二階堂ふみ×最果タヒ「わからない」を肯定する二人の言葉談義

「美を伝える言葉の力を高めたい」。これは資生堂が主催する『現代詩花椿賞』のコンセプトだ。第33回の受賞作は、現代詩のジャンルを越境する詩人・最果タヒの『死んでしまう系のぼくらに』に決まった。最果は兼ねてから、詩を紡ぐことと化粧をすることに、「内面を浮かび上がらせるもの」としての近しさを覚えてきたという。そんな最果が、本書を真っ先に読んでもらいたいと編集者に懇願していたのが女優・二階堂ふみだった。それぞれの持ち場で言葉を用い、まとう二人による、言葉の力と役割を巡る対話をお届けする。

言葉で傷つく可能性があるってことは、言葉が傷ついている人を救う可能性もあるってことだから。(最果)

―本日は最果さんの念願かなって、二階堂さんと対談の場をもうける運びとなりました。そもそも二階堂さんは「詩」にどのような印象をお持ちでしょうか?

二階堂:詩というのは、自分の感じ方次第で、0を10にすることも、100にすることも、あるいは、マイナスにすることだってできると感じています。数は多くないけど詩を読んできて、頭の中の感覚的なところでしっくりこなくても、そことは別のものが動くこともあるのが詩なのかな、と思うようになりました。最果さんの詩を読んで、これは頭で考える前に体で感じる詩なのかな、って。

左から:二階堂ふみ、最果タヒ
左から:二階堂ふみ、最果タヒ

最果:ありがとうございます。詩はわからない方がいいと思っていて、「わからないけど好き」と言われるのが一番嬉しいんです。私には特に書きたいことはなくて、でも書いている、という状態なんです。詩からメッセージを受け取ってほしいわけではなく、「あっ、私が探していた言葉だ」と感覚的に捉えてもらうのが理想なんですよね。

―詩を、書き手の内面をさらけ出したもの、と捉えられたくないんですね。

最果:私自身、さらけ出すほどの憂鬱を感じたことがないので、自分の感情を書くという意味がわからないんですね。そもそも、人に伝えるほどの考えがないんです。

―最果さんが、詩の中で「死」や「愛」のようなストレートな言葉をためらわずに使うのは、自分自身のことをどう捉えられたって構わない、という潔さがあるからなのでしょうか。

最果:ストレートな言葉を使わないと、多くの人に届けられないだろうと思っています。書くときだけに使う言葉って、その時点で読者との間に壁を作っているというか、ちょっとカッコつけてますよね。私はどう読まれたいか、ということにこだわりがなく、「読者が作品によって心を動かす」ということだけを目標にしているので、そうした壁のある言葉は避けて、なるべく話し言葉に近い言葉で書くようにしています。むしろ、日常の中で使われすぎている言葉って、使われていくうちに本来の意味で使わなくなりますよね。例えば、多くの人がネットなどに「死にたい」って書きますが、その言葉はとても軽く使われています。「愛」だとか「死」だとか、チープになった言葉というのは、いろんな「言葉にできない感情」の受け皿になっていて、だからこそ実は一番自由なんじゃないかと思うんです。

最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』表紙
最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』表紙

二階堂:最果さんの詩の中には、読み手それぞれの尺度で感じることのできる言葉があって、そこにしっくりきました。日頃、様々な媒体のインタビューを受けますが、私も「作品を通して何を伝えたいですか?」という質問が一番得意じゃないんです。見た人の感覚のまま、素直に受け取ってくださればいい。理解できないことが面白かったりもするので。

最果:私は、詩を書く最中にできるだけ何も考えずに書くようにしているんです。なぜかというと、作為的になると、読む人も作為的に読んでしまうから。逆に言うと、夢中になって書くと、夢中になって読んでくれると信じているところがあります。私、二階堂さんが出ている映画を見ると、二階堂さんであることを忘れるんですよ。最後に「あっ、そういえば、二階堂さんだった」って気づくんです。演じているキャラクターに対する感情だけが残るから、二階堂さんに対して、好きとか嫌いとかじゃなくて、「いる」「残っている」という感じになるんです。

二階堂:とても嬉しいです。私、最近言葉が軽くなっているという実感が少しあるんです。マイナスな言葉を呼び寄せて、その人が悲しくなっているのを面白がる、みたいな現象がありますよね。例えば、何かに夢中になったり熱中している人を「寒い」と揶揄するような。その現象にとても違和感を覚えるし、それに対して、泣いたり怒ったり、感情を露わにすることすら許されない。意図してないところで自分の言葉が誰かを傷つけてしまう可能性を考えると、言葉を大事にしなければ、と思います。

二階堂ふみ

―会話と違って、言葉を文章として発表すると、誰がどういったシチュエーションで受け取るかわからない以上、思いもよらぬ作用を生み出すことがありますね。

二階堂:でもだからこそ、書くって、すごい仕事ですよね。言葉って人間そのものだと思います。だって文明が文字として記録されているからこそ、過去があったり未来があったり今があったりするわけじゃないですか? それを吐き出していくのって、すごく大変。

最果:私の詩は、自由に読まれるように書いているから、解釈が様々なんです。でも、それでいいんです。自分の詩を朗読してくれた女の子がその模様を動画でアップしてくれているんですが、間の取り方やイントネーションの違いで、異なる意味を持って伝わってくる。私はどちらかというと、言葉より声がその人の命そのものだと感じていて、声にすることで、言葉がその人のものになっていく、と思う。そして、思いもよらないところでその人にとって大事なものになったりする。だから私は、言葉の作用を怖いとは考えないんです。仕方ないって思う。傷つく可能性があるってことは、傷ついている人を救う可能性もあるってことだから。

二階堂:最果さんの詩は、とても前向きな詩なんですね。

最果:あるとき、「これからも生きていていいと思えるようになりました」と「死んでもいいんだと思えるようになりました」という感想が、同時期に届いたんです。あっ、言葉をコントロールできるなんて思ったら負けだな、と感じましたね。何を書いても傷つく可能性があるから、言葉は書いていて面白い。前向きかどうかはわかりませんが、そういう開き直りがあるんです。

「愛」って言葉を表面的に使い続けると、その「愛」が人それぞれ違うってことを忘れてしまう。(最果)

―あらゆる言葉には跳躍力がある一方で、「この言葉で感動してくれ」とか、「怖い気分になってくれ」とか、人の感情を搾り取ってしまう機能も持っていますね。

二階堂:だからこそ言葉で、相手に手を差し伸べないようにしています。昨年の春に、自分が高校生の頃から演じてみたかった室生犀星の小説『蜜のあわれ』の映画を撮影したんですが、石井岳龍監督と話した時、監督は「僕たちの時代は、わからないことが面白かったんだ」と言っていた。見ている人が持っている枠の中にはめ込もうとする限り、どんなに力を持ったプロフェッショナルが集っても面白くならないんです。想像すら超えたものができたときに、人は初めて「ヤバい」って思ってくれるから。

二階堂ふみ

最果:想像の範囲内で生きていくのはつまらないですよね。みんな、本質的には色々な感情を持っている。それなのに、相手にわかるように言葉で説明するときに、とにかく単純化してしまいがちです。その都度、自分の感情を削ぎ落として、よくある話として、ポンって出してしまう。わかる話ばかり受け取っていると、概念しか残らないんですよ。例えば「愛」って言葉を表面的に使い続けると、その「愛」が人それぞれ違うってことを忘れてしまう。自分の知っている概念を話すだけなら、いっそ話す意味なんてないじゃないですか。学生時代、そういう風潮をつまんないなぁと思っていたとき、音楽に触れて、すべて開けた感じがした。「ヤバい、全然わかんない」という感覚が一番強いと知ることができたのは、幸せだったと思いますね。それで言うと、詩というのは、「わからない」ことが許されるジャンルなんです。だから何にでも馴染むし、どこにあってもあっておかしくない。

―そこにある理由が問われない、ということでしょうか。

最果:はい。例えば、道路に「死んで」と書いてあったらただ怖いだけですが、詩の中に「死んで」とあったら怖いだけではない。詩というものは「わからない」ことを肯定的に受け止められる場所で、だからこそ、そこで使われる言葉すべてに揺らぎを与えると思っています。読み手によって解釈が変わることが前提としてあるので、言葉一つひとつが自由なんです。

最果タヒ

二階堂:言葉と芸術の問題って、とても密接しているのではないかと感じます。芸術から受け止めたことが自分の感情の一部になっている人って、言葉の選択肢が広くて、豊かな印象があるんですよね。私は日本語が大好きだから、古くからある日本語とか、ものすごく粋な言葉とかを大事にしたいという思いがそもそもあるんですけど。

慎ましさと大胆さの共存って、日本語だけでも英語だけでもできないから、両方使えたらいいのになって。(二階堂)

―改めてそう感じるようになったきっかけがあったのですか?

二階堂:ここ最近、頻繁に通っているバーがあって、そこにいるのはほとんど外国人なんです。使われている言語は当然英語で、彼らは自分の意思を伝えるときに必ず「because」を使う。これってとても英語的な表現ですよね。何を表明するにも「なぜならば」と理由を述べる。でも、日本の古典表現を読むと、そういう言葉ってあまり使われていなくて、むしろ、心情や情景が多いですよね。最近、日本語が英語化してきているのかな、と感じていますが、どう思いますか?

最果:実は私、英語が嫌いなんです。余裕がない感じがするし、意見を伝えなければ話が進まないのが苦手で。例えば清少納言の『枕草子』にある「春はあけぼの」って、心情や情景を慎ましく表現しているように見えて、実はとっても強いですよね。冒頭から「春は明け方が良い」と言い切っているけど、強引に共感を求めているわけじゃなく、私はこうです、ってただ言う感じ。「どうですか?」って意見を求める気配もないから、「イエス」も「ノー」も答えられないですよね(笑)。一方で、SNSの「いいね!」などは「わかる」か「わからない」の二択を迫られる感じがするところが、英語化しているなと思います。学生の頃、一体何を喋っているのかわからない友達がいて、なぜか仲が良かったんですけど、社会に出てそういう言葉を覚えるとすっかり変わっちゃう。それはそれで面白いんですが。

二階堂:私は英語を喋るようになってから言葉の可能性が広がりました。英語の良さはシンプルなところで、ときめいた瞬間にその良さを正確に伝えられる。でも、英語を喋れるからといって英語人になる必要はないですよね。以前、英文法を教えてもらった先生に、「英語を喋れるようになると、日本語も鋭くなって嫌われるわよ」と言われたんです。でもそれは、人それぞれだと思う。なぜなら私の母国語は日本語で、日本人という概念を持っているから。慎ましさと大胆さの共存って、日本語だけでもできないし、英語だけでもできないから、両方使えたらいいのになって思いますね。

二階堂ふみ

―英語の「私」は「I」しかないけれど、日本語では、「私」「わたし」「ワタシ」「僕」「ぼく」「ボク」など、選択肢がいくらでもありますね。そのことは、詩の可能性にも繋がりますか?

最果:漢字って、その形状の成り立ちからして「伝えるぞ」という強い意思を感じるじゃないですか。一方で、ひらがなって、文字自体に主張がなく、部品みたいな感じがする。「これって『あ』っぽくない?」という感覚だけで「あ」という文字の形ができていそうな。

二階堂:そうですね(笑)。すごく納得がいきます。「ふ」って、いかにも「ふ」って感じがする。

―ひらがなはそれぞれに質感がありますね。「『ぬ』はやっぱり、こういう丸い感じだろ」みたいに、ワイワイガヤガヤ話し合って決めた感じすらします。

最果:たぶん私、英語の国に生まれていたら、詩は書いてなかったと思う。同じことを書くにしても、日本語だと簡単に揺らぐじゃないですか。その揺らぎが面白いんです。書く内容は自分の話ではないので、伝えたい欲求なんてないのですが、揺らぎながら曖昧に言葉を選んで肯定していく作業が面白いんです。

一番先に排除されてしまう仕事についている自覚がある。だからこそ乏しくならないために作り続けなければいけない。(二階堂)

―揺らぎの中で言葉を選び抜いたときに、例えば夜書いたとして、寝て起きた朝に、「ん? なんかこれ違うな」って思うことはないんですか。

最果:昔は、一度決めた言葉が凝固して、変えたくても変えられなかったんですよ。まるで他人が作ったみたいに。でも今は、後々でピンとこないってこと自体があまりないんです。その瞬間瞬間に調整しているんだと思います。

二階堂:私も最近、原稿を書く仕事をしているんですけど、「これなら自分が言っても大丈夫かな」と思うことしか書かないんです。以前は言いたいことを言えば必ず伝わる、と思っていたときもありましたが、まったく伝わらず、誤解を解く作業が大変だったことも多くありましたから。

二階堂ふみ

―書き連ねていると、どうしても自分の手癖が出てきますよね。それを発見してしまった場合、別の言葉や要素を発見しにいくものですか?

最果:いえ、手癖は手癖でいいのかな、と思っています。その手癖って、結構ブレるものなんですよ。ある作品ではポジティブなのに、別の作品ではネガティブに影響したり。その場合は、違う言葉を探すのではなく、1回解体するようにしていますね。私、「やべぇ」と「うめぇ」しか言わない友達が好きだったんです。言葉のボキャブラリーは少ないのですが、とても表情が豊かな子で、そういう子になりたいとすら思った時期もあったくらい。私自身、誰よりも言葉を書くのが下手だから書いているという気持ちがあるし、下手だからこそ、詩のようなわからない状態で言葉が出てくるんだろうなって思う。でも例えば、太宰治作品の中に、ほとんど推敲されていない作品があって、私はその手の作品が好きなんです。なぜなら、その人が絶対に説明できない文章が生まれるから。だからなんて言うか、どんどん下手になればいいとすら思うんです。

―今回、最果さんが受賞された『現代詩花椿賞』、その創設に際しての、詩人・宗左近の言葉に「お化粧も詩である、ファッションも詩であるという立場に僕は立ちたいんです」があります。最果さんは、受賞の言葉の中で「その人の内側に眠る美しさを浮かび上がらせていくような、そんなお化粧」「それは私が作りたかった詩の、あり方そのものだと思ったのです」と書かれていますね。

最果:先ほど、わからないものが面白いという話をしましたが、「美しい」ってその頂点ですよね。美しいものを見たときって、感情がすぐには出てこなくて、圧倒されるじゃないですか。圧倒されているけど、すべてを把握しようとはせずに受け入れているという状況を体現しているのが美しさです。役に立つとか展開が面白いといったことばかりが優先されると、この状況って最初に捨てられていく。「お化粧やファッションがなくても生きていける」って言われたら何にも言えなくなっちゃうけど、「それを言うな!」みたいな感覚は強い。だから「お化粧も詩である」と初めて読んだときにはとにかく共感したんです。

左から:二階堂ふみ、最果タヒ

二階堂:お化粧って、生きていく上での三大欲求には入っていないですよね。私、茨木のり子さんの詩『わたしが一番きれいだったとき』を読んではたと気づいたんです。例えば「わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽで わたしの心はかたくなで 手足ばかりが栗色に光った」という箇所。私たち女性は三大欲求だけを与えられていればいい、というわけではないのかなと。この詩は戦争中のことを思い返して読まれた詩ですが、戦争は、人間の理にかなっていなかったわけですよね。そんな時、自分は、一番先に排除されてしまう仕事についているな、という自覚があります。何かあったときに、真っ先に食べられなくなる仕事です。だからこそ、乏しくならないために作り続けなければいけない。

最果:お化粧って「化ける」って書くじゃないですか。雑誌などでも、コンプレックスを隠すため、と書かれますよね。でもこの間、資生堂の美容部員さんが、あなたはここを見せたほうがいい、って引き出すお化粧をしてくれたんです。隠すものではなく引き出す感覚。詩も同じなのかなと感じます。「わからない」芸術作品を見て圧倒されながらも、それが不快ではなく心地良く感じるのは、作品から美しさが出ているだけじゃなくて、それを見ている自分からも美しさが出ているからなんです。

書籍情報
『死んでしまう系のぼくらに』

2014年8月27日(水)発売
著者:最果タヒ
価格:1,296円(税込)
発行:リトルモア

『花椿』12月号

2015年11月5日(木)から配布

『near, far 二階堂ふみ写真集』

2015年12月11日(金)発売
著者:二階堂ふみ
撮影:チャド・ムーア
価格:2,160円(税込)
発行:スペースシャワーネットワーク

プロフィール
二階堂ふみ (にかいどう ふみ)

1994年9月21日生まれ、沖縄県出身。12歳のとき『沖縄美少女図鑑』に掲載された写真がきっかけとなりスカウトされる。2009年『ガマの油』でヒロイン役に抜擢されスクリーンデビュー。2011年『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』にて主演を果たす。2012年公開の『ヒミズ』で『ヴェネチア国際映画祭 マルチェロマストロヤンニ賞(最優秀新人賞)』を受賞。2016年に主演映画『蜜のあわれ』『オオカミ少女と黒王子』の公開を控えている。

最果タヒ (さいはて たひ)

詩人・小説家。1986年、神戸市生まれ。『第44回現代詩手帖賞』『第13回中原中也賞』受賞。詩集に『グッドモーニング』(思潮社)、『空が分裂する』(新潮社)。『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)で『第33回現代詩花椿賞』受賞。小説に『星か獣になる季節』(筑摩書房)、『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』(講談社)がある。



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