「フジワラノリ化」論 第9回 石橋貴明 毒舌の賞味期限をめぐって 其の五 石橋を叩いても渡れない

其の五 石橋を叩いても渡れない

石橋貴明を考えるにあたって、あまり木梨憲武の名前を必要としない。それは何も、仲が悪いとか独立したがっているとかって話ではなくって、そこに木梨がいなければならない理由を特に持たないからなのだろう。芸人コンビとしての阿吽の呼吸に委ねずとも、各々が各々で立って、笑いを持ち運んでくる。一緒の画面に2人が映り込んでいる所を見れば分かる。同世代のウッチャンナンチャンやダウンタウンを考えても、彼らは確かに互いにソロ活動を盛んにする、でも、2人でテレビに出る時は、やはり互いは互いに頼っているはずだ。独りでも出来る、でも、2人でも今まで通り出来るぞ、と。しかし、とんねるずの場合は違う。2人でいる場面であっても、2人ではなく1人でも出来るんだぞオレは、という所作を見せる。「食わず嫌い王」は食膳を挟んだ所に互いがいるし、「細かすぎて〜」の時も、ネタを見せるステージの左に石橋が、右に、木梨と有田哲平なり関根勤なりのゲストが陣取っている。この、しっかりと取りすぎた距離は何を意味するのだろう。互いに1人でやりたがっている、という単純な予想に留めておいていいのだろうか。

木梨はまるで所ジョージを継ぐかのように、趣味人としての歩みをスタートさせている。ここでいう趣味人は、ただただ趣味に没頭する(例:ヒロミのサーフィンなど)のではなく、趣味人であることを商売にする、という意味を持つ。最近の所ジョージは、全身から放たれるモノが総じて趣味としての商売に繋がっていくかのよう。車、バイク、フィギュア、雑貨、DIY……。生き方と仕事と趣味と実益が連結している気持ちよさは、「所さんの世田谷ベース」という番組で共演している清水圭の趣味濃度がとても半端なのに相まって、より感ずることができる。木梨憲武は、この位置に行きたがっている。未だに古臭い体育会系の匂いをシステムとして行使しているお笑い界の部長か次長クラスに就いて、その世界の政治に励む面白さを一切感じちゃいないだろう。定年を待たずして引退し、趣味に励みながら、たまの機会に戻ってきて「いやもうオレはこっちには首突っ込んでないからさ」とでも言いたいのだ。木梨のそっちへの移行は難なく果たされそうな気配である。次の所ジョージ、これで決まりである。

その時に石橋はどうするのか。いや、どうもしないのである。だって、さっきから書いているけども、石橋は木梨に、木梨は石橋に寄りかかっていないのだから。木梨がたまに戻ってきたら、一緒にやればいい。坂本龍一がニューヨークから帰ってきた時だけ、YMOでもやろうかと時折再結成してみる、あの感じ。前章で、石橋貴明に足りないのはファミリーだと記した。これからの石橋に必要なのは、木梨とのどうこうではなく、周辺にファミリーをどうやって作るか、という問題、これを近々に果たさなければならない。最近の「アメトーク」が流行らせている、ある趣向を括る「○○芸人」企画が好評なのは、適当にブームと片付けられるだけで、一向に組織図に加われずに終わる使い捨ての危機を、芸人自身が捉え、ある括りを自分たちから持ち出すことで新しい生命線を見つけ出したからである。「吉本だ、それ以外だ」と、ギョーカイのしきたりをまたいで、くだらないカテゴリーを被せること、この変化球が、お笑い新世代にようやく輪郭を与えたのである。石橋は、テレビカメラの裏側、すなわちスタッフを仲間とし、それもひっくるめて番組を運んでいくスタイルを好んだ。石橋の番組を見ていると2回に1回はスタジオをズケズケと飛び出してカメラの裏にいるADやマネージャーの類いに絡んでいくシーンが見受けられる(或いは機嫌を損ねてスタジオから出ていくネタも)。笑いの興し方としてそこまでひっくるめている、というのが彼の通念なのだろう。

「フジワラノリ化」論 第9回 石橋貴明

茶の間がギョーカイ化し、ギョーカイが茶の間化している現在だ。番組スタッフをいじった所で、それは何の意外性も持たない。やってくる新人アイドルに向かってグヘヘと根掘り葉掘り聞き込んでも、そのアイドル自体のメディア戦略が完璧だったりして、こぼれてくるイレギュラーに目新しさが無い。石橋の特権だった「スタッフ」と「新人」という2本の柱に、視聴者がとことん慣れてしまったのだ。これは石橋には痛手だった。だから最後に、提案する。石橋はトーク番組をやるべきだと。

例えば笑福亭鶴瓶。この人は、今や、トークの名手である。オセロ松島とのトーク、或いはNHKの田舎探訪モノ、相手への温かみに満ちた話力は、彼自身の立ち位置をグイグイ浮上させている。しかし、これらの番組が始める前、噺家としての信頼感を除けば、この人は空気を読まずにサブいことを言う芸人の1人だった。「笑っていいとも!」で時たま見せるタモリの悪ノリに乗っかって、いたたまれない状況へ持ち込んでしまう鶴瓶の姿が繰り返された。石橋には芸能界にまつわる膨大な知識が蓄積されている。冷凍保存されている。話の途中に挟む込むどうでもいい芸能ネタを、今度は柱にして話をすべきではないのか。そういうミニマムなネタを引っ張り出せる大物は意外と少ない。タモリの「ブラタモリ」に象徴的なように、大物の誰それがしっかりと何を考え喋りこだわっているのかに焦点を当て始めている。「アメトーク」が、必死に括ることで仮設テントを作っているのに対して、大御所は、単体で風当たりに晒され直すことを選んでいる。石橋もそうするべきだ。

石橋を叩いても渡れない。叩いた所で、当人はブレずに仁王立ちしたままだからか。それとも、そもそも橋が壊れているからか。石橋貴明の賞味期限は、石橋本人がその賞味期限すれすれの体をどのタイミングで味見して改訂作業に勤しむかに握られている。本人にとって最も避けなければならないこと、それは誰も橋を叩きにすら来てくれなくなることである。ファミリーを持てないでいる石橋の天賦の才能を信じているからこそ、その見直しをいち早く行なって欲しいと願う。そして、そのための糸口として、トーク番組という選択肢を考えるべきだと、最後に進言してみた次第である。



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