ALS(筋萎縮性側索硬化症)で手が動かなくなったギタリストは、目で音楽を奏でる

アイスバケツチャレンジとは何だったのか

「ALSアイスバケツチャレンジ」が突如ブームとなったのは8月のこと。世界中のセレブリティーが、氷水をかぶる映像や画像を次々と公開した。ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは、神経が溶け筋肉がなくなり全身の機能が停止してしまう病で、治療法はいまだに確立していない。アイスバケツチャレンジのルールは、指名された人が、氷水をかぶるか100ドル寄付するかを選択し、次の挑戦者3名を指名するというもの。多くの有名人が、氷水をかぶりつつ寄付するという選択をし、ALSの認知を広めた。

日本ALS協会は「『アイスバケツチャレンジ』で、冷たい氷水をかぶることや、寄付をすることは強制ではありません。皆様のお気持ちだけで十分ですので、くれぐれも無理はしないようにお願いします」と、謝辞を述べつつも加速するブームに困惑する様子を伺わせるコメントを出した。このブームは結果として、瞬間風速的に過ぎ去ってしまった。正直なところ、何の難病支援だったかすら忘れてしまった人も少なくないのではないか。

将来を約束されていた天才ギタリスト、ジェイソン・ベッカー

ALSは、発症から平均3~5年で亡くなると言われているが、1990年にALSを発症した天才ギタリスト、ジェイソン・ベッカーは「まだ死んじゃいない(Not Dead Yet)」。学校生活に馴染めず、家でギターばかり触っていたジェイソンは、わずか17歳で、かのマーティ・フリードマンとCacophony というバンドを結成する。速弾きギタリストを量産した「Shrapnel Records」から鮮烈なデビューを果たし、わずか20代前半でVan Halenのデヴィッド・リー・ロスのバンドへ加入する。

『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』©Opus Pocus Films
『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』©Opus Pocus Films

いざ、これからツアーへ、という矢先に生じた体の異変。足が腫れ、歩行が困難となり、手に力が入らない。精密検査を受けた結果、下された診断はALS。スティーヴ・ヴァイが抜けた後のデヴィッド・リー・ロス・バンド、このギタリストの座ほどスターダムが約束された場所は無かったが、ジェイソンがそのステージに立つことはなかった。学生時代から、食事をする時でさえも手放さなかったギターを、持つことすらできなくなってしまったのだ。

ジェイソン・ベッカー
ジェイソン・ベッカー

自ら死期を予告した29歳のアメリカ人女性

進行性の病であるALSは、進行につれて、気管を切開し呼吸器を繋げるかどうかの判断を迫られる。呼吸器をつけなければ、死ぬ。呼吸器をつければ、声は失われ、多くの自立から絶たれる。約15分に1度の痰の吸引、3分に1度程度の唾液の吸引、胃ろうから栄養の補給、排尿・排便、全てに人の手が必要となる。これらを看護師に頼むと1日8~10万円かかる場合すらあるというから(派遣事業制度など諸制度あり)、つまるところ、家族や親族が入れ替わり立ち替わりにケアすることとなる。本人の意識はあくまでも明晰、だからこそ、よりタフな介護環境が生まれやすい。

患者のうち、呼吸器をつける判断を下すのは約3割だという。残念なことに、ALSの息子の呼吸器を止めて母親が自殺未遂、という事件も起きている。このサイトは社会問題を扱うメディアではないのでひとまず簡素に済ますが、高齢化で医療費が膨れ上がる現在、政界では尊厳死法案化の動きが出てきている。週刊誌の記事などで「平穏死」「自然死」といった言葉を見かけたことがあるだろう。何本ものチューブに繋がれてまで無理に延命するのは周りに迷惑がかかる、そうなる前に自ら望む死のあり方を選ぶ権利を認めるべきではないか、という議論がこの法案化には含まれている。先日、アメリカ・オレゴン州在の29歳の女性が自ら死期を予告して亡くなったが、「私は死にたくはありません。ですが、私はもうすぐ死にます。だとしたら、自分の思う通りに死にたいのです」と遺した彼女の言葉は、感傷的に報道された。

頭の中に生まれた音を眼球の動きで伝える

彼女の判断が正しかったのかどうか、この手の生命倫理の問題は、正しい、正しくないの二元論で回答を探すべき問題ではない。ジェイソン・ベッカーの生き様を描いたドキュメンタリー映画『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』を観ると改めてそう強く思う。少なくとも彼は、彼自身が生きる価値を明確に見出している。ジェイソンは、呼吸器に繋がれ、家族から温かいケアを受けながら、意思表示が唯一可能な眼球の動きでコミュニケーションをとる。アルファベットが並ぶ透明の文字盤を見ることで、会話を成立させるのだ。ジェイソンの頭の中に生まれた音を眼球の動きで伝え、その指示を受けて、一つひとつの音をパソコンに落とし込んでいく。

文字盤を眼球で追いながら「最初、高いキーで、再生してみてくれる?」「オクターブ上げて再生してみたい」「11小節の2つのノート以外、後は全部削除」……指示を受けた音階を再生すると、穏やかなクラシックギターの調べがパソコンから流れてくる。声を発することの出来ない、身動き1つとれなくなった天才ギタリストは、壁に掲げられたギターに目をやりながら、頭の中で美しい調べを練り上げていたのだ。

『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』©Opus Pocus Films
『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』©Opus Pocus Films

「ただ座ってるだけでもやる事はたくさんある」

ALS患者の中には、自ら社長となってヘルパー事業を始めた人もいる。ALSの母親を看取った川口有美子氏は著書『逝かない身体 ALS的日常を生きる』(医学書院)で「ALS患者が惨めな存在で、意思疎通ができなければ生きる価値がないというのは大変な誤解である」と書いた。ジェイソンは言う、「時々自分は病気じゃないと感じることがある。ただ座ってるだけでもやる事はたくさんある」と。

尊厳とは何か、人が人らしくあるとはいかなる状態か、ジェイソンが文字盤を通して伝える音楽が響くたびに、その手の定義にそそくさと答えを出したがる風潮を危うく思う。彼のヒストリー、すなわち、病の経緯を辿る映画は、どうしたって暗がりの中に迷い込む。しかし、ジェイソン・ベッカーが頭の中で鳴り響かせている音楽が露わになると、立ちこめた霧が消え、途端に晴れやかな心地になる。音楽そのものの力がこれほど純化して伝わる瞬間もないだろう。


映画が制作されたのは2012年だが、ジェイソンは引き続き作曲活動を続け、Twitterでの情報発信も行なっている。マーティ・フリードマン、ジョー・サトリアーニ、スティーヴ・ヴァイ、リッチー・コッツェン、スティーヴ・ハンター、スティーヴ・ルカサー……多くのミュージシャンが彼を支援し続けている。目で音楽を奏でるジェイソン・ベッカーの「死なない」日々を目に焼き付けて欲しい。ジェイソンは、とにかく活き活きと生きている。

『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』©Opus Pocus Films
『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』©Opus Pocus Films

参考文献
川口有美子『逝かない身体 ALS的日常を生きる』(医学書院)
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店)
雨宮処凛『14歳からわかる生命倫理』(河出書房新社)

イベント情報
『ジェイソン・ベッカー Not Dead Yet ~不死身の天才ギタリスト~』

2014年11月8日より、新宿シネマカリテほか全国公開
監督・プロデューサー:ジェシー・ヴィレ
出演:
ジェイソン・ベッカー
マーティ・フリードマン
ステーヴ・ヴァイ
ジョー・サトリアーニ
リッチー・コッツエン
ステーヴ・ハンター
配給:アートスタby K&AG / マウンテンゲートプロダクション

プロフィール
ジェイソン・ベッカー

1969年7月22日、カリフォルニア州リッチモンド市に生まれる。1987年(18歳)、マーティ・フリードマンと結成したCacophonyのデビューアルバム『Speed Metal Symphony』を発表。1988年(19歳)、ソロアルバム『Perpetual Burn』を発表し、初来日を果たす。同年Cacophonyは2ndアルバム『Go Off!』をリリースし解散する。その後、元Van Halenのボーカリスト、デイヴィッド・リー・ロスのバンドに参加し、1990年(21歳)にアルバム『A Little Ain’t Enough』の制作に入るもレコーディング中にALSが発症し、ツアー前に脱退。1995年(26歳)に病に侵されながらも2ndソロアルバムを『Perspective』を発表。現在45歳となり、なお闘病生活を続けながら作曲を続けている。



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