「フジワラノリ化」論 第14回 押切もえ 知的路線へのモデルウォーキング 其の三 女性誌への天下りをいかに食い止めるか

其の三 女性誌への天下りをいかに食い止めるか

水嶋ヒロが「執筆活動に専念する」として事務所を辞めたそうだ。事務所発表だったので真偽はいかほどかと疑いつつも根っからの歪んだ性格が発動、ホコリをかぶった辞書を開き「専念」という言葉を早速調べると、「ある事に心を集中すること。もっぱらその事に励むこと」とある。続けて「もっぱら」を調べると、「他はさしおいて、ある一つの事に集中する」という意味であるから、つまり、「専念する」を丁寧に膨らませると、「選択肢の中から一つだけをセレクトしてその一つだけをやり通す事」となる。「執筆活動に専念する」という唐突な宣言に処理しがたい違和感を覚えたのは、執筆活動を始めます、ではなく、専念する、と発した点に尽きる。専念すると言うからには「水嶋ヒロは執筆活動をしている」という前提認識が大抵に広がっていなければならない。しかし、その前提はどこにも無かった。幻冬舎か宝島社辺りが話を詰めていて翌日にドデカい広告でも打つのかと思っていたら、そんな事もなかった。すると本日(9/24)、執筆活動に専念するというのは、どうやら事務所からの“意図的”な誤報だったことが発覚、彼は俳優活動を今後も続けていくのだという。しかし、俳優継続の一報も、絢香と仲良くしている小倉から自慢げに漏れてくる情報だっただけに、こちらも“意図的”には違いなく、公共の電波を使う前にルノアールかどっかの会議室でも借りて話し合ってからにしろと、原稿の変更を余儀なくされたこちらの語気は荒くなってしまう。

「みんなに愛されるアイドル」の「みんな」って誰とか、「国際派女優」の「国際」の基準だとか、「抜群の好感度でブレイク中」の「抜群」や「ブレイク」の指標って何なのとか、いわゆる芸能人の人気を見定めるために明確な計測方法を設ける事は難しい。AKB48は投票という斬新な形でその人気を数値化させてみせたわけだが、それは会社の営業部員の売り上げ棒グラフと同様に、あくまでも「社内」の数値でしかない。社外同士、例えばAKB48の現在とモーニング娘。の最盛期と、どちらの人気が上だったのかを正確に計測する方法は無いのだ。計測する方法が無いと、その人気やブレイクという文言だけではその状態を長期化させにくくなる。デメリットだが、それはメリットにもなり得る。方法が無いからこそ、「みんな」とか「ブレイク」といった大きめの言葉をあやふやなままであっても引っ付けておけば、不思議とそれ相応に見え続ける、扱われ続けるという利点が生じるのだ。あやふやな人気というメッキが剥がれそうになったタイミングで、その「愛され範囲」を唐突に絞ってみせる行為は、ひとまずの夜逃げのようにして効果的だ。例えば、金子賢が格闘家を目指して頓挫した一件を、僕らは今、どう振り返るのか。あの時、「格闘家にもなれる金子賢ってスゲェ」と称してしまっていた事実を、思い返さなければならない。

女性誌というのは人気の輪郭を提示/設定する格好の場所である。雑誌内での人気は雑誌そのものの人気と呼応していくがゆえに個人にとって大きな広がりを持つ舞台となる。つまり、営業部内の棒グラフを伸ばせば伸ばすほど、それが社外評価にも繋がっていくという画期的な直流システムである。押切もえはそういう女性誌特有の生態系で生き延びてきた。「もえちゃん超カワイイ」と社内で交わされている情報に、こちらが後々になって外からの興味を振りかけていく。「エビちゃんもえちゃん」が現象化したのはこの順序だった。彼女たちが雑誌で身につけたものが飛ぶように売れていく、という「社内営業実績を報じるワイドショー」という順序が、彼女らの人気を象っていった。例えば今日、電車の中吊りに隈無く目をやると、メイク雑誌『MAQUIA』の表紙に抜擢された女性の写真の脇に、こんなメッセージがあった。「水原希子です。専属モデルになりました!」。例えば山田商事が「田中さんがこの度、課長になりました」と町内にビラを配っても「んなこといちいち報告するんじゃない」と怒られるに違いないが、女性誌の場合はとっても有効なのだ。あの雑誌に彼女が、という人事異動発令が、電車や新聞でおおっぴらに成される事の意義。押切もえは、自分の異動先のために『AneCan』を作ってもらった。社内成績によって別会社が設けられるという、これは極めて特別な措置なのだ。

そういった意義を見つけては、雑誌という組織に入ることで人気を再度勃興させようとする浅はかな企みが目立つようになった。つまり、これまで「なんとなくみんなに愛されていた」人が「そうでもないかも」と思われ始めた頃合いに、「いやでも、実はここでは熱狂的に愛されていますから」というインスタントな熱狂を作り上げる緊急避難場所として女性誌を選び始めたのだ。無論、その避難場所は、単なる避難ではなく再度の勃興においてもオイシイと知っているからこその土選びである。顕著なのは倉木麻衣だろう。宇多田ヒカルのパチモンだけど宇多田よりカワイイという触れ込みのもと、気付けば10年も食い繋いでみせた彼女であったのだけれども、その途中で譲歩したテレビ解禁やトーク解禁やらで相次いで平淡っぷりを露呈、神秘性の保持を心がけていた初期を剥ぐあれこれが裏目に出てしまったのだった。そんな彼女が、去年から今年にかけて女性誌の表紙を飾るようになった。化粧品のCMに出ていたのも記憶に新しい。いやはや、この違和感ったら無かった。だって、女性誌という構造は、社内評価が社外へと広がっていく媒体であって、大手企業で使えなくなった人材を天下りさせるような媒体では決して無いはずだったから。

「フジワラノリ化」論 第14回 押切もえ

ところが倉木麻衣はやってきた。CMとCDアルバムの発売を対応させるように「わたしの、しらない、わたし。」と歌い、新たな自分を発見したというハイテンションを受け手に強いてきた。倉木麻衣の知らない倉木麻衣を、僕はわざわざ知りたくはなかった。誰が知りたかったかとなればそれはやっぱりいつものファンなのだった。倉木麻衣の魅力を倉木麻衣のファンに再認識させる為に女性誌や化粧品のCMを使うということ、これは、かつての敏腕営業マンの栄光を振りかざして天下りし、余力を自家発電で引っ張り出して新味として売り込もうとする傲慢な人事異動プレイに過ぎなかった。倉木麻衣だけではない。例えば熊田曜子はどうだ。熊田は『with』やその連載企画をまとめた本の中で、赤裸々にセックスについて語る立ち回りを得た。片一方でエロ実話系雑誌ではいつものようにグラビアを淡々と披露しているのだから仕事を選べない状況が続いているのだが、この開拓は、事務所なり本人なりが意を決した本格的な勝負であったのだろう。しかし、確実に上滑りしている。男子の目線がどうにも今まで程入ってこなくなったからその隙間を女性の共感で埋めましょうかという算段は理解出来るが、それは容易ではない。弱小広告代理店臭の消えない熊田の女性誌への介入は、近いうちにあたかも何事も無かったかのように消されていくだろう。グラビアアイドルの名刺代わりになるグラビア誌が軒並みAKB48の誰かに奪われている現在(夏川純、山本梓、元気だろうか)において、熊田の国境越えは狙いとして理解は出来るが誰の共感も得られなかった。

それじゃ釈由美子はどうなんだ、井川遥はどうなんだと、この国境越えについて話を深めていきたくなるが、ひとまずは別の機会に譲ろう。とにかく、「君は誰に好かれているのか、支えられているのか、輪郭化せよ」と迫られた際に、女性誌という役回りはこれまでもこれからも効果的なのだ。そこへ、あまりにも天下り的、強権発動的な人材をまぶしていくと、役回りの根幹がブレていく可能性が生じてしまう。例えば、沢尻エリカの復活をそのまま見過ごす勇気が女性誌には必要だった。しかし、付き合ってしまった(『GLAMOROUS』など)。そもそも復帰が「たかの友梨ビューティクリニック」だった時点で、相当数の賢い人々は「あ、化粧品会社ではないのだな」と沢尻ブランドの暴落を悟っていた。ならば、女性誌は、沢尻というかつての大きな存在に付き合う必要は無かったはず。倉木麻衣も熊田曜子についても、ひとまず場を与えてあげるという甘い措置を施すべきではなかった。これらの天下りが引き続けば女性誌という土壌は荒れていくに違いない。

こういった環境下で、押切もえは逆説的に第一線のモデルとしての存在感を高めてくるのではないか。現在の押切もえは、前回までの議論に記したようにモデル以外の「知的」へと首を突っ込んでいるものの、首から下はまだモデルのポージングをしている。これから、バランスを立て直すのか、それともまだまだ間違えるかによるけれど、ある種愚直にモデル業に勤しめば、末永く第一線に留まっていられるのではないか。あるジャンルの一時代を征していた何がしかの訳あり物件が女性誌に舞い込んでも、もうそれは期間限定の残り火でしかない。表紙だとか連載だとか、社内にいる人間にとっては天下りの権化としか思えない高待遇を持ってしても長続きしない。それらの厄介な物件が立ち去った後には、やはり社内のサラブレッドが幅を利かせるに違いない。そう、ここで押切もえが強くなってくる。少し待機すれば、女性誌業界の相対評価として押切もえの株が上がってくるに違いない。繰り返すが、その時にヌルい知的路線をウォーキングし過ぎていたら話は変わる。わたしの、しらない、わたしは、結局どこにあったのでしょうと、立ち去り方すら分からず彷徨う連中と一緒くたにフェイドアウトさせられるハメになるかもしれない。

実はこの連載で押切もえを取り上げるに至ったのは、ある読者からのメールだった。その女性アパレル店員からのメールには、「ノリ化論で倉木麻衣を取り上げて欲しいんです」とあった。その返信として、倉木麻衣については上記のような感触を持ってはいるのだけれど、それよりも押切もえが気になっているんです、と返信した。やりとりが何回か続いた。女性誌は勿論、その読者にも多く接するであろう現役アパレル店員から、倉木に対する厳しい査定に続き、押切に対するある一定の理解と嫌悪に、自分との共感が得られた。そこで、思いついた。この人と対話してみれば、押切もえとその周辺の現在を生臭く表出させられるのではないかと。だってこの人は、メールに、「近年女子へと受け渡された熊田曜子のあのクビレは依然として男子のものです。もし、まだ間に合うのであれば男子サイドへ返還したいです」と書いてきたのだからセンスは抜群である。というわけで次回は、「あるアパレル系勤務女性との対話」と題して、全編、彼女との対話でお届けする事とする。発見の多いテキストになる事と思う。



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