「フジワラノリ化」論 第9回 石橋貴明 毒舌の賞味期限をめぐって 其の三 七光り娘論:IMALUと穂のか

其の三 七光り娘論:IMALUと穂のか

どの番組に出てきても平均点を必ずクリアしていく、関根麻里とベッキーの驚異的な力量に圧倒される日々が続く。老若男女を問わず束ねていく司会業が出来るのも今やこの2人くらいであろう。みのもんたは「ちょっと奥さん聞いてくださいよ」と、相手にしてくれる人物を最初から限定していく。「ちょっとお兄さん」と呼びかけても、世のお兄さんは、みのもんたに心を開かない。みのもんたもそれを分かっているから、聞き耳を立ててくれるおばさんにターゲットを集中させていく。関根麻里やベッキーには、その選別が必要とされない。みなさん聞いてくださいよ、と言われた時に、子供から大人まで、こぞって私のことかもしれないと聞き耳を立てる。「みなさん」を使えるのだ。関根麻里をこの連載枠で論じてから10ヶ月が経とうとしているが、その浸透はさらに深い所まで至っている。もはや、「関根勤の娘である」から関根麻里を位置づける人は少数派になった。ベッキーや関根麻里に共通するのは、顔が良すぎるでも無く、トークが上手すぎるでも無く、それをこの論考では「世のおばさまが息子の嫁に薦めたくなる人材」と称したわけであるが、顔とか、声とか、性格とかではなく、とにかく総合力に評価が向けられるのである。フジテレビでアナウンサーをしている高橋英樹の娘・真麻は、今時珍しいほど二世であることに自身の評価を委ねてしまった。精神的不安定から一時休業状態にも陥ったと聞いたが、最近はチラホラとテレビで見かけるので、それなりに仕事はあるのだろう。しかし、それも、お父さんとよく来るレストランの話だったもんだから、いよいよこの世界での寿命も短いと読むのが懸命だろう。七光りであろうが、総合力が求められる時代なのだ。

「フジワラノリ化」論 第9回 石橋貴明

同時多発的に登場した明石家さんまの娘・IMALUと石橋貴明の娘・穂のかについては、そのうち消えるだろうと適当な放られ方しか成されていない印象を受ける。誰それの子供の登場にお腹いっぱい気味だというのは分かる。矢沢永吉はステージ上で娘と共演したし、篠山紀信の息子は南海キャンディーズのしずちゃんと熱愛かというアクロバティックな合わせ技で認知度を上げた。ここまでは、誰それの娘や息子であれば順当に用意される熱視線である。その連鎖に飽きがくるのは当然である。恵まれたスタートから、どうやって出所を振り払って自分の体を残していくことができるか、なまじ知られている状態からずっとこの切磋琢磨を監視されるから、七光りの当人は厳しい目線に晒されていく。長嶋一茂や野村監督の息子・カツノリのように、同業種での実力不足を晒してしまうと潔さすら漂うが、芸能人の場合、同じ芸能界とはいえ、バッティングセンスのように同じ量りに乗せて比較出来る成分があるわけでは無い。そのくせ、一緒くたに語られる。その打開策の無さもあって、子供側から嫌気が露にしてくる場合も多かろう。

思い出されるのは、北野武の娘・北野井子の存在だ。YOSHIKIプロデュースの元でデビューを果たし、そのPVを父親である北野武が務めるという、最上の環境で活動をスタートさせた。「Begin」というその楽曲は、YOSHIKI特有の繊細なメロディーラインが特徴的なロックチューンで、当時流行していた小室サウンドをまぶしたかのようなその曲調は、誰がどうやって歌を乗せようがそれ相応のモノになる素材だった。そこへ向かって、北野井子は萎縮することなく、言ってみれば、キチンとロック姉ちゃんになりきって歌い上げていた。お父さんのネタを軽く小突くように出しながら、芸能界なんて興味は無いんだけどね本当は、という素振りを見せていた。んで、本当にいなくなってしまった。大きな舞台を用意したのによぉ、でもそれはあなた達が勝手にやったことであって、と軽く退けた態度は、未だ記憶に残っている。

何故、北野井子のことを思い出してみたかとなれば、IMALUや穂のかは、デビュー時に、そこまでの舞台設定が整っていなかったからである。逆に言えば、整わせようものなら簡単に整わせることが出来そうな所を、敢えてそうしなかったとも読めたのである。IMALUはストリート系の女性誌にモデルとしてデビューしただけだったし、穂のかに至っては両親の名を隠しオーディションに参加して映画のちょい役をゲットするという、サラブレッドらしからぬスケールの小さいデビューだった。ワイドショー等がそれなりの時間を割くものの、その当人側に、大きな見せ物に仕立てる業者は出入りしていなかった。デビューを騒ぎ立てたにしても、ひっそりと騒ぎ立てた印象が強い。親が出てきて、そこに娘を添えて、デビューします、というやり方が最も強力なインパクトを残すことは間違いない。やや小粒だが唐突に思い出したので例に出すと、多岐川裕美など、娘をデビューさせる際に、母娘2人で出てきては、仲の良い母娘です、というアピールを前面に打ち出していた。

IMALUや穂のかはそうしなかった。ここには、北野井子の反省が活かされていると見るのだが、どうだろうか。お笑いのトップに君臨する芸人が、娘に気を利かせてすぎてしまったがゆえに、定着せず半端なまんま芸能活動を終わらせざるを得なくなった。後輩や芸能人をイジりながら空気やテンションを最高潮に作り上げていく、その点に置いて、ビートたけし、明石家さんま、石橋貴明は共通する。自発的な笑いというよりも自分の周辺世界という括りに笑いを起こしていく。普段、1から火を起こしていくというのが芸人の生業なのに、娘や息子の芸能活動を、となった途端、優位な立場からスタートさせてしまった、北野井子に注がれた違和感の成分を分析すると、そういう所にあったのではないか。IMALUや穂のかに関して、明石家さんまや石橋貴明が何を言っているかというと、親が動いたのではなく、アイツが勝手にやりたいと言ったのだし、アイツが本気でやりたいというのならば、親として止めることは無い、というスタンスである。間違っても全面バックアップはしないし、かといって、ノータッチでもない。「自由にやればいいのよ」と繰り返す、という応援だ。関根麻里になるか、北野井子になるか、そもそもその間にどれくらいの距離があるのか、これから数年後のIMALUと穂のかが、具体的に指し示すことになるのだろう。

次回は「とんねるずからロンブーへ、口撃する体力と組織力」と題して、石橋の醍醐味である毒舌に焦点を当て、芸能界における口撃の受容史が、とんねるずからロンブーへ移り変わろうとしている現在を明らかにしていく。



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