CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』

CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』2009年12月配信分(vol.254〜256)

vol.254 何故、わらわらと集うのか(2009/12/7)

全裸

凄い人のことを「あの人凄いよね」とか、最近目立ってきている人を「最近目立ってきているよね」と評価するような、自分は一歩も動かない採点マンのような人たちが苦手だ。若者たち、と書こうとしたのだが、となると自分もなんとなしにその中に含まれてしまいそうなので、人たちとして、ひとまず逃げてみた。その人が凄いのは、その人が凄いからであって、凄い凄いと持ち上げられることで初めて凄くなったわけではない。140字以内でつぶやくのも何がしかの欲を解消させる手段になってきているようだけども、機会(機械)を与えられた人たちが、それなりにふんぞり返って、あいつは凄い、こいつはイマイチと、診断報告に臨む姿はいたたまれないものがある。

30代後半だとか40代にさしかかったあたりの評論家や批評家に共通する風景とは、その当人を信奉するかのように、当人より10歳くらい下の支持者が群がってささやかなコミュニティを形成し、恥ずかしがる素振りもせず集団移動をさらけ出す姿である。誰々さんと知り合い、みたいな話が最も嫌いなもんで、あの人知ってるの、に対して、あっ私も、とやり合っている空気の中に置かれると、空気の吸い方からして分からなくなる。周りの人たちがまるでここは酸素バーよとばかりに気持ちよくしているから尚更だ。評論家や批評家として40歳前後というのは若い部類に入るから、その分非難も受けやすいのだけれども、それよりも問題は、その周辺にこびりついている20代後半じゃなかろうか。

何故わらわらするのか。よりカッコ悪い言い方をすると、近い世代の著名人にどうして媚びるのか。そういうことばっかりしているから、僕という主語を、誰の許諾も得ずに僕らに変換して、世代を背負った顔して艱難辛苦を連ねたりするんじゃないのか。そんなに、辛くないよ。苦しくないよ。面倒なことは多いけど、大丈夫だよ。誰か象徴的な手の届きそうな人がいる。そこに、「『僕』を『僕ら』にすることでしか『僕』を輪郭化できない人」が無責任な礼讃をふっかけていく。スケールがどんどんと小さくなっていくことへ、危機感は無い。むしろ、その収縮によって、具体的に近くなってきたように感じるもんだから心が躍ってしまっている。一員だ、という思い込みが僕と僕らの並列を許容させる。

団塊の世代を批判する、それより下の40代後半から50代の話って、愚痴と嫉妬の応酬を世代論や経済情勢に強制変換だけで、その空虚っぷりたるや、いたたまれない場合が多い。おれらはあいつらと違うから、と言い続けて、赤いちゃんちゃんこの寸前まで行くのかい。でも、この現代の「わらわら」についても、同じような結末というか途中経過を生むんじゃなかろうか。一見ポジティブに見えるけど、わらわらと集っているだけなのだ。借りてきた意見を複数形にして、僕らと言う。それは、アイツらが日本をダメにしたと立ち呑み屋で吠えるサラリーマンにすら到底及ばない。

何故、わらわらと引っ付くのだろう。深刻な顔をした討論なりに通底する、一定のコミュニティにいるという安堵感の体たらくが、いよいよ許せなくなってきている。

vol.255 なぜ市橋はかき揚げを喉に詰まらせたのか(2009/12/14)

全裸

新宿東口のクレープ屋の隣のそば屋で岩のりそばを食べていたら、市橋容疑者によく似た男性がかき揚げうどんを食べていた。これはもしかしたら市橋かもしれない。観察しておこう。あまり凝視すると勘付かれるかもしれないから、前歯に岩のりをつけるくらいの茶目っ気を見せておいた方がいいだろう。器にこびりついていた岩のりを手にやり前歯につけてみる。どうにも、おさまりが悪い。大きすぎる。舌で岩のりを回収して歯で半分に割り、その半分を舌先に置いて前歯に貼付けていく。上手くいった。これで、警戒心を解くことができるだろう。市橋の整形後の顔は何度も見た。ひょうたんに落書きしたような顔だ。かき揚げうどんを食べる彼は、急いでいる。かき揚げを2つに割り、その1つを一口で食べようとして、喉を詰まらせている。そのとき、顔がひょうたんみたいになった。うわ、これ、市橋だ。やべえ、市橋だ。後々、取り調べで彼は言うだろう。あの時、かき揚げうどんを食べていたのが通報者で、岩のりそばを食べていたのが僕だったら、気付かれることはなかったんでしょうね、と。

ちょっと待てと言う声がする。市橋は既に逮捕されているのにそんなわけはないだろうなんて言うんじゃないだろうな。違う。そうか。では何だ。かき揚げを食べたらひょうたん顔になったということは、かき揚げを食べさえしなければ彼はひょうたん顔ではなかったということにはなるまいか。その忠告には正直口ごもった。確かに彼の言う通りだったからだ。しかし、ひょうたん顔でないからといって市橋でないと証明されたわけではない。新たな仮説が必要だ。市橋はこちらが思う以上に巧妙だった。彼は整形手術後の証明写真を、咄嗟の判断でロールパンを口に入れた状態で撮ったのだ。この写真がそのうちに流布しても実際はひょうたん顔ではないのだから、自分だと気付かれる可能性は低くなる。警察はその写真を手に入れた途端、整形前の顔を無かったかのように、街中のひょうたん顔を探しまわるだろう。

一時的にでもひょうたん顔になることをおそれていた彼が、どうしてかき揚げの2分の1サイズを一口で食べようとしたかって? まだ分からないのか、君は。彼は、かき揚げを汁に浸して食べるのを好まなかったんだ。半分に割ろうとした時、彼は勢い余ってその殆どを汁に浸してしまった。彼はとても焦っていたね。かき揚げの魅力は、汁が浸されることで半減する、彼はそう考えるタイプだった。揚げたものを浸してネチョっとさせる、その状態が生まれたら、彼にとってかき揚げは、もはや、うどんへの障害物に他ならない。かき揚げを割るとき、サクッと割れるポイントを彼が見つけてさえいれば、自分が市橋だとバレることは無かったのかもしれないのに。彼はずっとそのかき揚げを恨み続けるだろう。俺はあそこのかき揚げを許さないからな。店のオッサンも言うだろう、バッキャロー、こっちこそ願い下げだよ、と。ただなこれだけは覚えておきな、オッサンが言い捨てる。おれはここで43年間もかき揚げ作り続けてるんだよ。おまえさんさ、2年半逃げ回ったくらいで、偉そうな顔しちゃいけないよ。

師匠も走る師走に、平民は更なるハイスピードランを強いられておりまして、岩のりそばを食べながらここまで頭を柔軟にさせることで逃避して、持ち場に戻るのであります。

vol.256 サイレントあおい的思考(2009/12/21)

全裸

地下鉄構内にある、ホームから線路をまたいだ壁側の広告モニターに、宮崎あおいが無声映像で、地下鉄の宣伝に励んでいた。このかわいさはどうしたものだろうか。これから地下鉄に乗ろうとしているのに、「わかった、地下鉄に乗りに行くよ、必ず」と決意させる強度がある。気が付くと、電車待ちをする皆々が宮崎あおいに視線を注いでいた。まじまじとその顔を見た。皆、穏やかな顔をしていた。光の遮断された忙しない夕刻の時間帯に、人はあまりこの顔をしない。もう一件取引先に寄ってから直帰しようとするOLも、受注ミスを謝罪に行き会社へ戻る途中のサラリーマンも、美術館をはしごしてケーキセットをほおばったばかりのオバ様も、今月の授業料の振込がヤバいことになってる予備校生も、皆、穏やかな顔をしていた。国民的に愛される、という枕詞があるけれども、これのことかと、実像を目に入れた気がした。

就職活動が早々に始まっているようだ。ノートにびっしりと何を書き込んでいるのか覗き見すると、座標軸のようなものに、根気、皆をまとめる能力、社交性、一か八かで勝負に出る、などと書いてある。根気は座標軸の下のほうにある。他は比較的上にある。根気は無いが、一か八かで勝負に出ることはできるようだ。なかなか稀なケースである。勝負に失敗した彼は、根気の無さゆえにジメジメ落ち込むのだろうか。厄介だ。面接を乗り切る上で重要と思しき所にはカラーペンで着色がなされている。線を引きすぎて、どこが肝心だったのか、散漫としている。とにかく彼は、人望と、その上で更に一か八かの勝負が出来るという自分のセールスポイントを、そのノートで確認していたようだった。

前に出る、目立つ、活躍する、という在り方が、より表層的になっている。それは何も淡々と伝統工芸を守る職人芸を愛でるべきだという方面の話題にしたいんではなくって、例えばこの学生の座標軸における話だ。体を張って人と接し、泣き、笑い、人に慕われ、もしかしたら誰かからは嫌われ、でも一貫しているのは、裸で、本音で、勝負できること……というような、全てをさらけ出すことが良しとされ、それが人物としての熱量に比例していく人物設計への評価高は、珍奇にうつる。その「さらけ出し」が不発に終わると、グズグズと愚痴り、ジメジメと沈んでいく。本音、というものが、裸の状態でなければ出せないと思っている輩が多くないか。着込んでも本音は出せる。視界良好の本音だけを望むと、最終的に寒風に晒されるのはその当人だ。しかも、その寒風に耐える抗体が無いくせに。そこに裸族が寄ってたかって正義感を重層的に畳み掛けると、宗教じみた結託が生まれる。そこで、涙、するらしい。勘弁して欲しい。

宮崎あおいがあの時どうしてあそこまで穏やかな視線をもらいつづけたのかを考え尽くした。それはサイレントだったからではないかと、結論を導いた。つまり「宮?あおいですっ。地下鉄にどうのこうの!」と喋り出したら、各々が宮崎あおいの魅力に突き進んで行くことは無かったのではないか。情報が欠けることで、自分の理解でその人の内部に入り込んでみることができる。これって、コミュニケーション作法の盲点じゃないかという気がする。自分の全情報を看板に掲げて売り出すのが、真の友情であったり、真のビジネスマンシップだったりする、らしい。でもそうじゃないでしょうと、2009年の総括のように、僕は思うんである。隠して備蓄して培養する魂胆が、人の余白を作る。表層的な塗り絵に勤しむ方々にクレヨンを配り歩く上っ面の器用さはもう要らないかもねぇと、宮崎あおいのサイレントに思うのでありました。



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