄せられた感想をネット書店等で散見したが、皆、彼女は「真面目」「自然体」で、そこから強いメッセージを受け取ったと書き残している。誰かに強烈なメッセージを伝える、その為の作法として「頻出模範解答」を並べることはもっともその強烈からは遠いはずだった。しかし、時代は変わったのだ。化粧品のキャッチコピーのように、「肌馴染みが最高っ!」なメッセージが求められているのだ。そのメッセージを供給する際にオヤジはどうしても歴史の文脈や自らに備わっている雑学を振りまいてしまう。言わずもがな、これが武田鉄矢化である。武田鉄矢化したオヤジからは、毒にも薬にもならないメッセージが加齢臭と共に運ばれて来るだけだ。押切もえは、歴史と雑学を排した武田鉄矢なのだ、と書こうと試みたが、歴史と雑学を排すと武田鉄矢に何が残るのかという壮大な議論が生じてしまうのでその例えをいったん胸にしまう。

「フジワラノリ化」論 第14回 押切もえ

タイトルにある、「知的」は仕込めるものなのか、との問い。それは仕込めるか仕込めないかではなく、「仕込んだと思えるか思えないか」に議論をスライドさせるべきなのだろう。第3回で、「ヌルい知的路線をウォーキングし過ぎたら、他の連中と一緒くたにフェイドアウトさせられるハメになるかもしれない」と書いたが、こうなると話は少し変わる。堅い頭で教養とは何かと問いかけるその問いかけ自体が間違っていると、堅い頭はどうしても気が付けない。それでは人は寄り付かない。今が良きゃいいじゃんと開き直った女子は、おそらく今に至っても、現時点を確認する作業を繰返している。思考の方向と瞬間性が不変なのだ。実はその方があらゆる波を乗りこなせるんでしょと、彼女たちは薄々気付いている。とはいえ、波を乗りこなす後押しは欲しい。その際のサプリメントとして、複雑に入り組まずに直ぐにほどけるメッセージを欲する。少しの警戒心は持ってはいる。その警戒の後に、抜け出して来る肌触りの良さが押切もえの前向きな言動なのだ。

押切もえは、カリスマではない。しかし、全てが程の良い具合に出来上がっている。安定感を武器に、押切もえはこれからも疾走する。対向車も後続車もそれなりにいる。混雑することも閑散とすることもないだろう。そして、その都度、現時点の走り心地を、「●●だけど、●●だ」と、ネガティブの反転にストレートなポジティブさを用意して繋いでいくのである。自分の悩みを自分の進言に濾過出来るこの人の寿命は、長い。



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