「フジワラノリ化」論 第10回 荒川静香と谷亮子 其の三 谷亮子の女らしさとの付き合い方を再考する

其の三 谷亮子の女らしさとの付き合い方を再考する

ひとまず女性スポーツ選手を可愛くないと前置きし、比較論法の上で「その中でも」を忍ばせて持ち出される「可愛い」を受容した代表格として、谷亮子(旧姓:田村亮子)の存在に触れないわけにはいかない。例えばナンシー関が「ものすごく根本的なところで、傲慢であると思う」と言っていたように、或いは吉田豪が、小説「YAWARA、その愛。」(en-taXi No.2)として書き表したように、彼女の所作は、見られること、聞き入れられることを前提にされていて、こちらの熱視線があって初めて成り立つ発言を繰り返していく。自ら「前代未聞の5連覇です」と言う。これはどういうことなのか。「すごいことをなしとげましたね!」「いえ、これも通過点です。それに、私だけの力だけではなく、支えてくれたファンの皆さん、コーチ、スタッフ、家族のおかげです。」良くも悪くもこれがポピュラーな優勝インタビューだったわけだ。しかし、谷は、こちらからの投げかけ→それに対する返答→返答から感じる茶の間の反応を、一気に横断する形をとって自分で「前代未聞」という言葉を漏らす。茶の間やテレビのレポーターが投げかける案件を察知して、自分でまとめあげてしまうのだ。スタートからゴールまで、他者が不要なのだ。

「谷でも金」という強かな標語は、「ママでも金」という標語に改訂された。次のオリンピックも目指すというから「2児のママでも金」と再改訂されるのかもしれない。答えを察しすぎて飛躍した返答を続けてきた谷は、そのうち自分から物語を予告するようになった。自身にプレッシャーを課すという意味では非常なファイターだとも言えるのだが、それはあくまでも2次的ではないかと読む。なぜならば、田村が谷になった頃から拍車をかけるように、「女であること」を全面に押し出すようになったからだ。柔道家の中では可愛いという出自が安定的に保たれる中で(それは滝沢直樹の「YAWARA」の効力もあったろう)、結婚をした。相手は野球選手の谷だった。田村亮子は、恋多き女だった。この一文を書いていて何だかその字面の馴染みが不安になってきたが、とにかくモテた。オリンピックの選手村で競輪選手とデートをしたりと、谷以前にも、どうやら色々と恋を育んでいたようだ。しかし、そうはいっても、それは所詮アンオフィシャルな恋愛だった。柔道選手としての骨子がまずあって、恋愛はやっぱり公的には秘匿されていた。しかし、谷と結婚し、恋愛の成就が公的になり、彼女は女性であることを積極的に露にすることを拒まなくなった。

女子スポーツ選手が何かの機会に精一杯のオシャレをすると、大変なことになる。繰り返し例に挙げて恐縮だが、マラソンの高橋尚子は高級ブランドに身を包む。桂由美のファッションショーにかり出される女子アスリートもいたっけか。谷亮子も、とにかく私服を着飾る。ウエディングドレスを見せる。そこに大きな需要があるに違いないとする彼女のマーケティングに頷きながら乗っかるのではなく、冷静に距離をとりながらも、需要があるとする彼女の報告をひとまずそのまま垂れ流していく。その競技選手の中では可愛らしいという認識と、力量として相当な選手だという結果が折り重なり合って、谷亮子を無視することができなくなってしまう。しかし、その前者を誰も直接的に褒めようとはしない。谷亮子は可愛いのか、女っぽいのか、と問われたら、まあまあそんなこと言わずにひとまずお茶でも飲もうよと、逃げてみるだろう。分かっているのだ、答えは。でももう1つ分かっていることがある。それはその答えを分かっていたとしても言ってはいけない、ということ。「ママ」という状態にはあらゆる要求が舞い込む。ママさんタレント、ママさん選手、ママさん弁護士でも、安直な「頑張り屋さん像」を作り上げる為に、ママさんが勝手よく使われる。黙っていてもママさんは世間的にママさんへ加速していく。有名人には、ママさんを枕詞に安直な企画がいくらでも舞い込むだろう。しかし、谷亮子は違う。谷亮子のママさんは自家発電である。電力供給が無い。自分で、あるいは、夫の力も借りながら、火を熾す。

「フジワラノリ化」論 第10回 荒川静香と谷亮子

静観な住宅街で、一軒だけ過剰なイルミネーションをしていると、その色合いがいくらきらびやかであろうとも、違和感を禁じ得ない。デコレーションは、外からの目線があってこそのものだ。内からの意志だけでは浮ついてしまう。谷亮子の私服やウエディングドレスって、このイルミネーションに近くないか。「きれいですね」よりも「きれいだと思いませんか」というプレゼンが前に出てしまっている。ものすごく簡単な言い方を許してもらえれば、谷亮子というのは目立ちたがり屋である。トップアスリートともなれば黙っていても目立つのに、谷亮子はわざわざ目立とうとする。だから、皆、そんなことしなくてもいいのに、と心の内に違和を蓄えてしまう。谷亮子は、考えすぎる人だ。考えすぎた時に、私の何がプレゼン対象として効果的だろうかと思案し、その見てくれにも可能性を見出した。だから、そこを持ち出す。持ち出した以上は懸命だ。

荒川静香の「美」は、まず外側にあった彼女に対する間接的な評価を本人が汲み取って濃度を高めたものである。一方の谷亮子の「美」は自家発電した電力をお裾分けするように知らしていくものだ。どちらが正しいのだろう。どちらがあくどくないのだろう。女性アスリートの「前へ出て行く方法」としてどちらが求められているのだろう。もしかしたら両方とも正解なのか。いよいよ断言しておかないと話が前に進まなそうなので個人的な見解としてひとまず言い切ることにするが、荒川も谷も、キレイではない。可愛くもない。その2人が、あくまでも「美しい」「可愛い」を担保に動こうとする姿勢を崩さない。どうしてなのだろう。問いは深まってしまった。次回は、この深まった問いを少しでも浅瀬に引っ張り出す為に、あの2人の議論を使っていきたい。そう、勝間和代と香山リカによる論争である。「荒川と谷、勝間と香山、幸せとは何か」と題して、論争を荒川と谷にくっ付けながら、美人アスリートという称号の真意を探り続けていきたい。



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