「フジワラノリ化」論 第15回 加藤浩次 山本復帰を待望するための執拗な加藤論 其の一 加藤浩次はマイケル・サンデルである

其の一 加藤浩次はマイケル・サンデルである

夜遅く、何度目かの再放送でようやくマイケル・サンデル教授の東大講義の模様を観た。今年5月に刊行された彼の著書『これからの「正義」の話をしよう』は、哲学書としては異例の売り上げを記録している。高校生の女子マネージャーがドラッカーを読むのとは違って、これがなかなか難義な本なのである。この本がここまでウケた理由、それはサンデル教授の中立的な言質にあると読む。東大講義を観ていても、とにかく議題を長時間泳がせるのだ。「Aだ」と言う人がいる、「Bだ」と言う人がいる。すると、「Bよ、Aをどう思う?」と問う。次に「Aよ、Cという選択肢は考えられないかね?」と、泳がした議題を広げていく。選択肢を増やして受け手を参加させ議論に血を通わせるのだ。これは、今年流行りに流行った池上彰の適確な情報整理術にも似ている。右でも左でもなく、中立の立場で諸問題を例示していく。こういう問題があるのですよ、という素材出しを初等教育ばりの懇切丁寧さで行なっていく易しさ。そう、このサンデル教授にも、テーマや議論の深度は異なれど池上同様の易しさがある。どういう答えを出したのか、ではなく、どういう考え方があるのかという道筋に主眼を置く。東大の講義を観る限り、サンデル自身は自家発電を最小限に抑えている。誰かに尋ね、もう一方の意見を探り、ひとまず両サイドを同じ場に立たせ、混ぜてこねた後で、調味料をふりかけて、次のパスの相手を求める。議題が膨らんだ段階で、素晴らしい議論だった、君たちのおかげだと締めくくる。そう、サンデルって、ちょっとズルいのだ。

彼のパフォーマンスを観ていて、今年サンデルの本を買った人の中に、去年「オバマ演説集」を買った人が多くいたのではないかという邪推が沸いてきた。身振り手振りでとにかくチェンジだと連呼した彼の支持率は今年急降下した。そしたら今年、何があろうとひとまず人の意見を聞くサンデルがウケた。2009年のオバマと2010年のサンデルが並ぶ本棚は、世の流れを象徴している。「オレはこう思う!」から「キミはどう思う?」への流れ。さて、この流れをふまえて2010年最後のフジワラノリ化論へとスライドしていこう。

サンデルの中立的な議論立てを浴びながら、和田アキ子や島田紳助、そしてみのもんたの現在を考えていた。好きになりようのない司会業の面々である。この3名に共通すること、それは、「自分が司会をする以上その場は自分の統治国家でなければならない」と決め込む態度である。「アッコにおまかせ!」で彼女がダブルピースをしながら入場してくるあの光景、みのもんたが隣の女子アナを「では○○クン、お願い」と首長ぶる瞬間、島田紳助が支配下にある芸人だけを集わせて毒素をバラまくあの構図。和田アキ子に寄り添う峰竜太は、頷きと苦笑いだけで一時間を過ごし、みのもんたの話を聞くスタッフから過剰な笑い声が聞こえ、島田紳助の動きに応じて東野幸治は忙しなく立ち上がったり座ったりを繰り返している。視聴者はこの閉鎖国家の法律を知り尽くしている。んで、飽きている。「どうせ小沢は裏で何かやってんでしょ」と同じ温度で、ブラウン管の前面に映るこれらの面々を観て、どうせお気に入りのイエスマンだけで番組やってんでしょ、という分析を、既にし終えている。分析を終えた上でも楽しむ人はいる。だから彼等はまだ死なない。なんだかんだで高速道路作ってくれたしと何十年も自民党の古株に投票し続ける方々と同様に、なんだかんだで面白くしてくれてるし、という譲歩で、彼等を肯定し続けていくのだ。オバマ的というより金正日的、サンデル的というより金八先生的、つまり、「俺の言うことを聞け」という宣言を、マジに「俺の言うことを聞け」という目的に使っているのが彼等なのだ。時代は、「オレはこう思う!」から「キミはどう思う?」なのに。池上的に、サンデル的に、全く珍妙な光景である。

極楽とんぼから強制的な引き算で独立した加藤浩次を毎朝テレビで見かける度、この人は「意外と中立的であろうとする人」だという印象を持ってきた。マンケル・サンデルから和田アキ子らを思い、雑念を沸かした所で、もう一度サンデル側に議論を戻そうとする時、司会者とカテゴライズされる誰を「サンデル的」として持ち出せるかと考えた。
 ※中立で、人の話をよく聞く。
 ※一通り意見を出させて、「よく考えましたね」を結論にしてしまう。
そう、このサンデル的手法を持つのが加藤浩次だったわけである。2006年から朝のワイドショー番組「スッキリ!!」でメインキャスターを務めてからというものの、加藤はお笑い業よりも司会業をメインに活動している。「スッキリ!!」以降のお笑いとの距離の取り方については別の回で触れようと思っているが、サッカー番組然り、ビジネス番組然り、加藤の司会業の拡大っぷりは露骨に目立っている。ご覧頂ければ分かるが、彼はどの瞬間も1人では目立たない。「スッキリ!!」ならば葉山エレーヌとテリー伊藤に挟まれて、「スーパーサッカー」でも「がっちりマンデー!!」でもアナウンサーと隣り合うか挟まっている。扱いも、対等である。峰竜太的な、カクカク頷いてシンバルを叩く猿のオモチャような人材を必要としない。この中立体制こそ、「加藤浩次=サンデル」の最たる理由になる。誰かが取り仕切るショーはタモリと黒柳徹子だけで十分なのであって、とりわけ「ワイド」な「ショー」で脂っこい主義主張をその村の長に持たせてしまっては、それだけで息苦しくなるのだ。「スッキリ!!」には日替わりのコメンテーターが2名の枠で設けられている。例えば月曜日のコメンテーターの1人である勝谷誠彦が、尖閣問題について唾を飛ばしながら怒鳴る。例えば水曜日のおおたわ史絵が、知らない話題を表層的なコメントで乗り越えようとする。加藤はこのどちらにも優しくしない。勝谷の挑発には、「はい、勝谷さんによる挑発でした」という顔で済ませようとする。おおたわの余白たっぷりのコメントには、丁寧なフォローをせず野放しのまま次へと進む。時たま加藤が感情的になって、それは違うんじゃないですかね、と歯向かうこともあるのだが、ここへきてようやく芸人である強みが出るのか、誰かのNOと自分のYESがぶつかった時には自分で一言添えて題材を巧いこと終息させて次に進めていく。譲らないし、任せもしない。しかし、相手の意見は殺さない。テリー伊藤という「極論」の名手を活かすにも、この「転回」方法は建設的なのだ。

「フジワラノリ化」論 第15回 加藤浩次

この連載ではお笑いの、とりわけ吉本興業の芸人は取り上げて来なかった。お笑いブームに合わせていくつかお笑い評論本も出ており目を通してはいるが、どうしても吉本興業という護送船団が、その人々の身動きを司っている気がして、論じようと思えなかったのである。千原ジュニアの「いつのまにか第一線に」、品川庄司・品川の「いつのまにか文化人風味」についてシニカルに考えていくことも出来るのだが、どうしたって「だって吉本だからね」に回収させてしまいそうな気がしたのだ。だから吉本芸人を避けてきた。でも加藤は取り上げる。何故か。この人の、「いつのまにか司会業」に、だって吉本だから、のエキスは殆ど無い。「スッキリ!!」で司会を務めて数ヶ月後、相方の山本は不祥事で芸能界から追放された。加藤の狂犬っぷりが山本の破天荒とブツかり昇華していく破壊芸が大好きだった。その芸は、プロデューサーの用意した一言ネタを恥ずかしがらずに興じる「エンタの神様」が台頭する時代には不要になった。そして加藤は、「めちゃイケ」という家族形態に戻ったときだけ、お笑いの意識を戻すようになっていた。相方もいない、時代は喧しさとクドさを嫌悪するようになった、そこに司会業が転がり込んだ。キレることを先立たせていた加藤が、実は人の話を聞く、という選択肢を持っていた。加藤浩次、この人は護送船団の乗組員ではないのだ。むしろ、太った相方が乗っていたせいで手漕ぎボートが転覆したのだから、彼は被害者だったのか。半ば沈没した船からの蘇生は実力なのか偶然なのかを見定めていく必要があるだろう。そして、個人的に偏愛する山本復帰を待望しなければならない。そのためのテキストにもなっていく。

マイケル・サンデルは、人を否定しない。そうか、君はそう思うのか、では、そこの君は彼の意見をどう思う、と話題をふる。集まった所で、そのどれもがあったからこそこんなにふくらみのある議論ができました、感謝しますと、講義を締めくくる。参加者への過剰な気配りは、「スッキリ!!」における加藤浩次も同様だ。でも実は、サンデルも加藤も、人に意見を求めながらも、最初から議論の行く先を決めてかかっている気配がある。加藤浩次、どうやらこの人は相当な策士のようだ。これからの「加藤」の話をしよう。



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