「フジワラノリ化」論 第15回 加藤浩次 山本復帰を待望するための執拗な加藤論 其の二 「やりすぎだろそれは」の創造主

其の二 「やりすぎだろそれは」の創造主

ロンドンブーツの番組『ロンドンハーツ』が、毎年のように「子どもに見せたくない番組」の第1位を飾っているのは御存知のことかと思う。少し調べてみると、日本PTA全国協議会が発表するそのランキングで、『ロンドンハーツ』は2003年から不動の1位を譲らぬまま記録を更新し続けている。PTA的な解釈では、恋愛沙汰を茶化して騙して笑い転げる方向性が、青少年に不健全だという事なのだろう。番組を観ていて思うのだが、この番組は、誠実に、純然たるエンターテイメントと向き合った番組である。人の下心や裏側を引っ張り出す田村淳のニヤケ顔と共に弄ぶという、騙す側と観る側の姿勢がここまで一致する瞬間を、他のテレビ番組から探し出すのは難しい。とりわけ淳の、悪巧みのトータルコーディネートっぷりは、こちらの需要にきめ細やかに答えていく緻密性がある。それ故に、決して低能な番組ではない、と自分は思うのである。加えてこうも思う。「こんなことを企んで笑い転げる大人になって欲しくない」からといって、「こんなこと」を隠した状態で成長させても、「こんなこと」は遠ざからない。むしろ、やってはならないことを完璧に成し遂げる姿は、「ここまでしなければこれをしてはいけないのだ」という逆説的な抑止力を生じさせることもある。仕掛人の彼女宅に鼻の下をのばしながらノコノコやってきた芸人をどん底にたたき落とす為に、実際に空地にマンションを建設して2階から1階に落とすという大掛かりな手法をとる。スタジオで事済ませようとする、とりわけクイズや雑学で時間を埋めるだけのお茶の間ゴマすり番組よりも、比較にならないほど笑わせる事への筋道が立派ではないか。子どもに見せたくない番組かもしれないが、この番組を見せてちゃんと「これはやりすぎだろー」とゲラゲラ笑えるかどうかで、子どもの成長を見定められるのではないか。逆に、子どもに見せたい番組アンケートで『世界一受けたい授業』が第1位を飾っているが、何がしかの議論を柔らかく噛み砕いたこの手の番組こそ、人それぞれの主義主張が表面上隠蔽されるから、判断能力に乏しい子供達には危険かもしれない。良さげなことを言う人を疑わなければ実社会では生き残れない。世界一受けたくはない指示や命令やノルマが荒波のようにやってくるのだから。

ロンドンブーツの、とりわけ淳の傍若無人は、観る側のお約束になっている。素人とスタッフをいじらせたら右に出るものはいなかった石橋貴明の効力がとことん疑われている昨今、テレビに出る人材を片っ端からいじっていく淳は、お笑いの世界の中でも異端児である。その証拠に彼は、ボケるとか、年上のフリに乗っかってみせるとか、誰でも出来るそういった作業に心技体を使わないのである。かといって、自分の統治国家を作ろうという気は更々ない。外様の法律を壊すことのみに快感を覚えるイタズラ精神は、体育会系というぬるま湯で長風呂に入るだけの現在のお笑い業界においては貴重な破壊源だ。無論、彼にも吉本という下支えがあるのだけれども……。

『ロンドンハーツ』が2004年から子どもに見せたくない番組第1位を死守する中、バラエティ番組としてそれに追随してきたのが『めちゃ×2イケてるッ!』である(7位→4位→3位→4位→2位→3位[2010年]と推移)。こちらも安定して親に嫌がられていると言える。『ロンドンハーツ』については、PTA的な言語で言えば「不純異性交遊」が嫌悪の主因となるのだろうが、『めちゃイケ』の場合は、過敏な親が「イジメの温床」と断定するための好条件が揃っている、ということになるのだろう。ナインティナインとそのファミリーたちは、馴れ合いの中でその互いを見下す。ファミリーに明確な主従関係が無いから均衡体制が保てるのだろうが、均衡体制だからこそ気軽に誰かを陥れ、集中放火で落とし込み、笑いを作り上げていく。土曜の夜という、家族団らんの絶好の機会に子どもの目線を奪い取られる恨みもランクインに起因している気はするが、ターゲットを見つけた後の集中砲火、そして編集時に入るテロップによる茶化し方が、PTA的には「イジメの原因になる」なのだ。

この「めちゃイケ」の集中砲火体制をスクスク育ませたのが極楽とんぼの2名ではなかったか。加藤も山本もしょっちゅうキレていた。小競り合いではなく、争いだった。キレ芸ではなく、キレていた。めちゃイケでの山本の姿として今でも脳裏に記憶されているのは、布団叩きオバさん(ちなみにこの事件は彼女が被害者であったという見方も浮上しているので検索等されてみるべし)のモノマネであちこち逃げ回るだけの企画だ。逃げ回る布団叩きオバさんをメンバーが探し出す。布団を叩く山本が神出鬼没に現れるだけである。しかし、それだけで企画は成立した。社会風刺をダイレクトにギャグにし、勢いだけで乗り切っていく強引な技は、演じ手の力量が露骨に問われた。山本の破壊力が顕著に現れた瞬間だった。加藤も同じだ。加藤はキレているか、キレる可能性のある佇まいを常に心がけていたように見えた。ナインティナインの隣かいくらか端っこに彼等がいると、冴えない企画であっても炎上する気配を漂わせることが出来た。

「フジワラノリ化」論 第15回 加藤浩次

「アメトーーク」などを筆頭に、芸人のプライベート面の理解を行き渡らせる番組が流行っている影響もあり、芸人の表の顔と裏の顔を、どういうわけだか視聴者が知り尽くしている。例えばキレ芸で一世を風靡したカンニング竹山が実は優しいことを知っている。先輩後輩関係なく毒舌を吐き散らす有吉弘行が実は真面目だということを知っている。猛毒の解毒方法を、視聴者が勝手に探ってくれるようになった。しかし、この親切心によって失われたものはないだろうか。下品さ、が消えたのではないか。テレビから下品が消えた。全てのお笑いが、理解の範疇におさまるようになった。下品の喪失によって、「笑わせる」から「笑われる」に変わったとするのはいささか強引だが、理解不能の暴発は必要とされなくなった。しかし、お笑いとは、何がしかの極致に生息するのではなかったか。「やりすぎだろそれは」と笑い転げるものではなかったか。極楽とんぼと同じくらいの、トップクラスではないが新たな潮流でもないミドルクラスの名前を羅列してみる。ロンドンブーツ、さまぁ〜ず、くりぃむしちゅー、雨上がり決死隊、ココリコ、ホンジャマカ、ネプチューン……。宮迫が蛍原にドロップキックをお見舞いするのが定例行事だったことを、皆は覚えているだろうか。ロンブーを除くと、彼等は妙な落ち着きを見せている。用意された箱の中で暴れることを覚えたというべきか。肌触りが良くなったといえば、PTA的賞賛にはなるだろう。しかし、何をしてくれるんだろうという、予測不能ゆえの期待感を彼等に差し向けることはない。久々に使う言葉だが、皆、「想定の範囲内」なのである。

極楽とんぼの破壊活動が欲しい。マンネリを精査せず、権力構図を視聴者にまで強いて、そのシステム内のみで笑いを構築する現在。加藤と山本の自爆テロを体が欲している。共演者に迷惑をかけながら、大衆に嫌がられながら、親御さんに煙たがられながら、それでも画面に唾を飛ばさんばかりに弾ける彼等が見たい。極楽とんぼの「やりすぎだろそれは」を観たい。しかし、こちらの熱い期待とは裏腹に、加藤はお笑いの場に立つ時、わざわざお笑いに降りてきている印象が拭えなくなった。そんな彼に引火するだけの起爆剤が残っているのだろうか。そして山本は何より、そのステージの上にすらいないのだった。彼が戻ってくる方法があるのか知らない。しかし、復帰を切望する。加藤、山本、それぞれの職場復帰を望む。極楽とんぼは、今のお笑いに必要だ。次章では加藤の話術を中心に、彼の現在を洗い出していく。全ては、極楽とんぼの再爆発を祈願するためだけのために。



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