今、見ることに油断していないか? 村松亮太郎×鈴木康広対談

「映像の世紀」と言われた20世紀を越え、現在では誰もがあらゆるシーンで映像表現に触れ、気軽に映像を作ることが可能な日々がやってきました。しかし、用意された環境に安住しない挑戦者たちは、この時代にも絶えることはありません。彼らの視線は今、どんな映像世界を見据えているのでしょうか?

映画、MV制作から、3Dプロジェクションマッピングまで多彩な映像表現を手がけるNAKEDの村松亮太郎代表と、視覚表現の最前線で活躍するゲストとの対談シリーズ。第2回のゲストは、身近なものを使って遊び心のある作品を発表するアーティストの鈴木康広さん。劇映画からアート、さらに瀬戸内海を開く『ファスナーの船』などの鈴木作品やパラパラマンガまで、固定観念にとらわれない「映像」の可能性を語り合います。

表現とそれを受け取る側のコミュニケーションが、いまさらに変貌してきている(村松)

村松:はじめまして。今日はよろしくお願いします。

鈴木:こちらこそ、対談のお誘いありがとうございます(木の葉の形の名刺を渡す)。

村松:あ、これ、鈴木さんのインスタレーションに使われるものですね。表に開いた目、裏に閉じた目が描いてあって、ひらひら舞い降りると無数のまばたきに見えるっていう。

鈴木:はい、『まばたきの葉』という作品です。

まばたきの葉 Blinking Leaves 2003
まばたきの葉 Blinking Leaves 2003

村松:鈴木さんは映像や立体を用いたインスタレーション、またパラパラマンガから海を進む船まで、手法もスケールも様々な作品を手がけていますね。パラパラマンガも映像の1つと言えますが、まず、普通の意味での映像作品は、どういうものから始めたのでしょう?

鈴木:もともとは実写から作り始めたのですが、最初の映像インスタレーション『椅子の反映 inter-reflection』のときから、モノと映像が切り離せない形の作品を作っていました。これは言語への興味から派生して生まれたものですが、ジョセフ・コスースの美術作品『1つと3つの椅子』の映像化、空間化のようなアプローチでした。

―コスースの作品は、実物の椅子を中央に置いて、その左右に、椅子を写した写真と、「椅子」を説明するテキストを貼り出したコンセプチュアルアートですね。対して鈴木さんの『椅子の反映 inter-reflection』は、ミニチュアの椅子を円盤上で回転させ、それを小型カメラでとらえた拡大映像をその後ろに投影、さらに円盤を灯りが照らすことによって、椅子の影が五線譜上の音符に見えるというものでした。

椅子の反映 inter-reflection 2001
椅子の反映 inter-reflection 2001

村松:僕は、映画、MV、プロジェクションマッピングと、ちょっと多重人格的に、でもそれぞれに強い執着をもってやっているのですが(笑)、もともと映像の世界に入ったきっかけが映画なんです。だから、スクリーンの枠にとどまらない鈴木さんのような視点は新鮮で、面白いですね。

―村松さんが手がけて話題になった、昨年の東京駅でのプロジェクションマッピング『東京ミチテラス2012』の『TOKYO HIKARI VISION』や、マッピング技術を活かしたROOKiEZ is PUNK'DのMV『ZEROSATISFACTION』なども、そういう関心に突き動かされて始まったのですか?


村松:はい。マッピングもモニターを飛び出して空間に展開する映像体験だから、映画とはまた違う魅力があるんです。屋外でもやれますしね。

鈴木:僕も続く2作目は屋外で着想したものでした。『遊具の透視法』という作品です。

遊具の透視法 Persepective of the Globe-Jungle 2001 写真撮影:川内倫子
遊具の透視法 Persepective of the Globe-Jungle
2001 写真撮影:川内倫子

―児童公園にあるジャングルグローブを夜間に回転させて、パイプの残像でできる球面上にプロジェクションするものですね。その映像は、実は同じ遊具で昼間遊んでいた子どもたちの様子だというのも、いろいろなことを感じさせてくれます。

鈴木:どこか幻を見てるような感じもある作品ですが、映画と比べると、より日常と連続性がある映像体験だと思います。現実の風景も含め、作品を観た人の中に何が想起され、その後どんなふうに記憶として残っていくのか、個人の体験と映像との関係を考えるきっかけになりました。

村松:例えば映画は見る側に強いるものが多いぶん、ある意味ではより完成された形とも言えます。でもこの『遊具の透視法』みたいな作品は、そこにいた誰もが気軽に体験できる。そう考えると、映像のありかたって本当に多様ですね。印象に残る映像体験をするには、体感性の高さは1つのキーワード。映画界でもそこに向かう動きはあって、「観るのではない。そこにいるのだ」というキャッチコピーの『アバター』がそうだった。ただ、あれはバーチャルなものをリアルに見せていたけど、マッピングや鈴木さんの作品はその真逆ですよね。リアルなものを使って、バーチャルなものを見せる。

村松亮太郎
村松亮太郎

鈴木:確かに。映画館って座席に固定されて、目と脳だけで見る設定ですよね。でも街中でマッピングが行われるときには、各々がどこで、どう見るかが体験を大きく左右します。だから、映像を見るときに身体がより重要になる。

村松:だから映像で得られる「フィジカル」な感覚って何だろう? と考えたときに、僕は大自然の景色を高精細度で再現するとかよりもマッピングみたいな空間演出の方向に興味がいくんです。

鈴木:なるほど。僕はですね……今みんなが映像体験に対して「油断」してると思ってるんです。

村松:……油断というと?

鈴木:本当は、最上の映像体験をするためには、見る側の努力が必要なんですよ。例えば、映画を見るのにかかった時間は90分だとしても、感じられる時間はもっと広がりのあるものですよね。「見る技術」と言ってもいいかもしれませんが、見たものに対して、自分がどれだけ感覚を開いて受け止めることができるか。さきほど映画は目と脳で見ると言いましたが、感覚が鋭ければ、そこから身体性が呼び覚まされることだってあり得る。だから、大事なものを受け取ったら、その体験をふりかえる十分な時間も必要だと思う。感動した作品はあえてしばらく見ないというのも1つの手ですよね。

村松:今は、例えば通勤電車でスマートフォンを使って映画を見る人も多いですよね。それって従来の映画体験ともまた違うし、簡単に見られるようになった一方で、見るという体験の価値についての問いはなされるべきかもしれません。映画を倍速再生で見る人もいますが、そうすると芝居で作った間合いも意味ないなとか、僕もよく考えます……(苦笑)。

鈴木:でも、もしかしたらスマホで倍速再生しても最上の映像体験ができる人間が増えてる、って考え方もありますけど。

村松:新しい視点ですね(笑)。いずれにしても、表現とその受け取り側とのコミュニケーションの形は大きく変わってきています。受ける側も溢れている映像表現の中から、特別な体験を選びとれたほうがいいと思うし、作る側も今の状況をどう捉えるかということですよね。ヘッドフォンで聴くのに最適なセッティングでレコーディングするミュージシャンが出てきたりもしてるわけですから。

美術館や映画館に行かない人たちにもちょっかいを出したい。そこが自分にとってはスリリングなんです。(鈴木)

―鈴木さんは空港や海など、パブリックな空間で作品を展開することも多いですよね。そうした場で不特定多数の人に体験してもらうことを、どう考えて表現しているのでしょう?

鈴木:まず「アートだと思わせてはいけない」って思っています。

村松:それはどういう意味?

鈴木:パブリックな場所では、「あぁ、芸術なんですね」で終わってしまうと見てもらえない。興味の入口をどう作るかが重要なんです。あるキュレーターに「鈴木さんの作品は、見た目が面白すぎる」と言われたこともありますが……。

村松:それは賞賛半分、苦言半分?(笑)

鈴木:美術の世界では、積極的に見に来る人にだけ届けばいいという考え方もあるんですよね。でも僕は、よくわからなくても、なんだか見ていたくなるものに惹かれるし、とにかくまず見てもらうことが大事だと感じていて。

村松:美術展や映画館なら、初めから見る気満々な人ばかりですけどね。

鈴木:もちろんそういう場に独特の豊かな解釈や対話も生まれるでしょう。でも既に出来上がったフレームで作品を眺めても、どこか物足りない。そこに来るはずのなかった人たちにちょっかいを出して、見るきっかけを作りたい。そこにはおのずと新しい「言語」が必要とされて、人が動き始める。そこが自分にとってはスリリングなんです。アートのためにアートを作るわけじゃない。誰かに見せたいシンプルな気持ちって結構大事かなって……なんか、だいぶ抽象的で真面目な話になっちゃいましたね?

鈴木康広
鈴木康広

村松:うん、すごく真面目な方だと思いました(笑)。ソフィア・コッポラの『somewhere』って映画があって、今それを思い出したんです。オープニングでフェラーリがエンジン音を響かせてコースを8周くらい延々と走るんですね。あれは彼女のパーソナルな記憶の映画だと思うのですが、出だしからしてその宣言みたいでグッとくる。でも「長いな」と早送りする人のほうが多数派かもしれない。それに、日本全国で一番観られてる映画が『海猿』だっていうときに、作る側として多くの人に伝えるにはどういうアプローチがいいか、難しい面はありますね。

鈴木:どんな表現でも、まずは見始めてもらうための工夫と、その上で「ここは特に見てほしい」というメッセージや機能がちゃんとあればいいと思います。僕はそこをできるだけ無意識的にやりたいのですが。手法として、人々が思わず参加してしまう要素も大事かなと思います。『まばたきの葉』は葉を舞い散らせるので、装置に何枚も葉っぱを入れ直さなきゃいけないんです。最初はそれを会場の係にやってもらうつもりでした。でも最終的にお客さんたち自身が喜んでやってくれるものになった。ある意味で不完全な作品だけど、結果的に参加型になり楽しんでもらえたんですね。

自分が何者かを定義したくないという気持ちがある。(村松)

村松:いいエピソードですね。ちなみに鈴木さんの肩書きは「アーティスト」でいいんですか?

鈴木:実はその言葉にはしっくりはきてなくて、でも他にない。でもアーティストとしての自覚はあります。生きてきたことすべてが作るものや活動にリンクし、意味を帯びてきた実感があるし、「キャリア=自分の今の年齢」と言えるのがいいなと思っていて。

村松:生きることがアートワークだと。素敵ですね。

鈴木:公での作家活動が10年過ぎた頃から、やっぱり変な生活だと思いました。例えば「ファスナーの形をした船が海を進むと、その航跡がまるで海原を開いているように見える」、そんな作品を作ろうとすると、ファスナーについてず〜っと考え続けるわけです。世界中の誰よりも……YKKの人より考えたかもしれない(笑)。それってかなり特殊な状況ですが、その先に見えた世界を伝えていくのが仕事かなと。その中で僕自身も変わっていくから、作品を作った後にそれを別の形で伝えるのも大切だと考えてます。

ファスナーの船 Ship of the Zipper 2004
ファスナーの船 Ship of the Zipper 2004

―常に見ることから始めるのがアーティスト、とでもいうべきか。1つの対象をじっくり見て考える姿勢は、先ほどの「最近の人は見ることに油断してる」とは対照的かもしれませんね。

鈴木:まぁ、たまたま僕がファスナーや遊具たちから「任命」されたような感覚なんですけどね。ファスナーたちが集まる会議で、「鈴木になら任せてもいいんじゃない?」みたいな(笑)。

村松:ハハハ、「あいつは最後まで諦めずにやってくれそうだし」って(笑)。

鈴木:それでアイデアを授かって、僕はそれを形にすることで世の中に自分の居場所を得ることができる。どちらが先かはわからないところもあるんですけど。

村松:鈴木さんの第一印象が、ものすごいピュアな目をしていてびっくりしたんです。僕なんかある意味、いろいろやってるうちに自己矛盾や業にまみれて(笑)、人間の不完全性なんかも飲み込みながらやっている。

鈴木:大事なのはその人がいかに「ちょうど良く」生きていけるか、ですよねきっと。誰かの真似はできないし、社会との接点をもつ限りは、何かの役に立たないと成り立たない。作品を売って生きていくだけが、アーティストのありようでもないし。僕は反則技というか、その時々にタイミングよく助けや新しい関わりがやってくる感覚はあります。「助け」というのは、儲かりすぎないという意味も含めて(笑)。

村松:やっぱりコミュニケーションへの意識が高いですよね。エゴに忠実に作るみたいなことよりも。

鈴木:作品のほうが一人歩きしていく感じもあって、「俺が作ったぞ」感はあまりないんです。見る人は、アーティストの「作風」から表現をとらえようとするけど、逆に見えなくなっていることもあるとも思う。手法や作風は結果として作家の特性を示す1つの現れであっても、そこに至る間に起こっていく自分自身の変容が最もエキサイティングだし、そうでなければ作家側もディテールに精力を注ぐ意味がないでしょう?

村松:金太郎飴的なほうが商品としては成り立ちやすいかもしれないけど、僕も自分が何者かを定義したくないという気持ちがある。映画も1本ごとにペンネームを変えようかと思ったり(笑)。

鈴木:でも、そもそも人が毎日同じ名前で生きているのも、不思議なことですよね。生物学的には細胞も日々変わっていくし、実際、作品を作っていると自分の思考もすごく忙しく更新されていきます。見る度、作る度に自分が更新されている感覚がありますよ。

自分のしてることって「笑い」かなと思うんです。(鈴木)

―お二人にとって作品を体験する他者、というのはどんな存在でしょう?

鈴木:みんなが僕の作品を見ているとき、「自分もそこにいる」っていう時間がすごく好きです。そこに世界の見方のヒントがある気もしていて。基本的に自分が見てみたいものを作品化しているから、みんなが体験している姿を見たいってことなのかもしれませんね。

村松:そこは僕、鈴木さんに比べるとコミュニケーション不全の気がある(苦笑)。見る人のハートにタッチするものにしたいけど、作った後は作品はお客さんのものという感覚もあって。例えばゴダールの映画を観るとみんながああだこうだと議論するけど、本人の想いとは別じゃないですか?

鈴木:あ、わかった。僕は作品を完成させるものだと思ってないんです。発表した後も、その状況を見て改良してしまうし(笑)。

村松:常に未完。それはそれで素敵ですね。ピカソも似たことを言っていた気がします。ではなぜ作るのかっていうのは、鈴木さんの場合、やはりコミュニケーションの欲求?

鈴木:作ることで初めて社会とつながる、自分の居場所があるという意識はあります。今はいろいろ声もかけてもらえるようになりましたけど……最初の頃は「自分の居場所」は浜松市の実家くらいでしたからね(苦笑)。

村松:鈴木さんのやっていることって「空間演出」かなと思っていたんです。でも、物理的空間への興味というより、お話してきたようなことの延長線上で、必然的にパブリックスペースが舞台になることが多いんですかね?

鈴木:答えになるかわかりませんが、最近、自分のやってることって「笑い」かなと思うんです。笑いが起きるのって、一瞬のことじゃないですか。意外なことが起きたとき、よく知るものと意外なものがぶつかったとき……そんな瞬間に、現在・過去・未来の境も越えた異空間が生じる。そういう瞬間を作りたくて、僕の作品は一瞬に勝負をかけているとも言えます。僕がよく使う「まばたき」という言葉の別名も「笑い」に似ているかも。とどめることのできない意識の流れの中に、一瞬だけ「共有」「同意」のための広場が生まれるというか。

村松:笑いは無意識にも近いものですよね。今朝、悪い夢を見て起きてしまって、布団の中で「原罪」についてiPhoneで調べてたんですよ。

鈴木:……え、何かいろいろ大丈夫ですか?(苦笑)

村松:まあまあ(笑)。すごくはしょって言うと、意識と無意識との葛藤から原罪が生まれてしまうっていう話で、もし無意識だけに従って生きられるなら、ある意味健全だなと思ったんです。

鈴木:無意識って、ある種の中毒性があって危険な匂いのするエリアですよね。でも笑いには、人を健康にしたり、何かを救う力もある。その矛盾が一瞬で起こる気がします。原罪といえば、アダムとイヴが食べてしまった禁断の果実ってありますよね。僕の作品にも『りんごのけん玉』というのがあって、見た目は名前そのままですが「いつ上から落ちてくるかわからないりんご」を他者に見立てて、「サクッと刺す」ことで自分と一致させる、という考え方がそこにはあります。何か、お話してるといろいろつながってきて面白いですね。

りんごのけん玉 Apple Kendama 2002
りんごのけん玉 Apple Kendama 2002

村松:お互いに違うタイプだからこそかもしれません。僕のほうがよっぽど商業的な仕事をしているんだけど、鈴木さんのほうがむしろコミュニケーションについて広く考えているのも不思議ですね。鈴木さんが持っている時間、空間を越えて広がってつながるような感覚も独特だと思いますよ。

鈴木:現実を少しだけ変容させ、人の意識を変えること。身体は1つだけど、一瞬ならどこにでもつながることができるんですよね。「空間」「時間」という、哲学者も思想家もさんざん語ってきたけどなお語り尽くせないものが僕には魅力的です。想像の中だけだったら、タイムマシンにも乗れるわけですが、僕はさらに現実との接点に興味があります。

村松:鈴木さんの表現にはヒューマンな感性や身体性も強く感じますが、テクノロジーへの関心はどうなんですか? 毎年出版されている『映像作家100人』という本に今回NAKEDも紹介していただけたんですが、最初にその本が出た頃とは顔ぶれもだいぶ違い、今は技術を活かす人が多い印象で。

鈴木:ハイテクであることが重要ではなく、伝えたいことと手法がマッチしていればいいのではと思っています。僕は『水平線を描く鉛筆』という作品で、水色と藍色の色鉛筆を縦に半分に割り、色違いでくっつけ直しました。それで線を引けば、間にある目に見えない「水平線」になるという。人は目に映るものだけを見ているわけじゃないから、自分にとってはこの作品も映像なんです。目で見たものそのものよりも、それを受けて自分の中に浮かぶものこそ重要だと思います。

水平線を描く鉛筆 Drawing the SeaHorizon 2002
水平線を描く鉛筆 Drawing the SeaHorizon 2002

村松:作品制作を続けていく上で、何か変化はありますか?

鈴木:不思議ですけど、誰かからもらったテーマやお題が、かつて自分が考えてたことと思いがけずフィットするんです。さっきのけん玉の話で、ふってきたお題を自分の考えでサクッと貫きたい。そこはいつまでやっても飽きないですね。だから、例えば毎年定例で個展をするより、いつ来るかわからない依頼のほうが断然面白いです。

僕はよく、スタッフの企画書に「箇条書きで整理するのをやめろ」と言います。もっとイメージをとらえて、イメージで起こしてこいと。(村松)

―鈴木さんの作品では「見立て」も重要な要素ですよね。『りんごのけん玉』しかり、『ファスナーの船』しかり。例えばプロジェクションマッピングで、映像と、映像が示す意味の関係をどんな風に考えますか?

鈴木:僕は見立てを通して、対象をどちらともとれるよう両義的に落とし込むことをしています。村松さんたちの東京駅のプロジェクションマピングを見て面白かったのは、映像も魅力的だけど、プロジェクションの光が落ちたときにあの建物が一瞬消える感覚があった。東京駅の強烈な存在感が一瞬ゆらぐことで、かえってその存在に気づくというか。

村松:確かにプロジェクション対象と、そこに投影する映像の関係って、何を映すかだけに留まらないものがあります。例えば屋外彫刻に対してマッピングをやるとなったら、物質感のある彫刻表現に、映像で僕らが入っていくのはどういうことか考えますよね。鈴木さんは、異ジャンルとのコラボレーションにも関心はありますか? 例えばプロジェクションマッピングやインタラクティブアートは、舞台芸術、ダンスなどとも互いに接近しています。

鈴木:割と近い将来、舞台美術に携わるかもしれません。実は大学時代にも劇場空間にすごく惹かれた一方、当時はちょっと息苦さも感じてしまって。でも今の自分なら舞台でしか起こらない体験を作家として楽しめそうです。表現する生身の人間が出てくることも含めて、最高に贅沢な分野だと思っています。

―最後に、「見ること」の訓練というか、ふだんからそういう目を養うためのアドバイスをお願いしてもいいでしょうか?

鈴木:う〜ん。難しいけど……せっかくだから答えたいですね。「スケッチのすすめ」にしようかな? ふだんからよくスケッチをしています。「スケッチ」ってもともと、「印象を写しとる」という意味の言葉だそうです。だから筆で何かを描くだけじゃなくて、ちょっとした鼻歌やダンスもスケッチといえる。あらゆるメディアを総動員して、見えたものを自分なりに再現する痕跡を残し、そこから発見していくための努力ですね。僕の場合は絵と言葉にしていくことで、今日はそのノートも持ってきました。

スケッチが描かれたノート
スケッチが描かれたノート

村松:(見せてもらいながら)これ面白いですね。ただ「途方、用途、前途」って書いてある1ページがあったり(笑)。

鈴木:意味不明ですよね、書いた僕にはわかるんですけど(笑)。常に何冊か使用中のノートがあって、「今日はこのへんを持っていこうかな」と出かける前におみくじ的に選んでいきます。

村松:僕はよく、スタッフの企画書に「箇条書きで整理するのをやめろ」と言います。もっとイメージをとらえて、イメージで起こしてこいと。それは「印象そのものを写し取る」のとどこか似ている。

鈴木:スケッチしてるうちに自分でもよくわからない領域が出てくるようなリズムができると、すごくいいんですよね。僕にとっては、学生時代からいくつも作ってきたパラパラマンガがそうでした。わかってから描くんじゃなくて、描き進める中で、あ、自分の頭にはこういうイメージがあったんだと気づく。

村松:意識に対する無意識の勝利みたいな?

鈴木:そうですね。単に描いた絵が動くってこと以上に、自分の頭の中の絵が動き出すというのは、すごく映像的でもあると思うんです。映像の「像」って、「人」という字と動物の「象」の組み合わせですよね。この字はある中国のお話に基づいていると聞いたことがあって。ある人が象という動物について、目で見るのではなくその身体をなでることでイメージを湧かせたっていう。

村松:ネイティブアメリンの話で、「昔、人間はなろうと思えば何にでもなれた。それは、ただ思えばよかったのだ」っていうのを思い出します。今はそういう力を使うのが、下手になってきたのかもしれませんね。

鈴木:実はそれって、映像がこんなにも世界に溢れてしまったせいかもしれない。目を閉じて見る映像もあるし、まばたきした瞬間に見逃している世界があるからこそ、想像は広がるという想いも僕にはあります。

村松:それこそ、油断するなということですね。鈴木さんは作品や表現を通してのコミュニケーションをすごく考えていて、その意識が高いのが今日お話していて印象的でした。

左:村松亮太郎、鈴木康広

鈴木:村松さんみたいに映画や会社経営という大きな対象を相手にしていると、むしろそこまで考え込まないほうがいい場面もきっとあるんじゃないでしょうか。でも今日お話を聞いていて、映画への想いと同時に、そのフィールドだけではできない広がりも欲してるのだなと感じました。それって危険な兆候ですね(笑)。こちら側の世界へようこそって感じです。

村松:油断しないで精進しますね(笑)。今後ともお付き合いよろしくお願いします!

村松亮太郎関連イベント情報
『秋のスペシャルナイト 3Dプロジェクションマッピング』

2013年10月16日(水)〜10月17日(木)
会場:東京都 東京国立博物館 平成館
時間:18:00〜21:00(入館は20:30まで)
投影時間:18:10〜20:20(約5分間の映像をループ上映予定)
料金:3Dプロジェクションマッピング鑑賞券+特別展「京都−洛中洛外図と障壁画の美」特別夜間開館入場券1枚+マッピング映像DVD
料金:2,400円

鈴木康広関連イベント情報
『PAPER –紙と私の新しいかたち-展』

2013年7月20日(土)〜9月8日(日)
会場:東京都 目黒区美術館
時間:10:00〜18:00
出展作家:
植原亮輔と渡邉良重(キギ)
鈴木康広
寺田尚樹
トラフ建築設計事務所(鈴野浩一、禿真哉)
DRILL DESIGN(林裕輔、安西葉子)
西村優子
休館日:月曜
料金:一般600円 大高生・65歳以上450円 小中生無料

書籍情報
鈴木康広
『まばたきとはばたき』

2011年11月10日発売
著者:鈴木康広
価格:2,625円(税込)
発行:青幻舎

プロフィール
村松亮太郎 (むらまつ りょうたろう)

映画監督、映像クリエイター。クリエイティブカンパニーNAKED Inc.代表。2006年から立て続けに長編映画4作品を劇場公開した。自身の作品が国際映画祭で48ノミネート&受賞中。近年は3Dプロジェクションマッピングに着目し、昨年末話題となった東京駅の3Dプロジェクションマッピング『TOKYO HIKARI VISION』の演出を手掛けた。今年10月に東京国立博物館で開催される特別展「京都」の3Dプロジェクションマッピングの演出を担当することが決定している。

鈴木康広(すずき やすひろ)

1979年静岡県浜松市生まれ。2001年NHKデジタル・スタジアムにて発表した「遊具の透視法」が年間の最優秀賞を受賞。アルスエレクトロニカ・フェスティバルへの出品をきっかけに国内外の多数の展覧会やアートフェスティバルに招待出品。2003年に発表した『まばたきの葉』は多くのパブリックスペースへ展開を続けている。瀬戸内国際芸術祭2010では『ファスナーの船』を出展し話題を呼んだ。2011年、初の作品集 『まばたきとはばたき』(青幻舎)を刊行。現在、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科専任講師、東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室客員研究員。



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