「フジワラノリ化」論 第6回 土田晃之 其の五 お笑いブームから“取り残されて”生き残る方法

其の五 お笑いブームから“取り残されて”生き残る方法

土田がどういった印象を持たれているかをネットで雑に調べていたら、その中には彼に対する否定的な見解も少なくなかった。しかし、その否定が一様でつまらない。想像に易いだろうが、「どうせ使いやすいだけで大した芸が無いから消えるよ」「ゴマすって沢山仕事もらってっけど間違いなく近いうちにいなくなるね」という程度のものである。実に、否定として、弱い。どうして現状へ辿り着けているかへの考察も不足している。否定以前だよそれは、と放言して捨てておく。お笑いブームはやって来てはまた去って、去ったと思えばそのうちまたやって来る。その度に全てがリセットされて新規参入してくるかとなればそんなことはなく、ブームにこびりついてきた中堅一歩手前の芸人が、そのブームのおこぼれで飛躍していくケースも少なくない。逆に、あるブームに乗って出てきたのであれば、そのブームが下方へ向かえば、それなりにその彼も下方へ向かっていくように見える。しかしそのブームの終焉と当人の終焉は結局の所リンクしない。あいつもうすぐ消えそうだよねという予想を、ブームだからそのうちに、と理由付けるのはあまりにも安直である。ブームだからね、で明らかになるのは、その芸人が今脂に乗っているねという世論の評価であり、この後どうなるのかを具体的に指図できるものではないのだ。

土田はそのうち消える、その言及はしばらく続くだろう。しかし、その言及は何にも根ざさないから彼は悠々とすり抜けていく。土田の強みは、今現在のお笑いブームとの距離感だろう。上記に記したように、お笑いブームとその当人の消える消えないは結果的には関係ない。土田が今のお笑いブームの中を駆け抜けていてもそれはそれで大丈夫。しかし彼はそもそもそこにはいない。同じ事務所の有吉の弾け方の方がむしろこのお笑いブームと関連している。有吉の毒素って、お笑い界の通例を破る事にあるわけだ。本来言ってはならないはずの大物にあだ名をつけて吐いていく。おまえそこまでいっちゃっていいのかよーという周囲の反応を見るが、その周囲は、お笑い界の「界」を執拗に意識している。「界」のマナーに準じているのだろう。ブームというのは、その世界への新たな位置づけ・ムーブメントとして生じる。下からの底上げで地殻変動が生じ、その世界から脱落するものがいれば、その空いたスペースに我先に登っていく。一通りレースが終わればその門は、また締められる。有吉は、そのレースに緊急参戦している感じがある。まるで電波少年のように目隠ししてトラックの荷台に乗せられて、山の中腹で降ろされたかのよう。唐突にレースに参加した彼だから、もしかしたらそのレースに負けるかもしれない。でもそれは彼の本意ではないし、例えそうなったとしてもへこたれはしないと思うのだ。そうなるかもしれないという自覚も既にありそうだ。

第6回 土田晃之

土田はそのレースにはいない。外から傍観している。冷淡と何度か称したが、傍観と言葉を変えても同じだろう。刺激物が刺激物とぶつかるのがお笑いの世界でありテレビの世界である。その化学反応の善し悪しを、人は評価し、ある時は貶すのである。その個人の評価を、お茶の間に、学校の休み時間に、場末の飲み屋に、それぞれの持論を持ち寄るのである。あいつのネタがツボなんだけどーと真似してみせる。えーあいつなんてぜんぜんおもしろくねーよ、○○とネタの感じがおんなじじゃん、と評価が分かれる。そういう小さなコミュニティの査定が折り重なり、ブーム内での淘汰が進む。しかし、土田はそういう査定の外にいる。ズル賢くはある。新人と中堅がネタなりリアクションなりを競う場に彼は出てこない。体を捧げて勝負する、そしてその一身のネタを査定される、そういう場面には出てこない。むしろ土田は、その勝負を傍観する立場にいる。誰なんだお前は、と思われる前に、既に外から見ているのだ。だからそこに文句を放つとなると、ゴマすってる程度のことしか言えなくなるのだ。

土田晃之について書き連ねてきて悩むのは、彼の所作は、意識的なのか無意識なのか、である。意識的にやりすぎていれば今のポジションに行き着く事は出来ずに、何がしかのブームに飲み込まれていたであろうし、無意識にのほほんと仕事をこなしていても今には至らなかっただろう。冷淡に人を捌く弁舌の生まれを見せようとしない土田晃之、これはもう要観察という結論以前の経過報告に留まらざるを得ない。彼がお笑いブームから離れた所にいること、お笑いブームが弾けてもその余波を受けずにいられる程よい距離感にいること、その距離感と彼の冷淡さが、しばらく巧妙にマッチングしたままなのは明らかであろうこと、そのいくらかは判るし、そのいくらかが掛け算されたとき、この土田晃之の消費の強度はそう簡単に消えるものではないと強く断言することが容易となる。もうすぐ消えるんだろと言われ続けて尚も生き残っているダチョウ倶楽部の下で、土田晃之はそう言われることもなく淡々と生き残る。バネとか、反動とか、そういう凹凸のドラマ無しに居続ける。そして、(もう言ってるけども)ダチョウ倶楽部のような先輩に向かって「おまえらもうすぐ消えんだから」と真顔で言うだろう。ふざけるな、と後輩に怒鳴る上島竜兵、笑わない土田晃之、この構図は、ダチョウ倶楽部の熱湯風呂ネタのように、ああまたこれかと思わせながらも毎度観てしまう、ある種決まりきった伝統芸としてテレビ画面を「落ち着かせ続ける」のだろう。子ども4人分の養育費くらいは稼げる年月を重ねていくに違いない。



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