映像作家・山田智和の時代を切り取る眼差し。映像と表現を語る

米津玄師“Lemon”と、あいみょん“マリーゴールド”という、2018年における国内のポップミュージックの双璧をなす楽曲のミュージックビデオを手がけ、『SPACE SHOWER MUSIC AWARDS 2019』にて「BEST VIDEO DIRECTOR」を受賞した山田智和。刻一刻と変化していく都市の風景や、躍動する人間の身体性を、光と闇、水の「揺らぎ」などを用いて美しく描き出す彼の作風は、ミュージシャンのみならず多くのクリエイターを虜にし、ミュージックビデオをはじめCMやショートムービー、スチール写真など様々な分野での活躍が続いている。

水曜日のカンパネラやサカナクションとの一連の作品で頭角を現し、その後スタイルや手法を変化させながらも常にカッティングエッジな映像で我々を驚かせ続けている山田。その創作のコアにあるものは一体何だろうか。2018年に彼が制作した代表作を紐解きながら、その秘密に迫った。

「大衆と向き合う覚悟のある作品こそアートだな」ということを強く感じた。

—まずは先日の『SPACE SHOWER MUSIC AWARDS 2019』での、「BEST VIDEO DIRECTOR」受賞おめでとうございます。

山田:ありがとうございます。光栄です。

—2018年は、本当に様々な場所で山田さんの作品を目にしてきました。ご自身は、振り返ってみてどのように感じますか?

山田:2018年はとにかく作品をたくさん作りました。お正月のゆずさんのMV撮影(“うたエール”)にはじまって、大晦日に踊ってばかりの国のMV(“Ghost”)を撮影してと、本当に365日映像に向き合ったと思います。東京に雪が降った日も撮っていました。

年初めにゆずさんのお仕事をやらせてもらえたのが、自分的にはすごく大きかったです。これまでにないくらい大きなプロジェクトだったんですけど、おふたりと会話するなかで「伝えることを諦めない」とおっしゃっていて、「大衆と向き合う覚悟のある作品こそアートだな」ということを強く感じましたし、その言葉は2018年の自分のひとつの大きな指針にもなりました(参考記事:2020人のゆずがゲリラライブ。話題CMを東畑幸多と山田智和が語る)。

山田智和

山田:もちろん、米津玄師さん、あいみょんさんという時代のアイコンとなるような方たちと仕事ができたのもとてもありがたいことだと思います。インターネットの普及によって価値観がどんどん細分化されていくなか、彼らのように多くの人たちにしっかりと作品を届けられる力のあるアーティストが登場したことも、シーンにとってすごく大きな出来事だったのではないかなと。

—2018年が、ゆずではじまり、踊ってばかりの国で終わった1年だったのは、山田さんの仕事の振り幅の大きさを象徴していますね。

山田:昨年で言えば、踊ってばかりの国やKID FRESINOとの一連の作品(“Coincidence”“Arcades ft.NENE”“Retarded”)が、自分にとっての「核」の部分だと思いますね。即興性があって、自由に作るというのは昔からやってきたことでもあるので。

踊ってばかりの国は、平成最後の大晦日に渋谷で撮影したんですけど、学生時代からのメンバーで撮影していて、自分のライフワークに最も近い感覚があります。ある意味、一番大切にしている「場所」な気がします。

—雪の日に撮影されたというビデオは、KID FRESINOの“Coincidence”ですよね。あのビデオも素晴らしかったです。

山田:本当は別の企画で決まっていたのですが、東京に雪が降った当日にどうしても撮影したいと思って、アーティスト、スタッフに集合してもらいました。今、これが撮りたいっていう気持ちが湧くことほど、幸せなことはないんだと思います。その気持ちに嘘がないというか。

今、インターネットでたくさんの見本があって、なんとなく「海外のかっこいい感じでやっとけ」みたいな風潮があるですけど、そういうのって見てても気持ちが動かないんですよね。ただのかっこいいとか、綺麗だけで終わってしまう。それは誰でも撮れる。それよりも自分の感覚に目を向けて、しっかりと向き合う方が伝わると思うし、撮影してて本当に楽しいんです。

僕が映像を作る理由は、言葉を超える瞬間を捉えたいから。

—今回の取材は、昨年でも特にエポックメイキングだった作品について、深掘りしたいと思っています。まず、米津玄師さんの“Lemon”についてはいかがでしょう。

山田:“Lemon”は米津さんとの初めての仕事でしたが、曲を聴かせてもらったときから素晴らしい楽曲だと思いました。曲の持つテーマと映像に盛り込んだテーマが時代にうまく合致したからこそ、ここまで話題になったのかなと思っています。

—このMVは、画角やカメラワーク、演出などに実験的なマインドが反映されているように感じましたが、そういった作品が3億2000万回以上(2019年3月時点)も再生されているということには非常に大きな意味があると思います。

山田:もちろん、これだけのことができるのは米津さんの楽曲が素晴らしいことに尽きると思います。“Lemon”のことはよく聞かれますが、そこまで深く話したことはなくて。制作段階の打ち合わせでしっかりとテーマを共有できている感覚が僕らにあって、それをあとからどうこう言葉にしてしまうと途端に薄っぺらいものになってしまう気がするんです。テーマはそれぞれの解釈があっていいし、気づく人がいればいいくらいの感じでいるというか。それくらい余白があるほうがいい作品だし、健康的なんだと思います。

山田:僕が映像を作る理由は、言葉を超える瞬間を捉えたいからなんです。辻褄が合わなくても、言葉で説明できなくても、映像として成り立つもの。映像は言葉の代わりや、社会とのコミュニケーションの方法でしかないんです。それに、どんなジャンルの表現でも「愛」に触れてない作品なんて存在しないと思う。

どんなカメラを使おうが、技術的に多少稚拙であろうが、心動く映像は絶対に撮れるはず。

—ともあれ強烈な違和感と、抗い難い魅力がないまぜになった不思議な作品です。米津さんの踊りや、その後ろで踊る人々の動きも独特ですし、アスペクト比が1:1になっているのも影響しているのかと。

山田:ちょっと前にグザヴィエ・ドランが1:1で映画を撮りましたが(2014年公開の『Mommy/マミー』)、あれはInstagram時代の象徴でもあると本人が語っていて。画角が狭まることで人物に対してより感情移入ができるということを表現してみせたのですが、“Lemon”でやってみて新しい発見がありました。この画角で見る映像は、FaceTimeやSkypeに近いものがあるんじゃないかと。

画面から直接こちらに語りかけてくるような、「正対の関係」を上手く作れた気がします。米津さんがいて、その後ろで祈っている人たちがいる、そして、米津さんの視線の先には踊っている女性ダンサー(吉開菜央)がいる。視聴者は、米津さんとダンサーの間にいるという、新しい視点の軸が生まれたんです。私たちが、知らず知らずのうちにFaceTimeやSkypeなどで慣れ親しんだ視点を今回、意識的に取り入れられたのが大きな成果でした。

—なるほど。

山田:それにアスペクト比は、時代に左右されやすいものだと思っています。そもそもなぜ、今は16:9になっているんだろう? なぜYouTubeに合わせなきゃいけないのか? というのは常々考えていて、“Lemon”ではそこから自由になってみたんです。

1:1であれば、この先再生デバイスが縦長になろうが横長になろうが関係ない、と。……円型の画面になってたら別問題ですが(笑)。この素晴らしい楽曲は「時代に左右されたくない」という思いで試みた1:1により、今話したような現代的な視点を発見したわけなんですが。

—あいみょんの“マリーゴールド”も、非常に不思議な作品です。部屋のシーンは画面も暗いし、あいみょんの顔も影になっていて見えなかったりする。でも強烈に惹きつけられるリアリティーがあって。

山田:この曲は、風のなかに佇んで歌っているような、涼しげなイメージですけど、歌詞を見ると「これってどっちの意味なのだろう?」と思わせる二面性があって。マリーゴールドという花自体が、両極端の意味の花言葉を持っているんですよね(嫉妬、絶望、および健康、可憐な愛情などが代表的)。

なので、映像にも異なる要素を入れたいと思いました。アクティブなスケボーに乗っているのに、雨でずぶ濡れだったり、暗い部屋と明るい屋外の対比だったり。フィルムとデジタルを混ぜたのも、そういう対立構造を作るためです。

—撮影場所は上海だそうですが、曲の後半で部屋から外に飛び出したときの開放感がとても印象的です。

山田:実はこのビデオ、僕が撮影しているんです。というのも、最近はいろんなプロジェクトに携わり、優秀なカメラマンさんや美術さんと仕事をしていくなかで、「嘘っぽくなってないか?」と感じはじめていて。要は、自分の実力以上のことができるようになっていくことへの「疑い」があるんです。

もちろん新たな可能性を得られることは絶対に正義だと思うし、そこまで責任を負う必要がないとも思う。でも自分は映像ディレクターになりたいわけじゃないんだと気づいたんです。それで、この曲では僕がカメラを回してみました。

山田:曲自体も私的な内容だったので、上手すぎると伝わらない熱量みたいなものが込められたらと。今は、クオリティーの高い映像を求められることが多いけど、それすら「マストではないだろ?」と思うんです。職業としては必要な要素だけど、表現としてはファーストチョイスじゃない。

どんなカメラを使おうが、技術的に多少稚拙であろうが、心動く映像は絶対に撮れるはずですから。Charaさんの“Tiny Dancer”も自分で撮影監督をしたんですけど、それとはまた違う角度で自分のクセを出せたかなと思います。

「暗い闇に、光を灯していく」存在こそ尊い。

—対立構造に関しては、“Lemon”も“マリーゴールド”も光と闇の対比が描かれていますが、山田さんにとっては重要なテーマですか?

山田:光には「日常を肯定する力」があると思っています。僕の作品のなかでは、陽の光や街明かりなどを象徴的に使っていることが多いですね。それも、単に明るいもの、綺麗なものにはあまり意味を感じていなくて。

—街明かりといえば、堀込泰行さんの“WHAT A BEAUTIFUL NIGHT”も、のんさんの表情をひたすら追いながら、彼女の顔に反射する街明かりも山田さんは見せたいのだろうなと思いました。

山田:具体的なシーンを見せなくても、彼女の心情と、街明かりが呼応してひとつの表情になるというのを捉えたくて。それだけで十分ストーリーになるなと思ったんです。ある種、物語的なものとは違う表現でストーリーを描き出せるんじゃないかって。

—光と闇というのは、日常と非日常、生と死、意識と無意識といった対立項の象徴でもあるような気がしていて。“今夜このまま”のミュージックビデオで、あいみょんがランプを持って闇のなかを移動していくシーンは、水曜日のカンパネラの“メデューサ”(2015年)で、コムアイさんがシャンデリアを持って闇へ入っていくシーンと呼応しているように思いました。

山田:そこに気づいてくださるのはとても嬉しいですね。いつの時代も「暗い闇に、光を灯していく」存在、つまりこの時代を牽引していくことって、とても勇気がいるし、尊いと思う。そういう人の表現は、みんなが心のなかに抱きながらも、吐き出せないでいる思いを受け止め肯定してくれる。“今夜このまま”はそのことを表現した映像ですね。あいみょんの歌が愛情を持って日常を照らすことで、一つひとつの景色や、歴史を鮮やかにしていく映像になればなと。このMVも自分で撮影監督をしています。

—それでいうと、米津さんの“Flamingo”は「闇」の部分を描き切った作品なのではないかと感じました。

山田:そうですね。本当は目にしたくないものや、醜さをテーマに制作しました。日常生活のなかで誰しも、生きている限り理不尽な目に遭うじゃないですか。意図せぬ悪意に見舞われることもある、それは決して地下の駐車場で起きることばかりじゃなく、普通に明るい場所、たとえば会社のオフィスの片隅からドス黒い怨念が襲いかかってくることだって、充分あり得ると思っていて。それでも、生きている限りは前に進んでいくしかない。

暗いところから見る光というか、「闇」と向き合っている人が放つ光は「美しい」とずっと思っていて。ただ、その「闇」に向き合うのは相当つらいことだと思うし、それも勇気がいる。米津さんは、「闇」からも目をそらさない真摯で純粋な人。だからこそ、一緒に仕事をしていて楽しいのだと思います。

カウンターであること自体に囚われてしまうと本質からズレてしまう。

—2018年は、質の面でも量の面でも凄まじい活躍ぶりでしたが、改めて振り返って、どんなふうに作品作りに向き合った1年でしたか?

山田:2018年は、「自分は自分でしかない」という当たり前のことを受け入れた年でもありました。自分のテーマ性や作家性というのは、自然と浮かんでくるもので、無理に変えようとして自分に嘘をつくのではなく、メディア、ジャンルが変わっても同じ自分のテーマを作り続けるほうが美しいし、そうやって積み重なっていくことで増す説得力もあるんじゃないかって考えるようになったんです。それが最終的に総体として見たときに、「作家性なるもの」になればいいくらいで、そこ自体は全く重要じゃない。あくまで大事なのは「自分のストーリーを撮る」ということです。

具体的には、2018年は「水」がテーマだったんですけど、“マリーゴールド”にも雨のシーンがあったし、“今夜このまま”でも揺れる水面を撮っていたし。光もそうですが、水の「揺らぎ」みたいなものがストーリー以上に「ストーリー性」を持つ瞬間があって。そういうものをずっと追いかけていた気がします。KID FRESINOの“Retarded”も水辺を延々と歩く映像でした。水って、角度によっては危ういし、美しいところが好きですね。

—向き合うテーマ性は同じでも、スタンスはこの5年間で変化しましたか?

山田:ものすごく変わりました。数年前、水曜日のカンパネラの“メデューサ”を撮っていた時期は「アンチ体制」だったし、カウンターとしての表現をしていたと思うんです。「こんな映像が作れる俺を見ろ!」という「find me」のメッセージ。でも、カウンター的な表現って実は簡単なことだなと気づいたんですよね(参考記事:水カン・コムアイが語る、世間からの「消費」に抗うイメージ戦略)。

それって実は表現でもなんでもなくて、むしろマーケティングの発想に近いし、カウンターであること自体に囚われてしまうと本質からズレてしまう。“マリーゴールド”やNulbarichの”VOICE”(2018年)を撮っていたときは、もはやアンチとかカウンターとかどうでもよくなっていて。「find me」ではなく「follow me」というスタンスなんですよね。こっちについてきたら、面白いかもよ? くらいのスタンスです。

—カウンターを「される」側の覚悟ができた、ということなんでしょうか。“Lemon”も“マリーゴールド”もものすごく攻めた作品ですけど、それをメインストリームでやるっていう。

山田:そうですね。体制であることも否定しないというか。そこでの役割もきっとあると思う。ゆずさんの話でも言いましたが、大衆と向き合う覚悟のある作品、わかりやすい / わかりにくいの問題じゃなくて、伝えることを諦めない作品こそがアートだと思うので。

もし全てを言葉で伝えることができたら、そもそも映像を作る意味なんてないと思う。

—もうひとつ、山田さんの映像のなかには「ダンス」のシーンがたくさん登場しますよね。「ストーリー性」と同じくらい、山田さんの作家性の重要な部分を占めているような気がして。今、この瞬間の連続が人生だとしたら、ダンスこそが「今、この瞬間」の象徴なのかなと思いました。

山田:振り付けが入って、バシっと決めるダンスも美しいと思うんですけど、僕が撮りたいのはもっと刹那的なものというか。その人の身体から湧き上がってくるようなダンスなんですよね。水曜日のカンパネラの“ユニコ”(2017年)というビデオを撮ったときに、そのことをコムアイさんから気づかせてもらってから、Nulbarich“VOICE”まで一貫していると思います。この両作品はいわゆるダンスビデオじゃないんですよね、僕のなかで。

山田:昨年は「水」がテーマと言いましたが、今は人の「顔」に興味があります。人にちゃんと向き合いたいというか。ただし、そこでもスタイルが邪魔しないように気をつけたい。

たとえばフィルムで撮影すると、一瞬でそこに「ノスタルジック」という情報が書き込まれてしまいますよね。そこに必然性や必要性があるのかどうか、わからないままやってしまうのは表層的でしかないと思うんです。もしかしたら、光すら邪魔になるかもしれない。

—「顔」といえば、2015年に公開されたサカナクション“years”の山口さんの表情も、素晴らしかったですよね。変わりゆく東京への複雑な思いみたいなものが映し出されていて。

山田:あのビデオを撮ったのは2015年で、東京が2020年に向けてどう変わっていくのかという議論の渦中で。都市開発が強制的にはじめられて、渋谷も豊洲も東京駅も、すべて工事中みたいな感じだった。東京が物理的に「壊れた状態」で、どっちに進むのだろう? いい未来なのか、それとも悪い未来なのか? というそのときの都市の感情を、ビジュアル化した作品だったんです。

山田:水曜日のカンパネラの“ツチノコ”(2016年)も同じで。コムアイさんが聖火ランナーとして、2020年までになくなってしまう東京の景色を回りながら弔っていくというテーマでした。

—実は、2015年の暮れに米津さんにインタビューしたとき、彼が今の山田さんと同じようなことをおっしゃっていたんです。

今住んでいるのは、とても不思議な街なんです。オリンピックのための再開発が進んでいて真新しい。でも建設途中のビルって、コンクリートが剥きだしで墓標のようにも見えるんですよ。オリンピックに向けて再開発を進めている、いわば希望に満ちた場所なのに、それが廃虚に見えるっていうのは、なんだかすごく不思議だなあと。(トレンドニュースより)

—そのときは面識なかったであろう2人が、こうして出会って作品を一緒に作っているのは、感慨深いものがあります。

山田:たしかにそうですね。僕が作品を作るとき、なぜそこで撮るのか? 東京で撮る必要はどこにあるのか? という「自分たちのストーリー」としての根拠が絶対に必要で。それがあるのとないのとでは、説得力が全然違うんです。「自分がどの位置から社会を見ているか?」というのは、必然的にロケ地などを選ぶ判断基準やテーマを作る基準になりやすいですから。作品作りは絶えず政治的なことにつながるんだと思います。

ただ、今はそのテーマで撮ろうとは思わないですね。2018年も東京を舞台にたくさん作品を撮りましたが、もう少し前を向いていきたいっていう姿勢になっています。今は、憂鬱な空気が街にも表現にも過剰に美化されてしまっていて、本当にそれでいいのかって自分は思う。向き合うっていうことは、「私、こんなに傷ついてます」ということじゃなくて、「それでも進んでいく」っていう姿勢なんじゃないかと。それは音楽っていうタイムラインとリンクしたときにとても相性がいいんだと思います。

—最後に、これからどんな映像を撮っていきたいかを聞かせてもらえますか?

山田:僕が映像をやる理由は、「言葉にしなくていい感情を表現できる」ということ。見えないものを見せたり、見ようとしたり、言葉にならない気持ちを表現したいと常に思っていて。もし全てを言葉で伝えることができたら、そもそも映像を作る意味なんてないと思う。

言葉で言うよりも映像で示したいというか、映像ならギリギリ伝わることもあるんじゃないかって信じているんです。それが、伝わるのであれば、メディアはなんでもいいと思っていて、「コマーシャルやMVはアートじゃない」とか言い訳せずに、できれば全てに愛を注ぎたい。その連続の先で出会う人々や表現を今から待ち望んでいます。

番組情報
『SPACE SHOWER MUSIC AWARDS 2019 BEST VIDEO DIRECTOR作品集 -山田智和-』

2019年3月15日(金)25:00~26:00にスペースシャワーTVで放送
※3月25日(月)24:00~25:00にリピート放送

プロフィール
山田智和 (やまだ ともかず)

映画監督、映像作家。東京都出身。クリエイティブチームTokyo Filmを主宰、2015年よりCAVIARに所属。2013年、WIRED Creative Huck Awardにてグランプリ受賞、2014年、ニューヨークフェスティバルにて銀賞受賞。水曜日のカンパネラやサカナクションらの人気アーティストの映像作品を監督し、映画やTVCM、ドラマと多岐にわたって演出を手がける。シネマティックな演出と現代都市論をモチーフとした映像表現が特色。



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