なぜ劇団・地点がスゴイといわれるのか? 三浦基×佐々木敦対談

2012年は劇団・地点がさらにブレイクスルーを果たした年だった。太田省吾、チェーホフ、アルトー、イェリネクなどの多様なテクストを用いて、「地点語」とも呼ばれる独特な役者の発語とフォーメーション、いくつもの折り重なる時間軸と、それら全てを包み込むハイクオリティーな舞台美術で演劇空間へと解き放つ演出家・三浦基。彼が率いる地点の次回公演は太宰治の小説を原作とした2本の作品(うち1本は新作)となる。ここ数年、現代演劇のキープレイヤーとして地点および三浦の作品を見続けてきた批評家・佐々木敦と対談してもらうことで、その魅力や衝撃、三浦演出の極意などを大いに語り明かしてもらった。

イェリネクは、ある程度「手に負えないもの」として読んでみると、なんとなくわかる。そうすると彼女のギャグもわかってくる。(三浦)

佐々木:ここ4〜5年、地点の舞台作品を観てきましたけど、2012年はここ数年の地点の歩みの集大成ともいえる年だったと思うんですよね。

三浦:新作を4本もつくりましたからね。しかも言葉は悪いけど「数打ちゃ当たる」と思ってやっていたら、全部当たった(笑)。それも11月の『F/T(フェスティバル/トーキョー)』で上演した『光のない。』で大爆発して。

佐々木:その成果を踏まえた上で、これからの飛躍についても今日は伺えればと思っています。

三浦:いやもう劇団員が身体的にも、思考的にもヘトヘトですよ(笑)。ずっとランナーズハイでやってこれたのが、ここ数日でちょっとストップしちゃってる感じ。

『トカトントンと』KAAT神奈川芸術劇場 2012年 撮影:青木司
『トカトントンと』KAAT神奈川芸術劇場 2012年 撮影:青木司

佐々木:ホントに間が空いてないですもんね(笑)。ちょっと地点の面白さについて考えてみたいんですけど、役者とか舞台美術とか、いろいろ要素はありつつ、やっぱり三浦基という人による演出のユニークさがあると思うんです。いま『光のない。』の話が出ましたけど、昨年の『F/T』ではノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネク(以下イェリネク)のテクストを演出した作品が、海外のものも含めて4本もありました。

三浦:そうですね(笑)。

佐々木:イェリネクのテクストって、作品が違っていてもどこか一貫性があるんですね。そういうテクストを演出した作品を、地点のものも含めて4本並べて観たわけですけど、それぞれ見事にリアライズの方法が違っていた。中でも、三浦さんが他の演出家と根本的に違っていたのは、ときに「地点語」と呼ばれたりもする、役者による独特な発語の仕方です。

三浦:イェリネクの戯曲(脚本)の場合、しゃべり言葉を前提としたテクストではあるんだけれど、そこには彼女の思考やある種の哲学的な内容も含まれていて、手に負えない感じもあるんです。例えば、仮に「あの窓の向こうへ」というセリフがあったとしても、その「窓」は普通に「マド」っていう発語では耐えられないような窓だったりするわけです。

三浦基
三浦基

佐々木:と、言いますと?

三浦:つまり、それは原子炉の中の窓だったりもする。1つの単語、セリフに、多義性が含まれているわけです。そういう戯曲に対して、大体の演出家はある種のリアリズムに置き換えてみたり、政治的なメッセージだけをクローズアップするというように意味を絞りこんでしまう。でも、それで上手くいくケースは稀だと思うんです。そんなわけで、原作のドイツ語圏でもイェリネクの戯曲を使った舞台はそんなに上手くいっていないという話を聞きますし。

『光のない。』フェスティバル/トーキョー 2012年 撮影:松本久木
『光のない。』フェスティバル/トーキョー 2012年 撮影:松本久木

佐々木:にもかかわらず、イェリネクと地点の組み合わせは、『光のない。』で目覚ましい成果を上げました。これはどうしてなんでしょう。

三浦:なぜ僕の演出が上手くいったかと言うと、それは「放っておいたから」なんです(笑)。役者も「このセリフ、手に負えないなぁ……」と思ってしゃべる。するとセリフの中に思わぬ余剰が次々と入り込んできたんです。例えば原子炉について科学的で難しい話をしているシーンに、ふと「音楽の時間に例えてみよう。するといまは間の時間だ」って書いてある。つまりそれまでの話が、一気に音楽の話にスライドしちゃったりするわけです。そういうことは真面目に意味を絞り込むような読み方では気付かない。だけどある程度「手に負えないもの」としてのパフォーマンスを前提に読んでみると、なんとなくわかってくる。そこにあるのはイェリネクが戯曲を書いているときのテンションとか、ノリなんです。あるいは彼女の文体と言ってもいい。そうすると彼女のギャグもわかる。

佐々木:ギャグもわかる!(笑)

三浦:彼女のテンションに沿って読んでいくと、「このセリフちょっと長いな」って感じで息切れするあたり、まさにそういう瞬間にギャグが書いてあったりするんです。「この感じはどこかで知っているぞ」って思いましたね。具体的には「あ、ここはサミュエル・ベケット(20世紀フランスを代表する劇作家)を踏襲してるな」とか。西洋の演劇は、近代と現代が地続きだってよく言われますけど、彼女の場合、たしかに地続きなんです。「あ、やっぱり先人たちと闘っているんだなぁ、こいつは」って思いました。

佐々木:『光のない。』に関しては、役者の発語の美しさについて音楽的だという評価もありましたね。それってつまり、単純にユニークな発話をしているということではない、聴いたことのないような美しさがあるってことだと思うんです。

佐々木敦
佐々木敦

三浦:役者は「セリフの意味がわからないまましゃべる」っていうこともあるけど、発語に付随する「リズム」とか「声の高さ」ということは常に気にしていますからね。僕も役者には、感情というテーマに対して「もっと掘り下げて」って指示を出すことがありますね。役者の感情表現だけでいえば、普通は「私は悲しい、どうしたらいいんだろう?」というセリフは笑いながら言ったほうが感動するんです。異化効果というやつです。でもイェリネクの戯曲については、もはやそんな単純なことでは解決できないわけです。ある立場を批判しているのか、擁護しているのかすらわからない。そのときに自分自身の態度が問われるわけです。

佐々木:なるほど。基本的に演出家っていうのは自分でテクストを書くのではなく、誰かの書いたテクストがあって、それを役者の身体を通してどう発話させるかっていうことを考えますよね。それって一見、テクストと役者の関係においていわゆる異化効果があるように捉えられがちですし、実際にそのことを演出の領分として仕事にしている演出家もいるでしょう。でも、いま三浦さんがおっしゃったのはそうではなくて、イェリネクのテクスト自体にあらゆる異化効果の可能性が埋め込まれていると。それを演出家ができる限り切り詰めないでどう引き受けるかっていうことで、しかもその発話の仕方を、実際に演出していく中で発見したわけですね。ここが地点っぽい劇団と、地点の最大の違いだと思います。

『光のない。』を大学の生徒が観てすごい衝撃を受けていた。自分が体験したことに圧倒されて、アワアワしていたんです。(佐々木)

佐々木:いや最近、地点に影響を受けた若い劇団をちらほら見かけるんですよ。

三浦:ホントですか?(笑)。

佐々木:舞台上の発話を聞くだけでわかります(笑)。にもかかわらず、ぜんぜん違うものに見える。それは役者の技量とか時間とかコストとかの問題もあるんでしょうけど、それ以上に、やはり根本的な部分でプログラムが違うわけで。

三浦:劇団における集団性の問題もあると思いますね。個人じゃダメなんです。演出家らしき人が興味を持ったことを役者たちに押しつけて、一対一で責任を取ろうとしてしまうとダメ。それでは集団性が生まれてこない。ここで言う「集団性」とは、ある種のいい加減さをベースにしながら、劇団全員で責任を持つようなシステムのことです。地点の場合、作品全体の責任の所在をいろんなカタチを持ち寄って埋め合うんです。そこには偶発性もあるし、役者の向き不向きもある。

三浦基

佐々木:その集団性は重要ですね。三浦さんの演出って、役者のモノローグ(独白)の中に三浦基個人をできる限り入れないようにしている。だからこそ演出家だといえるのかもしれない。でも、実は演出に徹しているように見える人ほど、演出家としての「私」性みたいなものが滲み出てしまったり、もしくはそれを利用していることがあると思うんです。三浦さんには、そうはならないストイシズムがある。

三浦:戯曲に対しては、僕は「医者である」っていうスタンスですからね。同じように役者に対しても「ここ病んでいるなぁー」って病人扱いをしているところがある。そして、これは地点としての経験の蓄積も大きいと思うんですけど、役者のほうが実は医者であるケースも多い(笑)。「あ、また三浦ここにハマっているな」ってな具合に。そうやってお互いに影響し合っていく。ある意味ストレスフルな状況でもあるけど、そこでは誰それの自意識とか、誰それがどうやりたいとか、そういうことはほぼないわけです。つまりは、職人集団。

佐々木:以前、地点は役者の人数がほぼ確定しているので、どんな芝居でも同じ人数で演じるっておっしゃってましたよね。例えば役柄が1人しか出てこない作品でも、20人出てくる作品でも、同じ5人で演じるっていう(笑)。いまいる5人の役者に対してはすごい信頼と共闘関係が築かれていますよね。

三浦:どうしてそうなるかというと、サッカーだったらフィールドに立つのは1チーム11人って決まっているわけじゃないですか。それと同じで、地点はいま5人制の演劇をやっています、ということだけなんです。そこでボールが作品だとすると、どういうふうにパスを回したらいいかってことを考えるわけです。

佐々木:当然、ポジションも……(笑)。

佐々木敦

三浦:あります(笑)。それぞれ得意技もある。昔はこのやり方でなんでもできるってハッタリかましていましたけど(笑)、でもいまは、上手くいかないときもあるとは思っています。それと同じで、このやり方だからこそ面白くなる作品っていうのも確実にある。ま、人数に関して言えば、7人ぐらいには増やしたいんですけどね(笑)。

佐々木:あと2人ぐらいは欲しい?

三浦:ええ、門戸を開いておりますのでぜひ(笑)。あと、先ほどの自意識のことでいうと、よく「観客のことをどうお考えですか?」って聞かれるんですけど、そんなこと、一度も考えたことがない(キッパリ)。こういうターゲットを狙おうとか、専門家だけにウケればいいとか、外国で上演するからこうしようとか、まったく考えたことがない。とにかく本番の初日を開けることで精一杯ですよ。昔はよく「地点の芝居はわからない」ってことを言われたんです……いや、いまでも言われるか(笑)。でも、「わかる人だけに向けてつくっている」とか、そんなわけない。だから思い切ってこれからは「わからないやつはバカですよ」くらい言ってしまおうかと思っているんです。だって、ちゃんとわかる人がいるんだから。ただ恐ろしいことに、俯瞰して見てみると、非常にマイノリティでもあるっていう。

佐々木:「わかる人」がね(笑)。

三浦:なぜかというと答えは簡単で、日本では「現代演劇」というもの自体がマイノリティだからなんです。この国には現代演劇の見方が根付いていない。ただそれだけのこと。ロシアに行って驚くのは、観客がマジョリティとして僕らの芝居を見ているんです。それは決してロシアがすごいって話じゃなくて、ただ現代演劇の土壌があるかどうかだけの差なんです。ロシアでは演劇によって政治が変わったり、劇場に観に行くということが日常だったりして、現代演劇自体がマジョリティであるっていう。

佐々木:つまり地点のあり方によって、日本の現代演劇が置かれた歴史性と現在の状況が逆照射されてしまっているんですね。

三浦:そう、だからしょうがないなって。

『光のない。』フェスティバル トーキョー 2012年 撮影:松本久木
『光のない。』フェスティバル トーキョー 2012年 撮影:松本久木

佐々木:たしかにそういう状況はありますね。ただ、地点の『光のない。』を、僕が大学で教えている生徒の何人かが観にいったんです。彼らのほとんどは演劇を見慣れていない若者なんですけど、観劇後にすごい衝撃を受けていた。イェリネクのメッセージ云々以前に、いま自分が体験したことに圧倒されて、アワアワしてしまっていたんです。それはロシアの観客とは違ったレベルでの「わかる」経験ですよね。つまり、バカとかバカじゃないってこととは無関係に「わかる」っていう。音楽や照明や舞台美術や役者の動きとか、そういうあらゆるものが込みで、地点の舞台には「わかる」可能性があるんだと思います。

地点の役者が人から羨ましがられるようなギャランティーと名誉を獲得して初めて、「日本に現代演劇がある」ということになる。(三浦)

三浦:そういう意味では、3月にKAAT神奈川芸術劇場で太宰治の作品を2本やるっていうのは一番ごまかしがきかない。

佐々木:太宰自体はこの国では圧倒的マジョリティなわけですからね(笑)。

三浦:これが面白くなかったら相当やばいぞ……って(笑)。

佐々木:『トカトントンと』は1年ぶりの再演です。間に『光のない。』などがあったことで、なんらかのバージョンアップがあったりするんでしょうか。

『トカトントンと』KAAT神奈川芸術劇場 2012年 撮影:青木司
『トカトントンと』KAAT神奈川芸術劇場 2012年 撮影:青木司

三浦:どこかしらいじったりはするでしょうね。僕の場合、稽古で即興的に変えてしまうので、そのことで逆に自分たちが変化したということが見えてくると思います。また、前回は震災以降の状況と「戦後」って言葉がたまたま合致しちゃって意識せざるをえない側面があった。そこも変わってくるでしょう。いや、しかし「玉音放送」って面白いですよ。そもそも天皇制っていうシステム自体が演劇的ですから。だって役者がいくら「朕です」って言ったところで、朕はこの世に1人しかいないんだから、「お前は朕じゃない」ってなりますよね。これぐらい発語の根拠が不安定なシステムもないですよ。そういった虚無感は、太宰の『トカトントン』という原作の持っている雰囲気にも上手くリンクしていると思います。

三浦基

佐々木:同時に、やはり太宰の小説を原作とした新作『駈込ミ訴ヘ』もつくるわけですが、このチョイスの理由についても伺えますか。

三浦:太宰の小説って発語を前提として書いた小説とそうでないものに分かれると思うんです。で、例えば『斜陽』のようなベストセラーでも、いいところはたいてい手紙の部分だったりする。つまり太宰は「語りの作家」なんです。『駈込み訴え』も一人語りの小説なので、一人芝居として読んでもいいんじゃないか。これが選んだ理由の1つです。もう1つは『トカトントンと』の中で日本の天皇制が問題になっているとしたら、『駈込ミ訴ヘ』のほうはキリスト教を、ということで売りになるんじゃないかと(笑)。当然、西洋近代の成り立ちがキリスト教を起源にしているということも前提にあるわけですけれども。ただ、いざ稽古をしてみて気付いてしまったんですけど、太宰ってべつにキリスト教のことなんてなにも考えていなかったんですよ……(笑)。いちおう聖書は勉強したようで引用も出てくるんですけど、キリストに関してはなにも言ってない。

佐々木:掘ってみてもなにも出てこなかったわけですね(笑)。

佐々木敦

三浦:なので、もう少し愛の問題や、聖書の中のエピソードについて、太宰を経由して考えるという方向で行こうかな、と。つまり根本的な「わたし」と「あなた」というか。あなたっていうのは、イエスのことなんですけど、そのイエスに対して『駈込ミ訴ヘ』では「ひどい! 私が殺してあげる」なんていう阿部定状態になっているわけですね。そういう一対一というテーマを地点の集団性で掘っていけたらと思っています。イェリネクの場合は「わたしたち」という世界観が前提となっていたけど、太宰は「わたし」と「あなた」なんですよね。簡単に「わたしたち」とは言わない。その「わたし」と「あなた」っていう問題をきっちり処理するしかない、という意味では、やっぱりキリスト教がテーマだと言ってもいいのかもしれない。

佐々木:また、『トカトントンと』と『駈込ミ訴ヘ』の2本を同時に上演することで、天皇制×キリスト教っていう掛け合わせから新たに見えてくるものもあるかもしれないですね。でも、考えたらイェリネクもそうですし、以前やったアントナン・アルトー(フランスの俳優・詩人・小説家・演劇家)にしてもそうですけど、全部「一人称」なんですよね。しかも、三浦基が彼らのテクストを演出すると、一見モノローグのように見えつつ、その中にいくつものペルソナが入ってきてだんだんポリローグ(複数の声)になっていき、でもやっぱり1つの声かもしれないっていう往復運動がある。地点の舞台ではその往復運動を舞台上で実際に役者がやってのけるわけで、これはすごいことだと思います。ちなみに三浦さんは、いままで太田省吾(劇作家・演出家)にしろ、アルトーにしろ、イェリネクにしろ、作品単位というよりは作家そのものの持つ声とも徹底的に向かい合って取り組んできたと思うんですけど、これから中長期的にこの人に取り組んでみたいっていう人はいますか?

三浦:……それなんですけど、医者は患者を選ばないんですよ(笑)。そこが劇作家とちがうところでもあって。

佐々木:患者がくるかどうかっていう(笑)。

『トカトントンと』KAAT神奈川芸術劇場 2012年 撮影:青木司
『トカトントンと』KAAT神奈川芸術劇場 2012年 撮影:青木司

三浦:ただね、待ってるだけで安泰です、ってやっていると、「こないだシェイクスピアで上手くいったから、シリーズにしたらどうだろう」なんて方向にすぐ陥ってしまう。世界中の演出家がこのワナにはまるわけです。物語の権化になって、権威化して、台本通りにやってるだけじゃん、ってなりかねない。そこを警戒しながら、ギリシャ悲劇にしても、シェイクスピアにしても、メスを入れていきたいなっていうふうには思っています。あと、以前『CHITENの近現代語』という作品で憲法を扱ったりしましたが、今度は『CHITENの近未来語』というタイトルでSFモノとかもやってみようかなって。そうやってあと2〜3年は患者がいるということにしておいて、それ以外でも僕ができることをどんどんやっていかないと。具体的には、プロデューサーや公共劇場など、つまりはシステム自体を刺激すること。これも重要な仕事です。

佐々木:日本だけの文脈の問題じゃないですからね。

三浦:具体的に作品を上演するということもあるけど、それと同じぐらい舞台芸術の環境を整えていくということにも力を注がないと。人はそれを「政治屋」って呼ぶんですけどね(笑)。

佐々木:でも、大事なことですから。

三浦:そうなんです。地点の5人の役者が人から羨ましがられるようなギャランティーと名誉を獲得して初めて、「日本に現代演劇がある」ということになるわけです。そういう環境づくりを作品づくりと同時にやっていかないと、演劇の未来がないですから。

イベント情報
地点
『駈込ミ訴ヘ』

2013年3月7日(木)〜3月26日(火)全9公演
※3月7日はプレビュー公演
休演日:3月11日〜3月19日、3月22日、3月24日
会場:神奈川県 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

原作:太宰治
演出・構成:三浦基
出演:
安部聡子
石田大
窪田史恵
河野早紀
小林洋平
青戸知
美術:山本理顕(建築家)
照明:大石真一郎
音響:徳久礼子
衣裳:堂本教子(KYOKO88%)
舞台監督:山口英峰
プロダクションマネージャー:山本園子
技術監督:堀内真人

料金:
一般3,500円
シルバー(65歳以上、要身分証明書)3,000円
U24(24歳以下、要年齢証明書、枚数限定)1,750円
高校生以下1,000円(要生徒手帳、枚数限定)
2演目セット券6,000円(枚数限定)
※3月7日のプレビュー公演のみ 一般2,000円 U24(24歳以下、要年齢証明書、枚数限定)1,000円

地点
『トカトントンと』

2013年3月15日(金)〜3月24日(日)全6公演
休演日:3月20日〜3月23日
会場:神奈川県 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

原作:太宰治
演出・構成:三浦基
出演:
安部聡子
石田大
窪田史恵
河野早紀
小林洋平
庸雅
美術:山本理顕(建築家)
照明:大石真一郎
音響:徳久礼子
衣裳:堂本教子(KYOKO88%)
舞台監督:山口英峰
プロダクションマネージャー:山本園子
技術監督:堀内真人

料金:
一般3,500円
シルバー(65歳以上、要身分証明書)3,000円
U24(24歳以下、要年齢証明書、枚数限定)1,750円
高校生以下1,000円(要生徒手帳、枚数限定)
2演目セット券6,000円(枚数限定)

プロフィール
三浦基

973年福岡生まれ。地点代表。演出家。桐朋学園大学演劇科・専攻科卒。99年より文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリに2年間滞在する。2001年帰国、地点の活動を本格化。05年、京都に活動拠点を移転。07年よりチェーホフ四大戯曲をすべて舞台化する「地点によるチェーホフ四大戯曲連続上演」に取り組み、第三作『桜の園』にて文化庁芸術祭新人賞受賞。11年度京都市芸術新人賞受賞、他受賞多数。著書に『おもしろければOKか?現代演劇考』(五柳書院)。

佐々木敦

1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。雑誌『エクス・ポ』編集発行人。『批評時空間』『未知との遭遇』『即興の解体/懐胎』『「批評」とは何か?』『ニッポンの思想』『絶対安全文芸批評』『テクノイズ・マテリアリズム』など著書多数。2013年度より早稲田大学文学学術院教授。



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