大阪にPARCOが帰ってきた。コロナ禍でベールを脱いだ新館に潜入

PARCOは「東京」的な都市文化の象徴から、新しいあり方へ

イタリア語で公園の意味を持つ、パルコ(PARCO)。デザイナー・彫刻家である五十嵐威暢の手による、緑と青を基調にポイント的に赤をあしらった印象的なデザインのネオンサインと共に記憶されるその商業施設は、ある時代を生きた世代にとって、鮮烈に「東京」的な都市文化を象徴する存在だろう。

五十嵐威暢が手掛けたPARCOロゴのネオンサイン(一部)

1969年に1号店である池袋PARCOが開店し、全国の旗艦店舗である渋谷PARCOが1973年に開店。詩人・小説家としても活躍した堤清二(辻井喬)の先見的な経営戦略によって成功を収めたセゾングループの一角であるパルコでは、多種多彩なクリエイター・アーティストらがその腕を振るい、1970~1980年代の創造的なイメージを作り出していった。

世界初の回顧展(『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』東京都現代美術館、2020~2021年)が話題になった石岡瑛子も、1970年代のパルコのクリエイションを担った一人である。若き才能のためのインキュベーションであり、好景気に沸いた時代の「東京」の象徴でもある。それがパルコなのだ。

1973年に開業し、2016年8月にビルの建て替えのために一時閉店、2019年11月22日に改めてグランドオープンした渋谷PARCOの外観パース(©2019, Takenaka Corporation)

だが、それとは別の表情もパルコは持っている。それを意外なかたちで教えてくれるのが、2020年11月20日に開業を迎えた「心斎橋PARCO」だ。大丸心斎橋店の北館であったビルをまるごとリノベーションした同施設は、創業から半世紀を経たパルコのこれまでの歴史、そしてこれからの新しいあり方を示している。

コロナ渦の苦労の末、ようやく全貌を現した心斎橋館。関西のクリエイターによるトークも

心斎橋PARCOを訪ねたのは2021年3月27日。アジア的な雑多さと活気が楽しい「心斎橋ネオン食堂街」が地下2階にオープンして、約1週間後のことだった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で当初予定していた全館オープンを断念し、心斎橋PARCOはフロアやエリアごとに少しずつオープンしていくスタイルを選んだ。つまり、我々が心斎橋PARCOを訪れたときが、店舗本来の姿がようやくお披露目されたタイミングなのだった。

3月18日に正式オープンした心斎橋ネオン食堂街のキャラクター

食堂街を華々しく彩るオリジナルのネオン

この日は、4階にあるワーキングスペース「SkiiMa(スキーマ)」でトークイベントが行なわれていた。「好き」なことを磨き、「好き」をかたちにできるクリエイティブな場所として構想された「SkiiMa」は、ビジネス、アート、カルチャーなど多分野の人々が出会うためのコミュニティ型ワーキングスペースだが、そのテーマに沿って、イベントも『SkiiMaTalk –好きの話をしよう– Vol.03「好きを仕事に、好きを続ける」Presented by CINRA.NET』と題された。

この日のゲストは京都を拠点に活動するグラフィックデザイナーの三重野龍と、大阪から映画やクィアカルチャーに関するテキストを発信するライターの木津毅。関西で「好き」を追究し続けてきた2人だ。その対談の一部を以下に紹介する。

3年目までがスリリング。「好き」を仕事にした2人の実感あふれる経験談

心斎橋PARCO4階の「SkiiMa」で行なわれたトーク『好きを仕事に、好きを続ける』の様子
トークはオンラインとオフラインで同時に開催された

木津:今日は「好きを仕事にする」がテーマですけど、三重野さん仕事は好きですか?

三重野:いちおう好きです。大学のときから絵やグラフィックをやってきました。まわりの友人たちにも就職する雰囲気がなくて、学生の延長でアーティストになったり自分で仕事をやっていくイメージが強かったので、いまみたいにきちんとお金をもらえるようになるまでの道のりは長かったですけど。

左から:三重野龍、木津毅

木津:大学を出て最初の仕事は、『赤塚不二夫マンガ大学展』(京都マンガミュージアム、2011年)?

三重野:そうです。無職状態の自分を心配して、大学の人が声をかけてくれたんですよね。

三重野龍(みえの りゅう)
1988年兵庫県生まれ。2011年京都精華大学グラフィックデザインコース卒業。大学卒業後、京都にてフリーのグラフィックデザイナーとして活動開始。美術や舞台作品の広報物デザインを中心に、ロゴやグッズなど、文字を軸にしたグラフィック制作を実践。

木津:じゃあ、いきなりフリーランスから。

三重野:就活で面接受けるのもなんだか怖くて。何もしないままぬるっと始めた感じです。

木津:タイミングってありますよね。僕は就活に失敗した組で、ライターをやりたい意識はあったんですけど、そう簡単に出版社に入れるでもなくバイトしながら親に心配される生活を送ってました。

ちょうどそのときに野田努さんが編集長の雑誌『ele-king』でライター募集があって、僕は野田さんの大ファンだったから「これでダメだったらあきらめよう」と思いながら応募したんです。そこで採用されて、いきなり現場で書き始めるっていうのが最初でした。野田さんから叱咤激励されつつ、いろんなことを教えてもらいました。

木津毅(きづ つよし)
ライター。1984年大阪生まれ。2011年音楽メディア『ele-king』にてデビュー。以降、音楽、映画、ゲイ / クィアカルチャーを中心にジャンルをまたいで執筆。編書に田亀源五郎の語り下ろし『ゲイ・カルチャーの未来へ』(Pヴァイン)がある。連載にエッセイ「ニュー・ダッド あたらしい時代のあたらしいおっさん」(『cakes』)、「LGBTQ通信」(『ミュージック・マガジン』)、「話題は映画のことばかり」(『EYESCREAM』)など。『カジカジ』終刊まで映画ページを担当。

三重野:フリーランスってある意味自由ですけど、怒ってくれる人や頼れる人がいないのがつらいところですよね。ノウハウや合理性が身についてないから、小さいことにやたら時間がかかって悩んだり。あとは金銭面も不安。3年間ぐらいはスリリングな生活でした(笑)。

木津:僕も3年目までが本当につらかったです。

三重野:2015年あたりから自分なりのやり方が固まってきて、仕事も途切れなくなってくると筋道が見えてくる。

三重野による『工芸を分解してみる』展(京都伝統産業ミュージアム、2020~2021年)ビジュアル

木津:転機というよりも、具体的な経験の積み重ねなんですよね。その先で個性みたいなものが自分でもわかってきて、ジャンルの異なる原稿でも自分のポリシーがにじみ出てくるようになるというか。

三重野:個性の問題は、いつまでたっても難しい。「自分はこうしたい」というのは常にあるし、デザイン業の性質として「相手の望みを叶えたい」とも思います。そこは本当に人それぞれだと思いますね。

木津:なるほど。じゃあ、仕事を続けていくうえで「好き」って気持ちのほかに必要なものは?

三重野:色々あると思います。例えば「好き」っていうイメージを具現化するためのスキルと、それを研ぎ澄ましていくための訓練は同時に必要。そこがぼやっとしたままではダメで、ストイックさが大事です。

木津:ストイックさ。

三重野:それしか自分の武器がないとも言える(笑)。でも強い絵を作るっていうのは武器だと認識してます。自分の仕事ってわりと「文字」だと思われがちなんですけど、字と図の画面全体でパワーを出すのがじつは自分の得意分野です。

三重野による、京都のギャラリー&ショップ「VOU」のイベントビジュアル

友人価格の仕事依頼は引き受ける? 仕事選びの中心にあるのは「好きだから動く」こと。

木津:こういうテーマだとよくある話題ですけど、業界的なコネクション作りについてはどう考えてます?

三重野:僕はほとんど人伝てでしか仕事がないんです。だからコネは大切とも言えるんですけど、仕事のためって感じじゃあないんですよね。京都のコミュニティ感というか、個人で仕事している人ばっかりだから、たまたま一緒に呑んで、話をして、仲良くなって。そのつながりで後々一緒に仕事することになるとか。

木津:たしかにそれは京都っぽい感じがします。僕は、映画について書いたりすることもあって土地柄に関わらない仕事が多いんですよね。実際、東京のメディアからの仕事が多いです。

木津がゲスト出演した三原勇希×田中宗一郎のポッドキャスト『POP LIFE:The Podcast』(Spotifyを開く

木津:三重野さんは、引き受ける仕事に関しての基準ってありますか?

三重野:僕は仕事を選ばないタイプなので、スケジュールと金額が担保されてたらけっこうなんでもOKです。むしろ自分の知らない世界の仕事がくると嬉しい。

木津:それ嬉しいですよね。僕もたまに「なぜこれを自分に?」っていうのがあるんですけど、いろいろと依頼の理由を聞いていくとなるほどって思える発見があったりする。もちろん「求められたら答えなきゃ」って思っちゃって空回りすることもありますけど(苦笑)。

三重野:ちょっとハードル上がりますよね。例えば「VOU」って京都のスペースのグラフィックにずっと関わってるんですけど、「それを見て依頼しました」という人に対して、そのままVOU風のものを返してもつまらないし。と言って、かけ離れすぎてもダメだし。

木津:友人関係の依頼はどうですか? 音楽や映画もそうで、文化って東京一極になりがちでしょう。だから大阪のコミュニティに関わる依頼って僕はあまりないんですけど、密かに大阪を盛り上げていきたい気持ちがあるんですよね。

三重野:京都を盛り上げるっていうよりは、グラフィック全体を面白くしたいという気持ちがあって。それを共有できる友人たちは大事にしたい、一緒に盛り上げていきたいとは思ってます。そういう案件に関しては友だち価格でも受けちゃいますね。

金額についてプロはシビアでないと、って声も聞きますけど、それ以上に大事な「作る」ことがあるというか。それと、意外と金額うるさい人ほどギャラが安かったりもする。それはどうなの、って思ったりしてます(笑)。

木津:(笑)。友人って考えると、インディでやってる人が多いから、予算的にみんな大変なのはわかりますし。

三重野:みんなで盛り上がりたいじゃないですか。僕はそのときにデザインで関われたら嬉しい。作る人、何かする人がいっぱいいるのが京都の文化だし、それを昇華させられる仕事ができればいいですね。

三重野はこの日も「VOU」の靴下を履いていた

木津:VOUのグラフィックを見ると、いい意味での「遊び」感が生きてますよね。

三重野が手掛けた『VOU TEAMWORK / 棒チームワーク』ビジュアル

三重野:楽しい方向に向かい続けていたいからかな? 仕事の話をしてるんだけど、げらげら笑ってる感じがいいじゃないですか。仕事を続けていくための努力も必要。でも、いちばん大事なのは「好きだから動く」ってことだと思ってます。

1988年生まれの三重野。1984年生まれの木津。すでにさまざまな場所と機会に活躍している2人だが、同世代のクリエイターの出会いを演出してきたのもPARCOの歴史であり、場所的な重力と言えるかもしれない。

SkiiMaでは、関西のショップがセレクトしたグッズの販売も行なわれている

かつてないほど「歴史」と「出会い」に意識的。心斎橋PARCOに感じた「不思議さ」の理由

ここで心斎橋PARCOに話を戻すのだが、この場所はかつてないほど「歴史」と「出会い」に意識的な店舗だ。それを明確に感じられるのが、レストランが集まった13階の「御堂筋ダイニング」。といっても、目的は飲食ではない。エレベーターのすぐ横に設置された、2つのパブリックアートだ。

簡易な休憩スペースを挟んで右にあるのはかつて渋谷PARCOの正面口を飾っていた「PARCO」ネオンサインの「O」の部分。そして左には大丸心斎橋時代以前の「そごう心斎橋本店」のエントランスの天井を飾っていたというモザイクタイルを移築した鶴丸梅吉作の『天空』がある。

ネオンサインの横にあるQRコードにカメラをかざすと、デザインを手掛けた五十嵐威暢のウェブサイトを見ることができる
そごう心斎橋本店から移築された鶴丸梅吉『天空』

この対照的な組み合わせについて、心斎橋PARCOの広報を担当する城戸かなめはこう説明してくれた。

城戸:心斎橋PARCOのオープンにあたって重視したのが「伝統と革新」のテーマです。大阪にお住まいの方にはおなじみですが、PARCO以前、この場所には大丸心斎橋店、そしてそごう心斎橋本店がありました。その歴史の連続性の象徴としてここに『天空』を移しました。

城戸かなめ(心斎橋PARCO広報)

城戸:また、2019年11月の渋谷PARCOの完全リニューアルの際に唱えた5つの新要素(「FASHION」「ART&CULTURE」「ENTERTAINMENT」「FOOD」「TECHNOLOGY」)を東京以外の場所で体現する初めての例がここ心斎橋です。コロナ禍の時代性も引き受けたうえで、心斎橋パルコでは「リアルとテクノロジー」「モノとコト」「日常とアート」がボーダレスに交わる、新しい商業ビルというテーマを設定しました。

そういった革新を具体的に示すものとして、ネオンサインの一部を渋谷から移築したんです。13階の「O」の他に心斎橋の地下2階には「A」があり、そして残りの「P」「R」「C」は、いまも渋谷PARCOに設置されています。

ネオンサインやモザイクタイルのようなモニュメントは人・物・事のさまざまな歴史を背負う存在だが、いまの説明を聞くと心斎橋PARCOに感じた「不思議さ」の理由もわかってくる。かつての、そして2019年に改装された渋谷PARCOの空間と比較すると、ここはどこか懐かしい。

それもそのはず、心斎橋PARCOは大丸心斎橋店の空間や客層をほぼそのまま受け継いでいるのだ。1階ではアクセサリーやハイブランドを扱うほか、1~2階には大丸時代からあるGUCCIなど、大手ラグジュアリーブランドが入居しているのもクラシックなデパートの特徴だ。

14階の窓から見える藤川勇造作の『飛躍』も、そごう時代から受け継いだもの

都市部、とくに東京の若者文化を象徴してきたPARCOを想像して足を踏み入れると、予想もしなかった新鮮な経験をあちこちですることになる。客層も、若者から高齢者までと幅広い。

城戸:そもそも10年前にあった心斎橋PARCOは、現在はH&M心斎橋さんがある場所にあったのですが、東京や名古屋とはだいぶテイストの違う、小型な店舗だったんです。ですから、いまの大阪のみなさんにとっては「そもそもPARCOって何?」という認識が強いんです。

それゆえ、今回のオープンは「大阪の人たちはPARCOで喜んでくれるだろうか……?」と我々もドキドキする経験でした。そもそも大阪にはあらゆる娯楽や商売がありますし、他の百貨店さんの存在感も強い。そのなかで新しい体験を提供するために、たくさんの議論を重ねてきたんです。

街のアイデンティティを再起動するために。PARCOの記憶はこれからも、それぞれの土地と共にある

そこで選んだのがPARCOの歴史を振り返ることであり、大丸、そごうの歴史と客層を受け継ぐことだった。例えば東急ハンズが入居する10階の壁面に展示されているのは、画家の黒田征太郎が数十年前に自ら手がけたPARCOのポスター上に、2020年に新たにライブペインティングを施したもの。また、地下2階に飾られた多数のペインティングは東學によるもの。両者とも、PARCOの歴史のさまざまな局面で関わりを持ってきたアーティストである。

黒田征太郎のライブペインティングの様子

地下2階に設置された、東學によるペインティング

城戸:ある一定の年代を越えると、1980年代のPARCOが掲げていたアート&カルチャーのイメージを覚えてらっしゃる方がいらっしゃいます。その記憶に触れることで、「PARCOが心斎橋に戻ってきました」ということをさまざまにお伝えしたいと思っているんです。

若者文化の特徴と言われつつ、じつはPARCOは半世紀以上の歴史を持っているんですね。その歴史を大事にしつつ、新しい世代の、感度の高いお客さまとも新たに関係を作っていく。それが心斎橋PARCOの目標なんです。

大阪における心斎橋といえば、大阪アメリカ村に象徴される「関西若者文化の発信地」だった。だが、2000年前後になると心斎橋以外の近隣地域に若い世代の関心は移り、むしろ「海外観光客が訪れる街」の印象が強まったという。その街のアイデンティティをもう一度再起動するものとして心斎橋PARCOはあるだろう。

韓国や台湾のアジア的ごった煮感が印象的な地下2階の「心斎橋ネオン食堂街」に入居している店の大半が、地元店舗からというのもそれを意識しての動きだろうし、さらに食堂街全体を共同プロデュースしているのも「アメ村の仕掛け人」として知られるフルタニタカハルら4名だというのだから、地域とのつながりは強い。

大阪に拠点を構えるTryHard JAPANが運営するエンタメ居酒屋「FUYOEN」(地下2階)には、関西で活躍するDJやダンサーが出演するステージも

城戸:そこも東京・渋谷とは違うPARCOの別の顔ですね。現在PARCOは全国に18店舗ありますが、じつは各地域のお祭りや商店街のコミュニティに積極的に参加して、それぞれの土地だからこそのあり方や、地域を盛り上げる役割をずっと探ってきたんです。

東京に生息する「サブカル者」として育ってきた筆者は、セゾンカルチャーの隆盛と共に語られることの多いパルコを、東京が象徴する多様さ、そして多様さのなかで「個」として生きる自由を与えてくれる場所として理解してきたところがある。

その理解は間違ったものではないと考えるが、東京の外では、また別のパルコも半世紀の歴史のなかで培われてきたのだ。その「当たり前の事実」にいまさらになって気づくとは……。しかしこれは嬉しい気づき、出会いでもある。心斎橋PARCOは東京のPARCOだけしか知らない人にとっても、新鮮な出会いを与えてくれるだろう。

店舗情報
心斎橋PARCO

住所:大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-8-3
営業時間:10:00~21:00
※地下2階は11:00~24:00、13階の飲食フロアは11:00~23:00
※営業時間は変更になる場合があります

SkiiMa SHINSAIBASHI

大阪・心斎橋のコミュニティ型ワーキングスペース「SkiiMa(スキーマ)」は、ヒトやモノが行き交う刺激溢れる空間の中で、「好き」なことを磨き、仲間と共に「好き」を形にできる場所。ビジネスの拠点だけでなく、新たな発想が生み出せるよう、ギャラリーを併設。様々なイベントを通して、各個人の知的創造を刺激します。

住所:大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-8-3 心斎橋PARCO 4F
営業時間:9:00~23:00
※受付時間は心斎橋PARCOの営業時間内



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